嘘つきな天気雨みたいな恋だった

 どん底の自己嫌悪に突き落とされた、翌日の放課後。
 部室のドアを開けると、そこには信じられない光景が広がっていた。

 先輩が、机の上に広げていた原稿用紙やプロットノートを、無造作に学生鞄へと押し込んでいるところだった。

「……何をしているんですか」
「あ、雨音。……うん。もう、片付けようと思って」

 先輩は力なく笑い、手元のバインダーをパタンと閉じた。

「俺、やっぱり才能ないわ。もう小説書くの、やめようと思う。あいつの隣に立つなんて、身の程知らずだったんだよ」
「……」
「これからはさ、普通に放課後遊んで帰ろうぜ。お前とゲームしたり、ファミレスで駄弁ったりさ。そういう普通の日々でいいよ、俺は。……今まで、無理に付き合わせてごめんな」

 ドクン、と。
 心臓が、甘く、重たく跳ねた。

(あぁ……)
 それは、私の中に巣食う醜いエゴが、最も望んでいた『甘い結末』だった。
 傷ついた彼を優しく慰め、叶わない夢も、高嶺の花への想いも、すべて諦めさせてしまえばいい。そうすれば彼は、この狭くて埃っぽい部室で、ずっと私だけの「先輩」でいてくれる。

 喉から手が出るほど欲しい、悪魔の囁き。
 「そうですね」と、たった一言だけ同意して微笑めば、私の恋は成就するのだ。

 口を開きかけた、その一瞬。
 伏せられた彼の目元を見た途端、私の脳裏に、強烈な閃光が走った。

 ――『俺はお前と光合成がしたいんだ。完璧だろ。生命の神秘を感じないか?』

 深夜二時のファミレス。網膜を焼くような蛍光灯の下。
 頭を掻き毟り、泥水をすするような思いで言葉を紡いでいた時の、あの狂気じみた、異常なほどに輝いていた彼の瞳。
 私が世界で一番愛した、不器用で、どうしようもなく熱い、クリエイターの横顔。

「……ふざけないでください」

 気付けば私は、先輩の手からカバンを引ったくっていた。
 逆さまに持ち上げ、中身の原稿やノートを机の上へと乱暴にぶちまける。バサバサと、白い紙の束が雪のように舞い散った。

「な、なんだよ急に!」
「一度落ちたくらいで、尻尾を巻いて逃げるんですか? 才能がない? 普通の日々でいい?」

 驚く先輩に向けて、私は優しい慰めの言葉など一切かけない。
 代わりに、これまでで一番冷たく、鋭い言葉の刃を真っ向から突きつけた。

「そんな中途半端な覚悟で書いた言葉で、あの人を振り向かせようとしてたんですか。先輩の夢は、その程度の『嘘っぱち』だったんですね。軽蔑します」
「っ……!」

 図星を突かれ、ハッとして言葉を失う先輩。
 私はペンケースのジッパーを引き、中から「新品の赤ペン」を取り出した。
 パチン、と乾いた音を立ててキャップを外す。

「先輩が落ちたのは、才能がないからじゃありません」

 震えそうになる声を、お腹に力を込めてねじ伏せる。

「私の添削が、甘かったからです。私が先輩に遠慮して、妥協を許したからです。軍師である私の、完全な敗北です」

 自分の醜い執着心と手加減。そのすべての責任を、私は「軍師としての甘さ」にすり替えた。

「だから、もう二度と先輩の甘えは許しません。一文字の妥協も、一瞬の逃避も絶対に許さない。血を吐くような思いで全部書き直させて、今度こそ絶対に大賞を獲らせます」

 私は彼を一瞥し、そして口角を鋭く吊り上げてみせた。

「――覚悟はいいですか、私のポンコツな主様?」

 沈黙が降りた。
 散らばった原稿用紙と、私と、そして先輩。
 数秒の空白の後。先輩の瞳の奥に、消えかけていた熾火が再びバチッと音を立てて燃え上がるのを、私は確かに見た。

「……ああ」

 先輩は深く息を吐き出し、散らばった原稿の一枚を拾い上げた。

「頼む、雨音。……俺を、勝たせてくれ」

 再びペンを握り、新しい原稿用紙に向かい始めた彼の横顔。
 それを見つめながら、私は誰にも気づかれないように、静かに、静かに微笑んだ。

 自分の「恋」を、今この瞬間、永遠にこの部室の床下へ埋葬した。
 悲しくはない。これが私の選んだ戦い方だ。

 私は彼を、世界で一番鋭くて、美しい剣に鍛え上げる。
 そしてその完璧な剣で、私自身の恋心を粉微塵に切り裂き、あの人の元へと送り出すのだ。

 恋する少女は、昨日死んだ。
 ――今日から私は、彼を勝たせるためだけの、血の通わない機械だ。