落選の報告から数日が経過した放課後。
部室には、息が詰まるような重たい沈黙が澱のように沈んでいた。
机に突っ伏したまま、身動き一つしない先輩。
私は自動販売機で買ってきた冷たい缶コーヒーを、彼の頭の横にそっと置いた。微かに肩がビクッと跳ねたが、彼は顔を上げない。
その力無い背中を見下ろしながら、私は自分の胸の奥で、じわりと温かいものが広がるのを感じていた。
ひどく満たされている。彼がひどく傷ついているというのに、私は今、彼が「どこにも行かず、私の隣にいる」という事実に、紛れもない安堵を覚えているのだ。
その残酷な事実が、遅効性の毒のように、私の精神をじわじわと侵食していく。
たまらず視線を逸らし、私は自分のカバンから「落選した原稿の控え」を取り出した。
ページをめくると、そこには私が書き込んだ無数の赤字が残っている。
『ここ、心理描写が甘いです』
『この展開、ご都合主義すぎませんか』
かつては「彼を勝たせるための、愛ゆえの厳しさ」だと信じて疑わなかった自分の筆跡。
けれど、落選という結果を突きつけられた今、その赤字たちは全く別の意味を持って私の目に飛び込んできた。
(……どうして、ここをもっと厳しく指摘しなかった?)
クライマックス直前の、少し間延びした会話シーン。
(なぜ、この表現で妥協した?)
ヒロインの魅力が、いまいち伝わりきらない描写。
以前は「先輩の個性を活かすため」「彼の言葉を尊重するため」だと思っていた。でも、本当にそうだったのか?
(違う)
本当は、彼が「あの人」の元へ羽ばたいていくのが怖かったからではないか。
彼が完璧な作品を書き上げ、コンクールで優勝し、私の手元から永遠に去っていく現実を無意識に恐れた結果、私は「手加減」をしたのだ。彼が空を飛べないように、気づかれないよう少しずつ羽を毟るように、甘い添削で彼を狭い世界に留めようとした。
息が苦しくなり、私は逃げるように部室を飛び出した。
冷たい水で顔を洗おうと手洗い場へ向かった廊下の角で、不意に、眩しい光とすれ違った。
「あ、雨音ちゃん。こんにちは」
窓から差し込む秋の西日を背に受けて微笑む、学校のマドンナ。
彼女は彼の落選など知る由もなく、今日もただそこにいるだけで気高く、美しく、一点の曇りもなかった。
あまりにも完璧な「正しさ」の塊。
「……こんにちは」
蚊の鳴くような声で挨拶を返し、すれ違う。
彼女の放つ圧倒的な光に当てられ、私の心に溜まった泥のような感情が、より一層黒く濁って浮き彫りになる。
私は自分のことを、叶わない恋を胸に秘めながら彼を支える「健気な軍師」だと思い込んでいた。
けれど、その正体は全く違った。
私は、先輩の夢を折ってでも自分の隣に縛り付けようとする、醜い執着の塊。身の毛のよだつような、浅ましいバケモノだ。
足を引きずるようにして、部室へと戻る。
ドアを開けると、先輩はやっと身を起こし、置かれた缶コーヒーを両手で力なく包み込んでいた。
「……雨音」
空ろな瞳が、私を捉える。
「俺……もう、書けないかもしれない」
ぽつりとこぼれ落ちた、最弱の弱音。
いつもなら、「何甘ったれたこと言ってるんですか、マイナス一億点です」と即座に一蹴し、彼の背中を叩きまくっているはずだった。
けれど、声が出ない。
喉の奥がカラカラに乾き、唇が小刻みに震える。
なぜなら、彼のその「もう書かない」という絶望こそが、私が心の奥底で一番望んでいた「彼がずっと私だけのものになる」という結果に他ならなかったからだ。
(あぁ、そうか)
私の恋は、彼を殺すナイフだったのだ。
私が右手に握りしめていた赤ペンは、彼を勝たせるための鋭い武器なんかじゃない。彼を逃がさないために作り上げた、卑怯な毒のナイフだったんだ。
視界がぐにゃりと歪み、涙が溢れそうになるのを必死に堪える。
声にならない悲鳴が、胸の内側を激しく掻き毟った。
先輩を落とした犯人は、審査員じゃない。
――私の、この浅ましくて、甘ったれた覚悟だ。
部室には、息が詰まるような重たい沈黙が澱のように沈んでいた。
机に突っ伏したまま、身動き一つしない先輩。
私は自動販売機で買ってきた冷たい缶コーヒーを、彼の頭の横にそっと置いた。微かに肩がビクッと跳ねたが、彼は顔を上げない。
その力無い背中を見下ろしながら、私は自分の胸の奥で、じわりと温かいものが広がるのを感じていた。
ひどく満たされている。彼がひどく傷ついているというのに、私は今、彼が「どこにも行かず、私の隣にいる」という事実に、紛れもない安堵を覚えているのだ。
その残酷な事実が、遅効性の毒のように、私の精神をじわじわと侵食していく。
たまらず視線を逸らし、私は自分のカバンから「落選した原稿の控え」を取り出した。
ページをめくると、そこには私が書き込んだ無数の赤字が残っている。
『ここ、心理描写が甘いです』
『この展開、ご都合主義すぎませんか』
かつては「彼を勝たせるための、愛ゆえの厳しさ」だと信じて疑わなかった自分の筆跡。
けれど、落選という結果を突きつけられた今、その赤字たちは全く別の意味を持って私の目に飛び込んできた。
(……どうして、ここをもっと厳しく指摘しなかった?)
クライマックス直前の、少し間延びした会話シーン。
(なぜ、この表現で妥協した?)
ヒロインの魅力が、いまいち伝わりきらない描写。
以前は「先輩の個性を活かすため」「彼の言葉を尊重するため」だと思っていた。でも、本当にそうだったのか?
(違う)
本当は、彼が「あの人」の元へ羽ばたいていくのが怖かったからではないか。
彼が完璧な作品を書き上げ、コンクールで優勝し、私の手元から永遠に去っていく現実を無意識に恐れた結果、私は「手加減」をしたのだ。彼が空を飛べないように、気づかれないよう少しずつ羽を毟るように、甘い添削で彼を狭い世界に留めようとした。
息が苦しくなり、私は逃げるように部室を飛び出した。
冷たい水で顔を洗おうと手洗い場へ向かった廊下の角で、不意に、眩しい光とすれ違った。
「あ、雨音ちゃん。こんにちは」
窓から差し込む秋の西日を背に受けて微笑む、学校のマドンナ。
彼女は彼の落選など知る由もなく、今日もただそこにいるだけで気高く、美しく、一点の曇りもなかった。
あまりにも完璧な「正しさ」の塊。
「……こんにちは」
蚊の鳴くような声で挨拶を返し、すれ違う。
彼女の放つ圧倒的な光に当てられ、私の心に溜まった泥のような感情が、より一層黒く濁って浮き彫りになる。
私は自分のことを、叶わない恋を胸に秘めながら彼を支える「健気な軍師」だと思い込んでいた。
けれど、その正体は全く違った。
私は、先輩の夢を折ってでも自分の隣に縛り付けようとする、醜い執着の塊。身の毛のよだつような、浅ましいバケモノだ。
足を引きずるようにして、部室へと戻る。
ドアを開けると、先輩はやっと身を起こし、置かれた缶コーヒーを両手で力なく包み込んでいた。
「……雨音」
空ろな瞳が、私を捉える。
「俺……もう、書けないかもしれない」
ぽつりとこぼれ落ちた、最弱の弱音。
いつもなら、「何甘ったれたこと言ってるんですか、マイナス一億点です」と即座に一蹴し、彼の背中を叩きまくっているはずだった。
けれど、声が出ない。
喉の奥がカラカラに乾き、唇が小刻みに震える。
なぜなら、彼のその「もう書かない」という絶望こそが、私が心の奥底で一番望んでいた「彼がずっと私だけのものになる」という結果に他ならなかったからだ。
(あぁ、そうか)
私の恋は、彼を殺すナイフだったのだ。
私が右手に握りしめていた赤ペンは、彼を勝たせるための鋭い武器なんかじゃない。彼を逃がさないために作り上げた、卑怯な毒のナイフだったんだ。
視界がぐにゃりと歪み、涙が溢れそうになるのを必死に堪える。
声にならない悲鳴が、胸の内側を激しく掻き毟った。
先輩を落とした犯人は、審査員じゃない。
――私の、この浅ましくて、甘ったれた覚悟だ。

