人間は死んでもなお、孤独である。
丹羽律は幼い頃から、良くないものを引きつける。体格が小柄なこともあり、街を歩いていると必ず一度は怪しいセミナーの勧誘をされる。どんなに厳しく断っても、彼らはなかなか諦めてくれない。しまいには丹羽はいつも走って逃げていた。
丹羽の“良くないもの“には生きている人間以外も含まれる。丹羽は今日だけでも学校に来るまでのあいだ、幽霊を3回見ていた。まず最寄り駅のホームから線路へ投身自殺を繰り返す幽霊。次に公園のベンチでカップルのあいだに座る幽霊。最後にコンビニのセルフレジに並ぶ幽霊。いつまでも前に進まないから疑問に思っていたら、幽霊だったらしい。代わりに丹羽が後ろに並んでいた客に舌打ちされた。たまたま幽霊だと認識できたのが3体だっただけで、本当はもっといたのかもしれない。生きている人間と幽霊の区別がつかないほど、丹羽は霊感が強い。
丹羽は教室の扉を勢いよく開けた。数年前に建て替えられたばかりの校舎は設備が新しく、多少乱暴に動かしても大きな音が出ない。窓際の自分の席まで大股で進むと、黒板のうえにかけられた時計を見た。時刻は7時50分。普段の登校時間より数十分は早い。丹羽はひとつ溜息を吐いた。背負っていたリュックを机の上に置き、スマートフォンだけを手に取って教室を出る。まだ人の少ない校舎はひんやりとしていて、やけに静かだった。くわえて、いま丹羽が歩いている廊下は北向きに面していて、日の光が入らない。あたりが薄暗いというのも丹羽の心を不安にさせる理由のひとつだった。だから気分だけでも変えようとスマートフォンを操作し、再生リストのなかからサンバを流した。だれが言い出したのか定かではないが、明るい音楽は幽霊に効くらしい。真偽はともかく、何もしないよりはマシだろう。南米独特のリズムに体を揺らしながら、突きあたりの社会科準備室を目指し、歩を進める。扉の目の前まできたところで、いきなり中から人が出てきた。
「オレ!」
「うわああああああ」
叫んだ丹羽は跳ね上がった勢いのまま、数メートル先の柱まで逃げた。
「中谷先生やめてください……。」
「オレ!はサンバじゃなくて、フラメンコだけどな」
「どうでもいいです」
社会科の教師である中谷は特に反応することなく、廊下に落ちていたスマートフォンを拾い上げ、丹羽に手渡した。それを両手で受け取った丹羽は、すぐさま音楽を止める。また驚かされたりしたら、たまったものではない。
「丹羽、入れ」
中谷が準備室から顔を出すようにして、丹羽を呼んだ。いまだ柱のかげに隠れていた丹羽はその声にすら肩を跳ねさせ、またスマートフォンを落としそうになっている。
そもそも中谷は声が大きい。授業中に舟を漕いでいる生徒がいると目ざとく見つけてきて、必要ないほどの声量で名前を呼ぶ。その生徒は飛び起きたあと、荒い呼吸と共にだいたい心臓を押さえている。居眠りする方が悪いのだが、なんかこう、ご容赦願いたい。
「このプリントを全部運んでくれ」
「え、これを全部……?」
中谷は紙の束がうず高く積まれているテーブルを指さして言った。とても1人で運べる量ではない。最低でも準備室と廊下を10往復はしなければならないだろう。
「めちゃくちゃなこと言わないでください。さすがに僕ひとりでは無理です」
「ああ、A組の社会科係もくるから」
社会科係というのは、日本史や世界史、地理など社会科に関する宿題を生徒から集めたり、資料を運んだりする、いわゆる雑用係である。たまたま、係を決める日に風邪をひき休んでいた丹羽は、後ろの席の星沢による粋な計らいで社会科係になった。彼曰く、仕事量が少なそうな係にした、らしい。しかし毎授業のたびに、社会科準備室に教材やプリントを運ぶのを手伝わされ、今日もこうして朝から肉体労働を強いられていることを考えると、仕事量が少ないとはお世辞にもいえないだろう。星沢は仕事内容を知らなかったのだと信じたい。
「A組の社会科係って、誰ですか?」
「八田だよ。八田未悠」
丹羽は手慰みにプリントの端をめくっていた手をとめた。八田未悠。半年前のことを思い出し、丹羽は固く目をつぶった。
1年生のとき丹羽と八田は違うクラスだったが、2クラス合同で行う選択授業が同じだった。最初は何も思っていなかったが、同じ教室で授業を受けるうち、八田の他人の迷惑を顧みない無神経さや、全能感ただよう雰囲気に嫌気がさしたのである、静かに授業を受けたいのに、喧しい八田の声が耳に入ってくる。まともに注意しない教師にも問題はあったが、まじめに授業を受けない八田には確実に問題があった。現に今日も集合時間に間に合っていない。あの男は問題だらけなのである。
「ひとりでやるか……。」
自分に言い聞かせるようにして、丹羽は重い腰を上げた。
プリントを運ぶのは、思っていたより苦痛だった。腕が痛いとか足が疲れる以前に、退屈なのである。何もない廊下をただ歩くのが、これほどつまらないと丹羽は思っていなかった。1秒でも早く終わらせて教室に戻ろうと意気込み、プリントに手を伸ばす。
「あ。」
しかし力の入らない前腕は思うように動かずテーブルにぶつかり、上に鎮座していた紙の束が無残にも床に吸い込まれていく。その様子を呆然と見つめたあとで、何もかも嫌になった丹羽は紙の海に溺れるように、崩れ落ちた。
「自分で仕事を増やしたな」
窓にもたれてコーヒーを飲んでいた中谷が、他人事のようにつぶやく。
「見てたなら手伝ってくださいよ」
丹羽は中谷を見ることもせず、いつもより指先に力をこめてプリントを拾った。本当はプリントを踏みつけ蹴散らし全てを滅茶苦茶にして帰りたかったが、そんなことが許されるほど、もう子どもではない。怒りを鎮めるため、丹羽は脳内で暴れる自分を想像した。それにもかかわらず、丹羽の機嫌は一向に直らない。自分でも苛立っている自覚があることがより一層怒りを助長させた。仕方がないので、気分を変えるために窓を開け、外の空気を吸う。朝の風が頬を撫でるのが気持ちよかった。中谷がその横顔を何か言いたげに見つめている。丹羽はその視線に気付いていたが、無視した。いま中谷に話しかけたら、上を向きはじめた気分がまた逆戻りしそうだったからである。中谷は思春期の人間をからかうのが大好物なのだ。生徒が発した羞恥や怒りを餌に成長するモンスターともいえる。つまり思春期の敵である。
気を取り直してプリントをかき集めていたら、1枚だけキャビネットの下に入り込んでしまった。さらなる災難に、丹羽はもう怒りさえ湧いてこなかった。無表情のまま、淡々とスマートフォンのライトを起動し、1センチ程しかない隙間に光を当てる。
「……ノート?」
暗闇のなかで、プリントの横にB5サイズのノートが落ちているのがみえた。
「先生、定規貸してください」
「はいはい。丹羽はまーた自分で仕事を増やして……働き者だね」
モンスターこと中谷は嬉しそうに笑っている。丹羽は差し出された定規を奪うようにして受け取った。
キャビネットの下に定規を差し込み左右に動かすと、埃にまみれたプリントと古びた一冊のノートが顔を出した。
「除霊マニュアル……?」
B5サイズのノートにサインペンで乱雑な文字が書かれている。丹羽は人差し指と親指でつまむようにして目の高さまで持ち上げた。表紙は湿気で柔らかくなっている。ページを1枚めくると目次があり、いくつもの項目に分けられた除霊方法が書いてあった。いつかの生徒がふざけて書いたものだろう。時間を無駄にした気分になった丹羽はノートを再びキャビネットの下に潜り込ませようとした。
「あ、それ見つけちゃったか」
中谷が気配を出さずに背後から呟いた。
「は!?……コホン、これただの落書き帳ですよね?」
大きな声を上げたことを誤魔化すように丹羽は咳払いをした。怪訝そうな顔で中谷を見つめる。
「いやぁ?お前も終わりだなぁ……」
「え、ぼく終わるんですか?」
「うん。それ面白いから持って帰っていいよ。そうしないと呪われちゃうかもよ~」
そんな馬鹿な。そう思いつつも丹羽はノートを手離せずにいた。本気で呪われるとは思っていないが、呪われないとも言い切れない。丹羽はどっちともつかない、ぼんやりとした状態が嫌いだ。とにかく明確な答えがほしい。
中谷に揶揄われているだけだと思うが、ノートを持ち帰り、中身を確認することにした。恐怖と好奇心がないまぜになった感情が胸に渦巻いていたのだ。ふわふわとした感覚のまま、最後のプリントの束を持ち上げたとき、社会科準備室の扉が開いた。
「おはようございまーす」
「おー、八田おはよう。残念だが、お前の仕事はもうない」
「え?せっかく来たんですけど」
「丹羽が何往復もして全部やってくれたよ」
「ニワ?」
八田は丹羽を頭から足先まで舐めるようにみたあと、眉間にしわを寄せながら言った。
「台車借りて、一気に運べばよかったのに」
あまりの無神経さに丹羽は硬直した。悪気なく、思ったことを正直に話してしまうところが八田の良いところであり、悪いところである。ちなみに後者の方が割合は高い。八田の真っ黒な髪の毛が窓から入る風に吹かれて揺れているさまや、ふわりと香る柔軟剤のにおいにさえ苛立ちを覚えながら、丹羽は無理やり笑顔を作った。
「じゃあこの資料は八田くんが運んでください。僕はこれで」
「うっ……」
持っていた資料を勢いよく八田に押し付け、丹羽は社会科準備室を後にした。礼節を欠く人間に使う時間など、他人の落書き帳を拾うことより無駄である。
「なんか怒ってた?ちょっと鳩尾入ったけど……」
八田は鳩尾をさすりつつ、丹羽の後ろ姿を目で追う。
「丹羽ってちょっと難しいひと?」
中谷は憐みの目で八田を見つめ、心のなかで丹羽に同情した。丹羽が怒るのも無理はない。遅刻してきたうえに、このデリカシーのない発言だ。他人の反感を買うには十分だろう。教え子の未来を憂えた中谷は彼とこれから出会う人たちのためにも、この無神経さを直させなければと思うのだった。あと遅刻癖も。
6時間目の授業が終わって担任がホームルームを始めるまでのあいだ、丹羽は教室の窓からグラウンドを眺めていた。校舎はグラウンドを囲むようにしてコの字型に建っている。そのためほとんどの教室からグラウンドを望むことができ、窓際の席になった生徒は必ずと言っていいほど外を眺めている。丹羽もそのなかの1人なのだが、数年前にできた「授業中はカーテンを引かなくてはならない」というルールのせいで、朝と帰りのホームルームでしか外の景色を拝めない。どうやら外を見ていると成績が下がるようである。
校舎と体育館をつなぐ渡り廊下に、八田を見つけた。気だるげな様子で柵にもたれかかり、友人と談笑している。春の風に髪がなびくのを見て、またあの柔軟剤が香った気がした。
「あの人、ひとりで何してるんだろう」
後ろの席の星沢が不思議そうに呟いた。丹羽は急いで振り返り、星沢の目線の先を確認する。彼はまっすぐな目で渡り廊下の方向を見ていた。
「あれ隣のクラスの八田じゃない?友達いないのかな」
星沢は憐れむような表情で八田を見た。しかし丹羽の目には、八田の隣に自分たちと同じ制服を着た男子生徒がうつっている。肩を並べて八田に笑いかける様子は、生きている人間にしか見えなかった。
帰宅し、手洗いを済ませた丹羽は2階の自室に潜り込んだ。ローテーブルに乗っていた小説を押しのけ、スペースを開ける。なんとなく胡坐から正座に座り直し、リュックのなかからノートを取り出した。何度見ても、悪ふざけで書いたとしか思えないが、持って帰ってきてしまったので仕方なく読むことにする。丹羽はどうでもいい気持ちと少しの好奇心を同居させつつ、湿気た表紙をめくった。姿を現した乱雑な字に、自然と片眉があがる。すでに読む気が失せてきた。
「除霊に必要な心がまえ?」
除霊に対する姿勢まで書いてあるのかと丹羽は純粋に感心した。よくできた悪戯である。悪態をつきながらノートを閉じようとしたとき、一際大きく書かれた文字に目を奪われた。
「幽霊に決して情を抱いてはならない……。」
幽霊に恐ろしい以外の感情を抱くことがあるのだろうか。丹羽は部屋の天井を見上げたまま、八田のことを思い出していた。
彼はいつもあのようにして、幽霊と談笑しているのだろうか。八田の明るい性格なら、どこにでも居場所がありそうなものなのに、どうしてあの場所にいたのだろうか。そもそも授業をサボったのか。丹羽は次々に浮かぶ疑問をかき消すように、頭を振った。八田がどうしようと、自分には関係がないと気付いたからである。他人の心配などしても、碌なことがないのだ。まして嫌いな人間の心配など、もっとも時間の無駄である。しかし、分かっているのに気になってしまうのは、八田にも幽霊がみえているからなのだろうか。無意識のうちに築かれた仲間意識が、八田を身内に引きこんでしまったのかもしれない、と丹羽は思った。
次の日の朝、丹羽は起きるや否や自分の体を隅々まで見た。呪われていないか確認するためである。呪われていた場合、体に異変が生じるのかどうかは分からないが、いつもと変わりないことに丹羽は安心した。例のノートを何者かの悪戯だと言いながら、しっかり小心者である。
始業の5分前に教室に入ると、なぜか八田が丹羽の席に座っていた。
「あ、丹羽ちゃんおはよー」
「……おはよう。なにしてんの?」
「うんうん。なにしてんのじゃなくてさぁ。お前、昨日持って帰ったな」
「なにを?」
「はぁ?マニュアルだよ、除霊マニュアル!」
馴れ馴れしく丹羽に話しかけた八田は、大きな声で答えた。近くにいたクラスメイトが驚きのあまりフリーズしたのち、声を潜めて何かを言い合っている。八田は気にせず続けた。
「俺はあれで金稼ぎすんだから、返してもらわなきゃ困るの!」
「金稼ぎ?どうやって?」
たいして興味もなかったが、満足したら帰ってくれるだろうという思いから早く話を進めたかった。
「憑りつかれてる人間を探して、除霊してあげるの。で、そのお礼に金をもらう」
丹羽の席に居座ったまま、八田は得意げな顔をしている。
「除霊ビジネス?」
「いやいや。さすがに俺も人を騙したいわけじゃないから。マジで憑りつかれてる人限定だし、除霊も本気でやる」
怪しいセミナーと同じのくせに、善人の仮面を貼り付けているところが丹羽は気に食わなかった。今までもこういう類の人間に声をかけられてはしつこく勧誘され、きっぱり断ると捨て台詞を吐かれてきたのだ。心のなかで舌打ちをし、蔑むような目で八田を見た。
「返さないよ。そもそも八田のものでもないでしょ」
「は!?」
「なんか……腹立つ」
丹羽が思わず本音をこぼすと、八田は口を半分開けたまま固まった。予想外の展開に事態が呑み込めていないらしい。大方、すぐ返してもらえると思っていたのだろう。単純なやつ、と丹羽は呆れた。
「……またくる」
徐に立ち上がった八田は肩を落として教室を出ていった。
丹羽は2時間目の選択授業がA組と合同だということを忘れていた。別に忘れていてもよかったのだが、美術室を開けた途端に鋭い視線がつき刺さり、思い出さざるを得なかった。八田は腕を組んで、丹羽の一挙一動を監視している。
「丹羽、何かしたのか……?」
獲物をねらう獣のような視線を感じ取った星沢が丹羽に耳打ちした。
「何かしたといえば、したのかも」
「えっ。はやく謝ったほうがいいよ」
「そうだね」
丹羽は笑いながら答えた。謝る気など毛頭ない。むしろ謝ってほしいくらいだ。
「そもそも八田と仲良かったの?」
「全然。ていうか今も仲良くない」
星沢は困惑した様子で、丹羽を見つめている。丹羽は窓際に並んでいるイーゼルのうち、ひとつを選びモチーフの前に置いた。先週からはじまったデッサンの授業でりんごを描いている。
「変に恨み買って、呪われないようにね」
鉛筆をナイフで削りながら、星沢は忠告した。呪いとは段々自分がなくなってしまうことなのだろうかと丹羽は漠然と考えた。鉛筆がナイフで削がれていくように、ゆっくりと時間をかけて消えてしまうことなのかもしれない。丹羽は小気味よく木が削がれていくのをただ見つめていた。
「まぁ、上手いことやるよ」
丹羽は負けず嫌いだ。特に気に食わない相手の言いなりにはなりたくない。意地を張る丹羽を見て、星沢は何か言いたげに眉毛を下げた。
丹羽の監視に全神経を集中させているのか、八田は50分のあいだ一度も口を開かなかった。手は動かしているようだったが目線は相変わらず丹羽に注がれていて、もしかしたらりんごではなくて自分がデッサンされているのではないかと丹羽は苦笑いをした。
終業のチャイムが鳴り、丹羽は教科書とペンケースを手に持ち星沢に声をかける。速やかにここから出たい。そう思っているのに、わざわざ八田の席を横切って話しかけた。
「八田、さっきからうるさい」
「は?何も言ってないんだけど」
「顔がうるさい」
「はぁ?」
八田は理解できないというように語尾を上げた。勢いよく立ち上がり、椅子が後ろに倒れる。大きな音を聞いた星沢が肩を跳ねさせるのが、丹羽の視界端にうつった。
「丹羽、落ち着いて」
星沢がさりげなく体を割り込ませる。丹羽は今さっき上手いことやると言ったのにもかかわらず、喧嘩を売っていることに自分でも驚いていた。もちろん星沢も驚いている。
「ていうか、今の時間は教室に誰もいなかったんだから、俺のリュックから勝手に奪い取ればよかったのに」
「それは窃盗じゃん!」
変なところで真面目なやつ、と丹羽はうんざりした。八田の倫理観のバランスがいまいち分からない。
「詐欺はよくて、窃盗はだめなの?」
「だから詐欺じゃないし。普通に誰かの役に立ちたいだけなんだってば。まぁ、やるからには対価がほしいとは思ってるけど」
丹羽にとってはその対価が気に食わないのだが、八田はまるで理解していない。
「とにかく、ノートは俺が預かっておく」
言い逃げるようにして、丹羽は美術室を後にした。
その後も、八田による丹羽の監視は続いた。
すれ違うたびに鋭い視線で睨みつけたり、休み時間のたびに廊下の窓からのぞいてくる。意外と根気強い男だなと丹羽は思った。獲物を狩るのに必死な獣だとすれば、実に格好がつかないが。丹羽は八田の姿を見るたび星沢が怯えるのが可哀想だった。彼のためにやめてほしいと憤ったが、こうなった原因は自分にあるので何も言えなかった。
ホームルームが終わったらすぐに帰宅しようと考えていた丹羽は、遊びに行こうという星沢からの誘いを断り、教室を出た。星沢は心配そうな表情を浮かべていたが、また今度行こうと言ってくれた。おそらく八田との関係について、相談に乗ってくれようとしたのだろう。星沢が纏う雰囲気はいつも柔らかく、話すつもりのないことでもつい話してしまう。先日も自分の身に起こったくだらない話を長々としてしまったばかりなのだ。今日、星沢と一緒にいたら社会科準備室で拾ったあのノートの話をしてしまうだろう。呪われる可能性がまだ完全に消えたわけではないから、星沢を巻き込んでしまうかもしれない。だから丹羽は1人でいたかったのだ。
丹羽がかかとを踏んで上履きを脱いでいると、下駄箱の影に八田がいるのがみえた。スマートフォンの画面に自分が反射するのを鏡代わりにして前髪を整えている。もしかしなくても自分を待っているのだろうな、と丹羽は勘付いた。履いたばかりのスニーカーをそっと脱ぎ、また上履きに履き替える。八田に気付かれないように校舎に戻った。不本意だが、八田が昇降口からいなくなるまで、どこかで時間をつぶすしかない。
八田はいつまで自分のことを追い続けるのだろうか。階段を一段ずつ踏みしめながら、丹羽は考えた。どう考えても彼が求めているのはあのノートなのに、自分が求められているかのような錯覚をしてしまう。一度冷静にならなければと丹羽は階段に座り込んだ。
たしかに今の丹羽には充足感がなかった。部活動にも参加していないし、アルバイトもしていない。朝起きて登校し、帰宅したら適当に時間をつぶして寝る。それだけの生活だった。それでも毎日がつまらないとは思っていなかったし、現状を変えたいとも思っていなかった。それにもかかわらず、新たに生まれる日常の予感に胸が躍ってしまうのは、心のどこかで誰かに見つけてほしいと思っていたからなのではないか。
八田と話していると感電したように背筋がピリピリする。その感覚をまた味わいたいと思ってしまう。自分の貪欲さに丹羽は深いため息をついた。しかしこれから八田がノートに興味を無くして自分を探さなくなったとき、何事もなかった顔をして元の日常を送れるだろうか。今ならまだ他人に戻れる。週に一度だけ同じ授業を受ける同級生として、卒業まで必要以上の接点を持たずに過ごすことができる。だから八田にノートを渡した方がいいのではないか。そう考えたところで、下から人影が近づいてくるのに気が付いた。
「丹羽、こんなところで何してんだ」
中谷はスラックスのポケットに手を突っ込み、ゆったりとした足取りで階段を上ってきた。具合でも悪いのかと心配そうに丹羽の顔をのぞく。
「ただ疲れただけです」
嘘ではない。八田に目を付けられたことによって、丹羽の頭も体も疲弊していた。中谷は丹羽の感情を量るように目を細め、隣に腰を下ろす。
「そういえばさっき八田が探してたぞ」
「あぁ、そうでしょうね」
「なんだ知ってるのか」
丹羽がこんなに頭を悩ませているのも、元はといえばこの教師のせいである。社会科準備室であのノートを拾わなければ、丹羽と八田は交わらないまま学生生活を終えるはずだった。中谷は器用な手つきで靴紐を結び直しながら、こう続けた。
「また何か悩んでるんだろ」
「はい?」
「自分のせいで他人が傷付くかもしれないとか……それか、他人のせいで自分が傷付くかもしれないとか」
適当なようにみえて中谷は意外と鋭い。1人で悶々と悩んでいると、必ず中谷に見透かされてしまう。
「あのな、何かを得ることができるのは傷付く覚悟があるやつだけ。お前はなにが怖いんだ?」
丹羽を見つめる中谷の眼差しは深い海の色をしていた。光も届かないほど暗い海の底で、冷たいはずなのに温かく、すべてを委ねたくなるような心地よさがあった。この人に嘘をついては駄目だと丹羽は本能的に理解した。
「いたー!!!」
すべて話してしまおうかと丹羽が決心をしたとき、八田が廊下の向こう側から走ってきた。先ほど整えていた前髪は乱れ、よく分からない方向に散っている。
「丹羽、悩んでるくらいなら走れ」
中谷は瞳に海を湛えて丹羽を見た。丹羽はひとつ頷き、走り出した。
腰に手をあて、肩で息をしながら近づいた八田はとうとう床に倒れ込み、大の字になったまま中谷を見上げた。
「おい、谷やん……なんで丹羽の味方してんの……」
「味方なんてしてないよ。大人からのアドバイスをしただけ」
「じゃあ俺にもアドバイスして……」
「お前は教師への接し方を学んだほうがいいな」
「はぁ?」
「“谷やん“じゃねーよ。敬語使えよ」
中谷は薄く笑い、立ち上がった。
「俺は生意気なガキには厳しいの。」
丹羽は久しぶりに走っていた。
走るのをやめたあの日から、体育の授業でさえ一度も走っていなかった。適当な理由をつけて休んでいたのである。それがこのような形でまた走ることになるとは思わなかった。数センチのゆとりを持って購入した上履きでは走るのに適していない。愛用していたオレンジ色のランニングシューズを思い出した。ワックスがかけられた廊下と靴底のゴムが擦れる音が高く響いて、鼓膜を揺らした。
廊下の突きあたりに掃除用具が入ったロッカーが見える。丹羽は息を整えるため、中に入って身を隠した。ロッカーの上部についている隙間から八田と中谷が歩いているのが見え、慌てて目を逸らす。やがて社会科準備室の前で中谷と別れた八田は階段を下りて行った。丹羽は見つからなかった安心から、急に笑いが込み上げてきた。同級生に追いかけられてロッカーに隠れるなど、小学生のすることである。身をよじったことで腕に箒の柄があたり、丹羽はふと思った。
こんなところにロッカーなんてあったっけ?
冷や汗が噴き出し、背中をつめたい風が吹き抜ける。丹羽はあくまでも平静を保ち、音を立てずに扉を開けた。深呼吸をして足を前に出した途端、体が思いきり後ろに傾いた。
「ア、アソボ……♡」
「うわあああああああああ」
黒い髪を腰まで伸ばした女が丹羽の腕にしがみついている。丹羽は衝撃のあまり大声で叫び、腕を振りほどいた。よろけながら廊下に出たため壁に頭をぶつけ、衝撃が頭蓋骨に響く。その痛みもそのままに後ろを振り向かず必死に走った。信じたくないが今のは正真正銘、幽霊だろう。生きている人間だったらむしろ怖い。それであれば幽霊の方がありがたいような気もした。とにかく誰かに会いたいという一心で丹羽は部室棟を目指した。しかし部室はおろか、グラウンドにも人影がない。最終下校時間の20時まであと2時間以上あるのにもかかわらず、誰にもすれ違うことがなかった。
「どういうことだ……」
丹羽は知っているはずの校舎が張りぼてのように感じた。
状況を把握するため辺りを見回していると、突然走ってきた方向からうめき声が聞こえた。先ほどの幽霊が追いかけてきたのである。焦った丹羽は外に飛び出し、グラウンドを一直線に突っ切った。フォームなんて気にせず、ただがむしゃらに足を動かし昇降口へ向かう。呼吸が乱れ肺が痛くなってきたころ、足裏の感触が砂から草に変わり、校舎に辿り着いたことを知らせた。運よく1階にある教室の窓が開いていたため、よじ登り校内に入る。この時点で丹羽の体力は底をついていた。これ以上はもう走れない。丹羽は指先に祈りを込めて昇降口の扉に手をかけた。
「開かない……!」
内鍵が開いているにもかかわらず、扉はびくともしなかった。丹羽は唖然としたまま、そこから一歩も動けなくなった。このまま呪われてしまうのだろうか。
「丹羽あああああああ!」
丹羽が自暴自棄になりかけたころ、廊下の向こう側から八田が死に物狂いで走ってくるのが見えた。目を凝らすと、幽霊を30体ほど引き連れている。
「おいこっちに来るな!!」
「でたでたでたでたー!!!」
気が動転している八田には丹羽の声が届いていない。
「なんでこっちに来るんだよ!」
「うるせー!お前なんとかしろよ!」
「はぁ!?……おい、サンバ、サンバ流せ!」
「なんで!?それで本当に除霊できるんだろうな!?」
八田は困惑しつつも、ポケットからスマートフォンを取り出し、動画サイトでサンバを検索した。内臓スピーカーから軽快なリズムが流れ出す。
「……効かねぇじゃねぇか!」
ばつの悪そうな顔をする丹羽に八田は怒鳴った。むしろ幽霊たちはリズムに乗り、テンションが上がっているように見える。噂は嘘だったのかと丹羽は肩を落とした。仕方がないので、八田を横目にまた走り出した。
やがて言い合う気力もなくなり、無言で足を動かしていた丹羽と八田は近くにあった調理室に隠れることにした。
「行った?」
「たぶん……」
サンバが聞こえなくなった幽霊たちは、つまらないというように肩を落として霧散した。それを確認した丹羽はテーブルの下に身を隠し、息を整えた。その横で、八田は床に仰向けに寝転び、深呼吸を続けている。呼吸に合わせて胸が膨らんだりしぼんだりしているのが生きている証拠だった。八田はやがて震える腕を床につき起き上がると、丹羽のリュックを掴んだ。
「除霊マニュアル出せ……」
「まだ言ってんの?今はそれどころじゃない」
「違う。除霊すんだよ」
真剣に言う八田に丹羽は目を丸くした。
「八田、あれ本当に信じてるの?」
「うん。ていうか信じるしかないだろ」
たしかに今できることはそれしかない。しかし丹羽はこんな落書きで除霊できると思えなかった。
「あとたぶん除霊しないと、ここから出られない」
「出られない?」
「ここ、いつもの世界じゃないんだと思う」
床の一点を見つめながら、八田は続けた。
「逃げているあいだ誰にも会わなかったし、昇降口も開かなかったでしょ?」
なんでそれを八田が知っているのか。丹羽は疑うような目つきで八田を見た。八田は変わらず視線を落としている。
「はぁ。よく分からないけど、やってみるか」
丹羽は考えることをやめた。
リュックからノートを取り出し、八田の前に置く。これから該当しそうな除霊方法を探さなければならない。あれほど欲しがっていたノートが目の前にあるのに、八田は黙って丹羽の動きを見ている。代わりに丹羽が目次を開いた。
「遊びたい幽霊……。これか?えーと、32ページ。除霊方法は塩をかける?」
「塩?そんなんでいいの?」
丹羽は眉間にしわを寄せ怪訝そうな顔で、八田を見た。八田も同じ顔をしていた。
「まぁ、でもやるしかないよな……」
走り回った疲れから、互いに半ば諦めのような気持ちが沸き上がっている。この際できることはなんでもやるという自暴自棄にも似た勢いで、足に力を入れた。
ちょうど身を隠した場所が調理室だったのは本当に運がよかった。ありとあらゆる戸棚を開けていると、八田がすぐに山積みになっている食塩を発見した。丹羽は嬉しさのあまり、八田の肩を叩いた。
「痛てえな」
八田は照れくさそうに文句を言った。黙々と調理台に一袋ずつ食塩を積んでいく。6袋ほど置いたところで手を止め、丹羽を見た。
「これさぁ、一体ずつ幽霊にかけるの面倒くさくね?」
ここで八田の面倒くさがりが出た。このあと無神経が繰り出される気がする。丹羽は身構えた。
「丹羽って、足はやかったりする?」
唐突に八田が丹羽に問う。
「中学のときは陸上やってたけど。おい、何させようとしてる?」
「よし。最高」
「話を聞け」
八田はこれ以上説明をしなかった。勘の良い丹羽はこれから自分の身に起こる悲劇を想像し震えた。どうせまた走ることになるのだろう。丹羽は休憩のため椅子に座り、八田の様子を観察した。
八田は躊躇いなく食塩の袋を破き、豪快に大きな釜のなかに入れている。身長が高いため食塩を流し込む位置も高く、ほとんど床に散らばっていた。本人も気付いているようだが、見ないふりをしている。丹羽はあとで絶対に掃除させようと胸に誓った。
「ちなみにカレー塩もあったけど、入れとく?」
「あー、うん。入れといて」
しばらくして保管されていたすべての食塩を釜に投入した八田は、椅子に座ってうつらうつらしている丹羽を起こすために話しかけた。適当に返事をする丹羽を一瞥して、釜を扉の近くまで移動させる。八田は床に散らかるゴミの山を見て、元の世界に関与しませんように、と願った。
調理室の扉を勢いよく開けて、丹羽は廊下へ飛び出した。長い深呼吸を1つして、アキレス腱を伸ばす。その場で数回ジャンプしたあと、八田の方を振り返った。
「じゃ、生きてたらまた。」
「縁起でもないね~」
扉にもたれ腕を組んだ八田が楽しげに笑う。丹羽はスマートフォンの画面をタップして、サンバを流した。廊下に伝わる振動とともに、うめき声が近付いてくる。
「来た!」
霊たちが陽気なメロディーと激しいリズムに誘われて、姿を現した。体を揺らしながら進んでいるため、スピードは速くないようだ。これなら逃げ切れると丹羽は除霊の成功を確信した。走っているあいだ、ふくらはぎが何度も攣りそうになって疲労を訴えていた。それでも今いる地点よりは前に進めるように最後の力を振り絞って床を蹴る。学校指定のスカイブルーのワイシャツが汗で体に張り付いて気持ち悪かった。冬が過ぎたばかりなのにもかかわらず、丹羽は汗をかいていた。
八田からの指示で、丹羽は中庭に幽霊をおびき寄せるように言われていた。それ以上の説明はなかったので、何を企んでいるのかは分からない。どうせ碌でもないことのような気がするから、言い訳はあとでたっぷり聞いてやろう。丹羽は調理室のある4階から中庭につながる出入り口がある1階まで、無駄のないルートで駆け抜けた。
丹羽を見送ったあと、八田は廊下の窓から中庭を眺めていた。丹羽が中庭にたどり着くまでのあいだ、何もすることがないからである。大変な仕事は人に任せて自分は楽をする。これが八田なりの効率の上げ方だった。時間をつぶすため、釜に入った大量の食塩をなんとなく指でかき混ぜながら、思考の海に潜っていた。
八田は自分がなぜあのノートに固執するのか、よく分からなかった。たしかに金稼ぎはしたいが、除霊マニュアルを手に入れたからといって大金を得られるとは思えない。それならどうして一日中、丹羽のことを追いかけたのだろう。そこまで考えたところで、八田は靄をかき消すように頭を振った。人間は暇だと余計なことを考える。丹羽の様子を確認しようと窓を開けたとき、ちょうど中庭からサンバが聞こえてきた。
「八田ー!なんとかしろー!」
中庭の隅まで走った丹羽が大声で叫ぶ。その後ろを幽霊が踊りながら追う。
「まかせとけ!」
釜を両手で持った八田は窓枠に載せた。ゆっくりと傾けていき、中庭に食塩を放つ。風に乗った食塩が広範囲に舞い、雪のように落ちていった。
「ア、アアァ……!ア……、ァ、カレー……?」
「カレー……!ウ、アァ……」
カレー風味の清め塩を全身に浴び、30体ほどいた幽霊は姿を消した。丹羽はあっさり除霊ができてしまったことに驚き、音楽を止めるのを忘れている。
「オレ!あ、ごめん丹羽ー!よけてー!!」
「うわぁー!!!……お前ふざけんなよ!」
八田は空から大量の塩をまき散らしたことにテンションが上がり、最終的に鍋ごと中庭に落とした。
その後、中庭で合流した丹羽と八田は幽霊を見る前、互いに3階のロッカーに入っていたことが分かった。ロッカーが現実世界と異世界をつなぐ扉として機能していると八田は結論付けたが、丹羽はいまいち信じられなかった。
「こんな目にあったのに信じられないの!?」
「幽霊の存在は信じる。でもロッカーが異世界への扉って……ふ、」
「笑うな!じゃあ本当につながってたら、ジュースおごれよ!」
小学生か。丹羽は肩をすくめて笑った。
「はいはい。手つないであげようか?」
八田は丹羽をにらみ、返事もせずロッカーに入った。丹羽も後に続く。
「これ何秒くらい待てばいいの?」
「さぁ?さっきは2分くらい入ってたけど」
「2分?なんでそんなに入ってたの」
「丹羽を驚かせようと思って。奇襲攻撃みたいな」
奇襲攻撃しようとして異世界に飛ばされるなんて哀れなやつ、と丹羽は思った。それから互いに無言を貫いていたが、1分ほど経ったころ八田が耐えられないというように膝を揺らし始めたので、扉を開けた。
「……うわ!?お前ら何してんだ、仲良しか!」
「た、谷やん……!」
ちょうどロッカーの前を通り過ぎようとしていた中谷が心臓をおさえて後退る。さっきまで喧嘩していたはずの生徒たちが1つのロッカーから出てきたのだ。安堵よりも微妙に恐怖が勝る。
「中谷先生、いま何時ですか?ていうか何月何日ですか?」
「谷やんー!」
「ちょっと落ち着け、なに?何時かって?」
八田は中谷に抱き着いて離れようとしない。大型犬が飼い主にじゃれるように頭を押し付けている。その横で丹羽は中谷の顔を見て安心したのか、涙目で顔を真っ赤にしながら必死にしゃべっている。
「話は明日聞くから……。もう下校時間過ぎてるぞ」
壁にかけられた時計をみると、もう20時を過ぎていた。中谷の体にくっついていた八田はぺりぺりと剝がされ、見えない尻尾と耳を垂れさせた。丹羽がぼんやりとその様子を眺めていると、お前もはやく帰れというように中谷は丹羽の肩を押した。
学校から駅までの道は概ねひと通りしかない。厳密にはいくつかあるのだが、どの道を選んでも結局、駅前の大通りで合流してしまう。だから丹羽と八田は一緒に帰っていた。しかし昨日まで他人だったもの同士の会話は思うように弾まない。丹羽は気まずさに押しつぶされそうだった。
「……ちなみに、オレ!はサンバじゃなくてフラメンコらしいよ」
「そうなの?」
「うん」
会話終了である。丹羽が何も言っても八田が一言で終わらせるのだ。八田に会話する気がないなら走ってでも先に帰るべきだったが、もうそんな体力は丹羽には残っていない。丹羽が何か話題になるものが落ちていないかと目を凝らしていたとき、八田が突然立ち止まった。
「丹羽はさ、いつから霊感があるの?」
消えそうなほど小さな声で八田がつぶやいた。街頭が明滅していて、顔がよく見えない。
「小さいとき……、幼稚園くらいのころから霊感がある」
「くっきり見えるわけ?」
「見えるよ」
「じゃあさ」
八田は丹羽と鼻先がぶつかりそうなくらいまで距離を詰めた。
「除霊ビジネス、俺と一緒にしませんか」
「えっ……。嫌です」
この男は何の勝算があって誘ったのだろう。丹羽は不思議でたまらなかった。除霊ビジネスが気に食わなくて、ノートを明け渡さなかったというのに何を考えているのだろうか。
「あ、ごめん。やり直させて」
「無理だよ?」
「いいから聞いて。丹羽の力が必要なの。俺は霊感が強くないから、幽霊は全体的にぽわっとしてる」
「ぽわ?」
「そう。ぼんやりと発光してるっていうか。顔とか服とか分からないの」
どうやら八田にとって幽霊は輪郭が曖昧な光のかたまりにしか見えないらしい。生きている人間と幽霊の区別がつかない丹羽からすれば、羨ましい限りだった。
正直、丹羽の心は揺れていた。除霊ビジネスとやらに興味はないし加担したくもないが、自分を必要としてくれる人がいることが今はありがたかった。だから自分でも可笑しいと思いながらも丹羽は頷いてしまった。
「分かった。ただし金はもらわないこと」
「えー。物だったらいい?」
「場合による」
「固いなー。じゃあ丹羽がちゃんと見張っといてね。俺のこと」
丹羽はこれから面倒くさいことに巻き込まれそうだなと思った。
月明かりが夜道に2人分の影を落としていた。
丹羽律は幼い頃から、良くないものを引きつける。体格が小柄なこともあり、街を歩いていると必ず一度は怪しいセミナーの勧誘をされる。どんなに厳しく断っても、彼らはなかなか諦めてくれない。しまいには丹羽はいつも走って逃げていた。
丹羽の“良くないもの“には生きている人間以外も含まれる。丹羽は今日だけでも学校に来るまでのあいだ、幽霊を3回見ていた。まず最寄り駅のホームから線路へ投身自殺を繰り返す幽霊。次に公園のベンチでカップルのあいだに座る幽霊。最後にコンビニのセルフレジに並ぶ幽霊。いつまでも前に進まないから疑問に思っていたら、幽霊だったらしい。代わりに丹羽が後ろに並んでいた客に舌打ちされた。たまたま幽霊だと認識できたのが3体だっただけで、本当はもっといたのかもしれない。生きている人間と幽霊の区別がつかないほど、丹羽は霊感が強い。
丹羽は教室の扉を勢いよく開けた。数年前に建て替えられたばかりの校舎は設備が新しく、多少乱暴に動かしても大きな音が出ない。窓際の自分の席まで大股で進むと、黒板のうえにかけられた時計を見た。時刻は7時50分。普段の登校時間より数十分は早い。丹羽はひとつ溜息を吐いた。背負っていたリュックを机の上に置き、スマートフォンだけを手に取って教室を出る。まだ人の少ない校舎はひんやりとしていて、やけに静かだった。くわえて、いま丹羽が歩いている廊下は北向きに面していて、日の光が入らない。あたりが薄暗いというのも丹羽の心を不安にさせる理由のひとつだった。だから気分だけでも変えようとスマートフォンを操作し、再生リストのなかからサンバを流した。だれが言い出したのか定かではないが、明るい音楽は幽霊に効くらしい。真偽はともかく、何もしないよりはマシだろう。南米独特のリズムに体を揺らしながら、突きあたりの社会科準備室を目指し、歩を進める。扉の目の前まできたところで、いきなり中から人が出てきた。
「オレ!」
「うわああああああ」
叫んだ丹羽は跳ね上がった勢いのまま、数メートル先の柱まで逃げた。
「中谷先生やめてください……。」
「オレ!はサンバじゃなくて、フラメンコだけどな」
「どうでもいいです」
社会科の教師である中谷は特に反応することなく、廊下に落ちていたスマートフォンを拾い上げ、丹羽に手渡した。それを両手で受け取った丹羽は、すぐさま音楽を止める。また驚かされたりしたら、たまったものではない。
「丹羽、入れ」
中谷が準備室から顔を出すようにして、丹羽を呼んだ。いまだ柱のかげに隠れていた丹羽はその声にすら肩を跳ねさせ、またスマートフォンを落としそうになっている。
そもそも中谷は声が大きい。授業中に舟を漕いでいる生徒がいると目ざとく見つけてきて、必要ないほどの声量で名前を呼ぶ。その生徒は飛び起きたあと、荒い呼吸と共にだいたい心臓を押さえている。居眠りする方が悪いのだが、なんかこう、ご容赦願いたい。
「このプリントを全部運んでくれ」
「え、これを全部……?」
中谷は紙の束がうず高く積まれているテーブルを指さして言った。とても1人で運べる量ではない。最低でも準備室と廊下を10往復はしなければならないだろう。
「めちゃくちゃなこと言わないでください。さすがに僕ひとりでは無理です」
「ああ、A組の社会科係もくるから」
社会科係というのは、日本史や世界史、地理など社会科に関する宿題を生徒から集めたり、資料を運んだりする、いわゆる雑用係である。たまたま、係を決める日に風邪をひき休んでいた丹羽は、後ろの席の星沢による粋な計らいで社会科係になった。彼曰く、仕事量が少なそうな係にした、らしい。しかし毎授業のたびに、社会科準備室に教材やプリントを運ぶのを手伝わされ、今日もこうして朝から肉体労働を強いられていることを考えると、仕事量が少ないとはお世辞にもいえないだろう。星沢は仕事内容を知らなかったのだと信じたい。
「A組の社会科係って、誰ですか?」
「八田だよ。八田未悠」
丹羽は手慰みにプリントの端をめくっていた手をとめた。八田未悠。半年前のことを思い出し、丹羽は固く目をつぶった。
1年生のとき丹羽と八田は違うクラスだったが、2クラス合同で行う選択授業が同じだった。最初は何も思っていなかったが、同じ教室で授業を受けるうち、八田の他人の迷惑を顧みない無神経さや、全能感ただよう雰囲気に嫌気がさしたのである、静かに授業を受けたいのに、喧しい八田の声が耳に入ってくる。まともに注意しない教師にも問題はあったが、まじめに授業を受けない八田には確実に問題があった。現に今日も集合時間に間に合っていない。あの男は問題だらけなのである。
「ひとりでやるか……。」
自分に言い聞かせるようにして、丹羽は重い腰を上げた。
プリントを運ぶのは、思っていたより苦痛だった。腕が痛いとか足が疲れる以前に、退屈なのである。何もない廊下をただ歩くのが、これほどつまらないと丹羽は思っていなかった。1秒でも早く終わらせて教室に戻ろうと意気込み、プリントに手を伸ばす。
「あ。」
しかし力の入らない前腕は思うように動かずテーブルにぶつかり、上に鎮座していた紙の束が無残にも床に吸い込まれていく。その様子を呆然と見つめたあとで、何もかも嫌になった丹羽は紙の海に溺れるように、崩れ落ちた。
「自分で仕事を増やしたな」
窓にもたれてコーヒーを飲んでいた中谷が、他人事のようにつぶやく。
「見てたなら手伝ってくださいよ」
丹羽は中谷を見ることもせず、いつもより指先に力をこめてプリントを拾った。本当はプリントを踏みつけ蹴散らし全てを滅茶苦茶にして帰りたかったが、そんなことが許されるほど、もう子どもではない。怒りを鎮めるため、丹羽は脳内で暴れる自分を想像した。それにもかかわらず、丹羽の機嫌は一向に直らない。自分でも苛立っている自覚があることがより一層怒りを助長させた。仕方がないので、気分を変えるために窓を開け、外の空気を吸う。朝の風が頬を撫でるのが気持ちよかった。中谷がその横顔を何か言いたげに見つめている。丹羽はその視線に気付いていたが、無視した。いま中谷に話しかけたら、上を向きはじめた気分がまた逆戻りしそうだったからである。中谷は思春期の人間をからかうのが大好物なのだ。生徒が発した羞恥や怒りを餌に成長するモンスターともいえる。つまり思春期の敵である。
気を取り直してプリントをかき集めていたら、1枚だけキャビネットの下に入り込んでしまった。さらなる災難に、丹羽はもう怒りさえ湧いてこなかった。無表情のまま、淡々とスマートフォンのライトを起動し、1センチ程しかない隙間に光を当てる。
「……ノート?」
暗闇のなかで、プリントの横にB5サイズのノートが落ちているのがみえた。
「先生、定規貸してください」
「はいはい。丹羽はまーた自分で仕事を増やして……働き者だね」
モンスターこと中谷は嬉しそうに笑っている。丹羽は差し出された定規を奪うようにして受け取った。
キャビネットの下に定規を差し込み左右に動かすと、埃にまみれたプリントと古びた一冊のノートが顔を出した。
「除霊マニュアル……?」
B5サイズのノートにサインペンで乱雑な文字が書かれている。丹羽は人差し指と親指でつまむようにして目の高さまで持ち上げた。表紙は湿気で柔らかくなっている。ページを1枚めくると目次があり、いくつもの項目に分けられた除霊方法が書いてあった。いつかの生徒がふざけて書いたものだろう。時間を無駄にした気分になった丹羽はノートを再びキャビネットの下に潜り込ませようとした。
「あ、それ見つけちゃったか」
中谷が気配を出さずに背後から呟いた。
「は!?……コホン、これただの落書き帳ですよね?」
大きな声を上げたことを誤魔化すように丹羽は咳払いをした。怪訝そうな顔で中谷を見つめる。
「いやぁ?お前も終わりだなぁ……」
「え、ぼく終わるんですか?」
「うん。それ面白いから持って帰っていいよ。そうしないと呪われちゃうかもよ~」
そんな馬鹿な。そう思いつつも丹羽はノートを手離せずにいた。本気で呪われるとは思っていないが、呪われないとも言い切れない。丹羽はどっちともつかない、ぼんやりとした状態が嫌いだ。とにかく明確な答えがほしい。
中谷に揶揄われているだけだと思うが、ノートを持ち帰り、中身を確認することにした。恐怖と好奇心がないまぜになった感情が胸に渦巻いていたのだ。ふわふわとした感覚のまま、最後のプリントの束を持ち上げたとき、社会科準備室の扉が開いた。
「おはようございまーす」
「おー、八田おはよう。残念だが、お前の仕事はもうない」
「え?せっかく来たんですけど」
「丹羽が何往復もして全部やってくれたよ」
「ニワ?」
八田は丹羽を頭から足先まで舐めるようにみたあと、眉間にしわを寄せながら言った。
「台車借りて、一気に運べばよかったのに」
あまりの無神経さに丹羽は硬直した。悪気なく、思ったことを正直に話してしまうところが八田の良いところであり、悪いところである。ちなみに後者の方が割合は高い。八田の真っ黒な髪の毛が窓から入る風に吹かれて揺れているさまや、ふわりと香る柔軟剤のにおいにさえ苛立ちを覚えながら、丹羽は無理やり笑顔を作った。
「じゃあこの資料は八田くんが運んでください。僕はこれで」
「うっ……」
持っていた資料を勢いよく八田に押し付け、丹羽は社会科準備室を後にした。礼節を欠く人間に使う時間など、他人の落書き帳を拾うことより無駄である。
「なんか怒ってた?ちょっと鳩尾入ったけど……」
八田は鳩尾をさすりつつ、丹羽の後ろ姿を目で追う。
「丹羽ってちょっと難しいひと?」
中谷は憐みの目で八田を見つめ、心のなかで丹羽に同情した。丹羽が怒るのも無理はない。遅刻してきたうえに、このデリカシーのない発言だ。他人の反感を買うには十分だろう。教え子の未来を憂えた中谷は彼とこれから出会う人たちのためにも、この無神経さを直させなければと思うのだった。あと遅刻癖も。
6時間目の授業が終わって担任がホームルームを始めるまでのあいだ、丹羽は教室の窓からグラウンドを眺めていた。校舎はグラウンドを囲むようにしてコの字型に建っている。そのためほとんどの教室からグラウンドを望むことができ、窓際の席になった生徒は必ずと言っていいほど外を眺めている。丹羽もそのなかの1人なのだが、数年前にできた「授業中はカーテンを引かなくてはならない」というルールのせいで、朝と帰りのホームルームでしか外の景色を拝めない。どうやら外を見ていると成績が下がるようである。
校舎と体育館をつなぐ渡り廊下に、八田を見つけた。気だるげな様子で柵にもたれかかり、友人と談笑している。春の風に髪がなびくのを見て、またあの柔軟剤が香った気がした。
「あの人、ひとりで何してるんだろう」
後ろの席の星沢が不思議そうに呟いた。丹羽は急いで振り返り、星沢の目線の先を確認する。彼はまっすぐな目で渡り廊下の方向を見ていた。
「あれ隣のクラスの八田じゃない?友達いないのかな」
星沢は憐れむような表情で八田を見た。しかし丹羽の目には、八田の隣に自分たちと同じ制服を着た男子生徒がうつっている。肩を並べて八田に笑いかける様子は、生きている人間にしか見えなかった。
帰宅し、手洗いを済ませた丹羽は2階の自室に潜り込んだ。ローテーブルに乗っていた小説を押しのけ、スペースを開ける。なんとなく胡坐から正座に座り直し、リュックのなかからノートを取り出した。何度見ても、悪ふざけで書いたとしか思えないが、持って帰ってきてしまったので仕方なく読むことにする。丹羽はどうでもいい気持ちと少しの好奇心を同居させつつ、湿気た表紙をめくった。姿を現した乱雑な字に、自然と片眉があがる。すでに読む気が失せてきた。
「除霊に必要な心がまえ?」
除霊に対する姿勢まで書いてあるのかと丹羽は純粋に感心した。よくできた悪戯である。悪態をつきながらノートを閉じようとしたとき、一際大きく書かれた文字に目を奪われた。
「幽霊に決して情を抱いてはならない……。」
幽霊に恐ろしい以外の感情を抱くことがあるのだろうか。丹羽は部屋の天井を見上げたまま、八田のことを思い出していた。
彼はいつもあのようにして、幽霊と談笑しているのだろうか。八田の明るい性格なら、どこにでも居場所がありそうなものなのに、どうしてあの場所にいたのだろうか。そもそも授業をサボったのか。丹羽は次々に浮かぶ疑問をかき消すように、頭を振った。八田がどうしようと、自分には関係がないと気付いたからである。他人の心配などしても、碌なことがないのだ。まして嫌いな人間の心配など、もっとも時間の無駄である。しかし、分かっているのに気になってしまうのは、八田にも幽霊がみえているからなのだろうか。無意識のうちに築かれた仲間意識が、八田を身内に引きこんでしまったのかもしれない、と丹羽は思った。
次の日の朝、丹羽は起きるや否や自分の体を隅々まで見た。呪われていないか確認するためである。呪われていた場合、体に異変が生じるのかどうかは分からないが、いつもと変わりないことに丹羽は安心した。例のノートを何者かの悪戯だと言いながら、しっかり小心者である。
始業の5分前に教室に入ると、なぜか八田が丹羽の席に座っていた。
「あ、丹羽ちゃんおはよー」
「……おはよう。なにしてんの?」
「うんうん。なにしてんのじゃなくてさぁ。お前、昨日持って帰ったな」
「なにを?」
「はぁ?マニュアルだよ、除霊マニュアル!」
馴れ馴れしく丹羽に話しかけた八田は、大きな声で答えた。近くにいたクラスメイトが驚きのあまりフリーズしたのち、声を潜めて何かを言い合っている。八田は気にせず続けた。
「俺はあれで金稼ぎすんだから、返してもらわなきゃ困るの!」
「金稼ぎ?どうやって?」
たいして興味もなかったが、満足したら帰ってくれるだろうという思いから早く話を進めたかった。
「憑りつかれてる人間を探して、除霊してあげるの。で、そのお礼に金をもらう」
丹羽の席に居座ったまま、八田は得意げな顔をしている。
「除霊ビジネス?」
「いやいや。さすがに俺も人を騙したいわけじゃないから。マジで憑りつかれてる人限定だし、除霊も本気でやる」
怪しいセミナーと同じのくせに、善人の仮面を貼り付けているところが丹羽は気に食わなかった。今までもこういう類の人間に声をかけられてはしつこく勧誘され、きっぱり断ると捨て台詞を吐かれてきたのだ。心のなかで舌打ちをし、蔑むような目で八田を見た。
「返さないよ。そもそも八田のものでもないでしょ」
「は!?」
「なんか……腹立つ」
丹羽が思わず本音をこぼすと、八田は口を半分開けたまま固まった。予想外の展開に事態が呑み込めていないらしい。大方、すぐ返してもらえると思っていたのだろう。単純なやつ、と丹羽は呆れた。
「……またくる」
徐に立ち上がった八田は肩を落として教室を出ていった。
丹羽は2時間目の選択授業がA組と合同だということを忘れていた。別に忘れていてもよかったのだが、美術室を開けた途端に鋭い視線がつき刺さり、思い出さざるを得なかった。八田は腕を組んで、丹羽の一挙一動を監視している。
「丹羽、何かしたのか……?」
獲物をねらう獣のような視線を感じ取った星沢が丹羽に耳打ちした。
「何かしたといえば、したのかも」
「えっ。はやく謝ったほうがいいよ」
「そうだね」
丹羽は笑いながら答えた。謝る気など毛頭ない。むしろ謝ってほしいくらいだ。
「そもそも八田と仲良かったの?」
「全然。ていうか今も仲良くない」
星沢は困惑した様子で、丹羽を見つめている。丹羽は窓際に並んでいるイーゼルのうち、ひとつを選びモチーフの前に置いた。先週からはじまったデッサンの授業でりんごを描いている。
「変に恨み買って、呪われないようにね」
鉛筆をナイフで削りながら、星沢は忠告した。呪いとは段々自分がなくなってしまうことなのだろうかと丹羽は漠然と考えた。鉛筆がナイフで削がれていくように、ゆっくりと時間をかけて消えてしまうことなのかもしれない。丹羽は小気味よく木が削がれていくのをただ見つめていた。
「まぁ、上手いことやるよ」
丹羽は負けず嫌いだ。特に気に食わない相手の言いなりにはなりたくない。意地を張る丹羽を見て、星沢は何か言いたげに眉毛を下げた。
丹羽の監視に全神経を集中させているのか、八田は50分のあいだ一度も口を開かなかった。手は動かしているようだったが目線は相変わらず丹羽に注がれていて、もしかしたらりんごではなくて自分がデッサンされているのではないかと丹羽は苦笑いをした。
終業のチャイムが鳴り、丹羽は教科書とペンケースを手に持ち星沢に声をかける。速やかにここから出たい。そう思っているのに、わざわざ八田の席を横切って話しかけた。
「八田、さっきからうるさい」
「は?何も言ってないんだけど」
「顔がうるさい」
「はぁ?」
八田は理解できないというように語尾を上げた。勢いよく立ち上がり、椅子が後ろに倒れる。大きな音を聞いた星沢が肩を跳ねさせるのが、丹羽の視界端にうつった。
「丹羽、落ち着いて」
星沢がさりげなく体を割り込ませる。丹羽は今さっき上手いことやると言ったのにもかかわらず、喧嘩を売っていることに自分でも驚いていた。もちろん星沢も驚いている。
「ていうか、今の時間は教室に誰もいなかったんだから、俺のリュックから勝手に奪い取ればよかったのに」
「それは窃盗じゃん!」
変なところで真面目なやつ、と丹羽はうんざりした。八田の倫理観のバランスがいまいち分からない。
「詐欺はよくて、窃盗はだめなの?」
「だから詐欺じゃないし。普通に誰かの役に立ちたいだけなんだってば。まぁ、やるからには対価がほしいとは思ってるけど」
丹羽にとってはその対価が気に食わないのだが、八田はまるで理解していない。
「とにかく、ノートは俺が預かっておく」
言い逃げるようにして、丹羽は美術室を後にした。
その後も、八田による丹羽の監視は続いた。
すれ違うたびに鋭い視線で睨みつけたり、休み時間のたびに廊下の窓からのぞいてくる。意外と根気強い男だなと丹羽は思った。獲物を狩るのに必死な獣だとすれば、実に格好がつかないが。丹羽は八田の姿を見るたび星沢が怯えるのが可哀想だった。彼のためにやめてほしいと憤ったが、こうなった原因は自分にあるので何も言えなかった。
ホームルームが終わったらすぐに帰宅しようと考えていた丹羽は、遊びに行こうという星沢からの誘いを断り、教室を出た。星沢は心配そうな表情を浮かべていたが、また今度行こうと言ってくれた。おそらく八田との関係について、相談に乗ってくれようとしたのだろう。星沢が纏う雰囲気はいつも柔らかく、話すつもりのないことでもつい話してしまう。先日も自分の身に起こったくだらない話を長々としてしまったばかりなのだ。今日、星沢と一緒にいたら社会科準備室で拾ったあのノートの話をしてしまうだろう。呪われる可能性がまだ完全に消えたわけではないから、星沢を巻き込んでしまうかもしれない。だから丹羽は1人でいたかったのだ。
丹羽がかかとを踏んで上履きを脱いでいると、下駄箱の影に八田がいるのがみえた。スマートフォンの画面に自分が反射するのを鏡代わりにして前髪を整えている。もしかしなくても自分を待っているのだろうな、と丹羽は勘付いた。履いたばかりのスニーカーをそっと脱ぎ、また上履きに履き替える。八田に気付かれないように校舎に戻った。不本意だが、八田が昇降口からいなくなるまで、どこかで時間をつぶすしかない。
八田はいつまで自分のことを追い続けるのだろうか。階段を一段ずつ踏みしめながら、丹羽は考えた。どう考えても彼が求めているのはあのノートなのに、自分が求められているかのような錯覚をしてしまう。一度冷静にならなければと丹羽は階段に座り込んだ。
たしかに今の丹羽には充足感がなかった。部活動にも参加していないし、アルバイトもしていない。朝起きて登校し、帰宅したら適当に時間をつぶして寝る。それだけの生活だった。それでも毎日がつまらないとは思っていなかったし、現状を変えたいとも思っていなかった。それにもかかわらず、新たに生まれる日常の予感に胸が躍ってしまうのは、心のどこかで誰かに見つけてほしいと思っていたからなのではないか。
八田と話していると感電したように背筋がピリピリする。その感覚をまた味わいたいと思ってしまう。自分の貪欲さに丹羽は深いため息をついた。しかしこれから八田がノートに興味を無くして自分を探さなくなったとき、何事もなかった顔をして元の日常を送れるだろうか。今ならまだ他人に戻れる。週に一度だけ同じ授業を受ける同級生として、卒業まで必要以上の接点を持たずに過ごすことができる。だから八田にノートを渡した方がいいのではないか。そう考えたところで、下から人影が近づいてくるのに気が付いた。
「丹羽、こんなところで何してんだ」
中谷はスラックスのポケットに手を突っ込み、ゆったりとした足取りで階段を上ってきた。具合でも悪いのかと心配そうに丹羽の顔をのぞく。
「ただ疲れただけです」
嘘ではない。八田に目を付けられたことによって、丹羽の頭も体も疲弊していた。中谷は丹羽の感情を量るように目を細め、隣に腰を下ろす。
「そういえばさっき八田が探してたぞ」
「あぁ、そうでしょうね」
「なんだ知ってるのか」
丹羽がこんなに頭を悩ませているのも、元はといえばこの教師のせいである。社会科準備室であのノートを拾わなければ、丹羽と八田は交わらないまま学生生活を終えるはずだった。中谷は器用な手つきで靴紐を結び直しながら、こう続けた。
「また何か悩んでるんだろ」
「はい?」
「自分のせいで他人が傷付くかもしれないとか……それか、他人のせいで自分が傷付くかもしれないとか」
適当なようにみえて中谷は意外と鋭い。1人で悶々と悩んでいると、必ず中谷に見透かされてしまう。
「あのな、何かを得ることができるのは傷付く覚悟があるやつだけ。お前はなにが怖いんだ?」
丹羽を見つめる中谷の眼差しは深い海の色をしていた。光も届かないほど暗い海の底で、冷たいはずなのに温かく、すべてを委ねたくなるような心地よさがあった。この人に嘘をついては駄目だと丹羽は本能的に理解した。
「いたー!!!」
すべて話してしまおうかと丹羽が決心をしたとき、八田が廊下の向こう側から走ってきた。先ほど整えていた前髪は乱れ、よく分からない方向に散っている。
「丹羽、悩んでるくらいなら走れ」
中谷は瞳に海を湛えて丹羽を見た。丹羽はひとつ頷き、走り出した。
腰に手をあて、肩で息をしながら近づいた八田はとうとう床に倒れ込み、大の字になったまま中谷を見上げた。
「おい、谷やん……なんで丹羽の味方してんの……」
「味方なんてしてないよ。大人からのアドバイスをしただけ」
「じゃあ俺にもアドバイスして……」
「お前は教師への接し方を学んだほうがいいな」
「はぁ?」
「“谷やん“じゃねーよ。敬語使えよ」
中谷は薄く笑い、立ち上がった。
「俺は生意気なガキには厳しいの。」
丹羽は久しぶりに走っていた。
走るのをやめたあの日から、体育の授業でさえ一度も走っていなかった。適当な理由をつけて休んでいたのである。それがこのような形でまた走ることになるとは思わなかった。数センチのゆとりを持って購入した上履きでは走るのに適していない。愛用していたオレンジ色のランニングシューズを思い出した。ワックスがかけられた廊下と靴底のゴムが擦れる音が高く響いて、鼓膜を揺らした。
廊下の突きあたりに掃除用具が入ったロッカーが見える。丹羽は息を整えるため、中に入って身を隠した。ロッカーの上部についている隙間から八田と中谷が歩いているのが見え、慌てて目を逸らす。やがて社会科準備室の前で中谷と別れた八田は階段を下りて行った。丹羽は見つからなかった安心から、急に笑いが込み上げてきた。同級生に追いかけられてロッカーに隠れるなど、小学生のすることである。身をよじったことで腕に箒の柄があたり、丹羽はふと思った。
こんなところにロッカーなんてあったっけ?
冷や汗が噴き出し、背中をつめたい風が吹き抜ける。丹羽はあくまでも平静を保ち、音を立てずに扉を開けた。深呼吸をして足を前に出した途端、体が思いきり後ろに傾いた。
「ア、アソボ……♡」
「うわあああああああああ」
黒い髪を腰まで伸ばした女が丹羽の腕にしがみついている。丹羽は衝撃のあまり大声で叫び、腕を振りほどいた。よろけながら廊下に出たため壁に頭をぶつけ、衝撃が頭蓋骨に響く。その痛みもそのままに後ろを振り向かず必死に走った。信じたくないが今のは正真正銘、幽霊だろう。生きている人間だったらむしろ怖い。それであれば幽霊の方がありがたいような気もした。とにかく誰かに会いたいという一心で丹羽は部室棟を目指した。しかし部室はおろか、グラウンドにも人影がない。最終下校時間の20時まであと2時間以上あるのにもかかわらず、誰にもすれ違うことがなかった。
「どういうことだ……」
丹羽は知っているはずの校舎が張りぼてのように感じた。
状況を把握するため辺りを見回していると、突然走ってきた方向からうめき声が聞こえた。先ほどの幽霊が追いかけてきたのである。焦った丹羽は外に飛び出し、グラウンドを一直線に突っ切った。フォームなんて気にせず、ただがむしゃらに足を動かし昇降口へ向かう。呼吸が乱れ肺が痛くなってきたころ、足裏の感触が砂から草に変わり、校舎に辿り着いたことを知らせた。運よく1階にある教室の窓が開いていたため、よじ登り校内に入る。この時点で丹羽の体力は底をついていた。これ以上はもう走れない。丹羽は指先に祈りを込めて昇降口の扉に手をかけた。
「開かない……!」
内鍵が開いているにもかかわらず、扉はびくともしなかった。丹羽は唖然としたまま、そこから一歩も動けなくなった。このまま呪われてしまうのだろうか。
「丹羽あああああああ!」
丹羽が自暴自棄になりかけたころ、廊下の向こう側から八田が死に物狂いで走ってくるのが見えた。目を凝らすと、幽霊を30体ほど引き連れている。
「おいこっちに来るな!!」
「でたでたでたでたー!!!」
気が動転している八田には丹羽の声が届いていない。
「なんでこっちに来るんだよ!」
「うるせー!お前なんとかしろよ!」
「はぁ!?……おい、サンバ、サンバ流せ!」
「なんで!?それで本当に除霊できるんだろうな!?」
八田は困惑しつつも、ポケットからスマートフォンを取り出し、動画サイトでサンバを検索した。内臓スピーカーから軽快なリズムが流れ出す。
「……効かねぇじゃねぇか!」
ばつの悪そうな顔をする丹羽に八田は怒鳴った。むしろ幽霊たちはリズムに乗り、テンションが上がっているように見える。噂は嘘だったのかと丹羽は肩を落とした。仕方がないので、八田を横目にまた走り出した。
やがて言い合う気力もなくなり、無言で足を動かしていた丹羽と八田は近くにあった調理室に隠れることにした。
「行った?」
「たぶん……」
サンバが聞こえなくなった幽霊たちは、つまらないというように肩を落として霧散した。それを確認した丹羽はテーブルの下に身を隠し、息を整えた。その横で、八田は床に仰向けに寝転び、深呼吸を続けている。呼吸に合わせて胸が膨らんだりしぼんだりしているのが生きている証拠だった。八田はやがて震える腕を床につき起き上がると、丹羽のリュックを掴んだ。
「除霊マニュアル出せ……」
「まだ言ってんの?今はそれどころじゃない」
「違う。除霊すんだよ」
真剣に言う八田に丹羽は目を丸くした。
「八田、あれ本当に信じてるの?」
「うん。ていうか信じるしかないだろ」
たしかに今できることはそれしかない。しかし丹羽はこんな落書きで除霊できると思えなかった。
「あとたぶん除霊しないと、ここから出られない」
「出られない?」
「ここ、いつもの世界じゃないんだと思う」
床の一点を見つめながら、八田は続けた。
「逃げているあいだ誰にも会わなかったし、昇降口も開かなかったでしょ?」
なんでそれを八田が知っているのか。丹羽は疑うような目つきで八田を見た。八田は変わらず視線を落としている。
「はぁ。よく分からないけど、やってみるか」
丹羽は考えることをやめた。
リュックからノートを取り出し、八田の前に置く。これから該当しそうな除霊方法を探さなければならない。あれほど欲しがっていたノートが目の前にあるのに、八田は黙って丹羽の動きを見ている。代わりに丹羽が目次を開いた。
「遊びたい幽霊……。これか?えーと、32ページ。除霊方法は塩をかける?」
「塩?そんなんでいいの?」
丹羽は眉間にしわを寄せ怪訝そうな顔で、八田を見た。八田も同じ顔をしていた。
「まぁ、でもやるしかないよな……」
走り回った疲れから、互いに半ば諦めのような気持ちが沸き上がっている。この際できることはなんでもやるという自暴自棄にも似た勢いで、足に力を入れた。
ちょうど身を隠した場所が調理室だったのは本当に運がよかった。ありとあらゆる戸棚を開けていると、八田がすぐに山積みになっている食塩を発見した。丹羽は嬉しさのあまり、八田の肩を叩いた。
「痛てえな」
八田は照れくさそうに文句を言った。黙々と調理台に一袋ずつ食塩を積んでいく。6袋ほど置いたところで手を止め、丹羽を見た。
「これさぁ、一体ずつ幽霊にかけるの面倒くさくね?」
ここで八田の面倒くさがりが出た。このあと無神経が繰り出される気がする。丹羽は身構えた。
「丹羽って、足はやかったりする?」
唐突に八田が丹羽に問う。
「中学のときは陸上やってたけど。おい、何させようとしてる?」
「よし。最高」
「話を聞け」
八田はこれ以上説明をしなかった。勘の良い丹羽はこれから自分の身に起こる悲劇を想像し震えた。どうせまた走ることになるのだろう。丹羽は休憩のため椅子に座り、八田の様子を観察した。
八田は躊躇いなく食塩の袋を破き、豪快に大きな釜のなかに入れている。身長が高いため食塩を流し込む位置も高く、ほとんど床に散らばっていた。本人も気付いているようだが、見ないふりをしている。丹羽はあとで絶対に掃除させようと胸に誓った。
「ちなみにカレー塩もあったけど、入れとく?」
「あー、うん。入れといて」
しばらくして保管されていたすべての食塩を釜に投入した八田は、椅子に座ってうつらうつらしている丹羽を起こすために話しかけた。適当に返事をする丹羽を一瞥して、釜を扉の近くまで移動させる。八田は床に散らかるゴミの山を見て、元の世界に関与しませんように、と願った。
調理室の扉を勢いよく開けて、丹羽は廊下へ飛び出した。長い深呼吸を1つして、アキレス腱を伸ばす。その場で数回ジャンプしたあと、八田の方を振り返った。
「じゃ、生きてたらまた。」
「縁起でもないね~」
扉にもたれ腕を組んだ八田が楽しげに笑う。丹羽はスマートフォンの画面をタップして、サンバを流した。廊下に伝わる振動とともに、うめき声が近付いてくる。
「来た!」
霊たちが陽気なメロディーと激しいリズムに誘われて、姿を現した。体を揺らしながら進んでいるため、スピードは速くないようだ。これなら逃げ切れると丹羽は除霊の成功を確信した。走っているあいだ、ふくらはぎが何度も攣りそうになって疲労を訴えていた。それでも今いる地点よりは前に進めるように最後の力を振り絞って床を蹴る。学校指定のスカイブルーのワイシャツが汗で体に張り付いて気持ち悪かった。冬が過ぎたばかりなのにもかかわらず、丹羽は汗をかいていた。
八田からの指示で、丹羽は中庭に幽霊をおびき寄せるように言われていた。それ以上の説明はなかったので、何を企んでいるのかは分からない。どうせ碌でもないことのような気がするから、言い訳はあとでたっぷり聞いてやろう。丹羽は調理室のある4階から中庭につながる出入り口がある1階まで、無駄のないルートで駆け抜けた。
丹羽を見送ったあと、八田は廊下の窓から中庭を眺めていた。丹羽が中庭にたどり着くまでのあいだ、何もすることがないからである。大変な仕事は人に任せて自分は楽をする。これが八田なりの効率の上げ方だった。時間をつぶすため、釜に入った大量の食塩をなんとなく指でかき混ぜながら、思考の海に潜っていた。
八田は自分がなぜあのノートに固執するのか、よく分からなかった。たしかに金稼ぎはしたいが、除霊マニュアルを手に入れたからといって大金を得られるとは思えない。それならどうして一日中、丹羽のことを追いかけたのだろう。そこまで考えたところで、八田は靄をかき消すように頭を振った。人間は暇だと余計なことを考える。丹羽の様子を確認しようと窓を開けたとき、ちょうど中庭からサンバが聞こえてきた。
「八田ー!なんとかしろー!」
中庭の隅まで走った丹羽が大声で叫ぶ。その後ろを幽霊が踊りながら追う。
「まかせとけ!」
釜を両手で持った八田は窓枠に載せた。ゆっくりと傾けていき、中庭に食塩を放つ。風に乗った食塩が広範囲に舞い、雪のように落ちていった。
「ア、アアァ……!ア……、ァ、カレー……?」
「カレー……!ウ、アァ……」
カレー風味の清め塩を全身に浴び、30体ほどいた幽霊は姿を消した。丹羽はあっさり除霊ができてしまったことに驚き、音楽を止めるのを忘れている。
「オレ!あ、ごめん丹羽ー!よけてー!!」
「うわぁー!!!……お前ふざけんなよ!」
八田は空から大量の塩をまき散らしたことにテンションが上がり、最終的に鍋ごと中庭に落とした。
その後、中庭で合流した丹羽と八田は幽霊を見る前、互いに3階のロッカーに入っていたことが分かった。ロッカーが現実世界と異世界をつなぐ扉として機能していると八田は結論付けたが、丹羽はいまいち信じられなかった。
「こんな目にあったのに信じられないの!?」
「幽霊の存在は信じる。でもロッカーが異世界への扉って……ふ、」
「笑うな!じゃあ本当につながってたら、ジュースおごれよ!」
小学生か。丹羽は肩をすくめて笑った。
「はいはい。手つないであげようか?」
八田は丹羽をにらみ、返事もせずロッカーに入った。丹羽も後に続く。
「これ何秒くらい待てばいいの?」
「さぁ?さっきは2分くらい入ってたけど」
「2分?なんでそんなに入ってたの」
「丹羽を驚かせようと思って。奇襲攻撃みたいな」
奇襲攻撃しようとして異世界に飛ばされるなんて哀れなやつ、と丹羽は思った。それから互いに無言を貫いていたが、1分ほど経ったころ八田が耐えられないというように膝を揺らし始めたので、扉を開けた。
「……うわ!?お前ら何してんだ、仲良しか!」
「た、谷やん……!」
ちょうどロッカーの前を通り過ぎようとしていた中谷が心臓をおさえて後退る。さっきまで喧嘩していたはずの生徒たちが1つのロッカーから出てきたのだ。安堵よりも微妙に恐怖が勝る。
「中谷先生、いま何時ですか?ていうか何月何日ですか?」
「谷やんー!」
「ちょっと落ち着け、なに?何時かって?」
八田は中谷に抱き着いて離れようとしない。大型犬が飼い主にじゃれるように頭を押し付けている。その横で丹羽は中谷の顔を見て安心したのか、涙目で顔を真っ赤にしながら必死にしゃべっている。
「話は明日聞くから……。もう下校時間過ぎてるぞ」
壁にかけられた時計をみると、もう20時を過ぎていた。中谷の体にくっついていた八田はぺりぺりと剝がされ、見えない尻尾と耳を垂れさせた。丹羽がぼんやりとその様子を眺めていると、お前もはやく帰れというように中谷は丹羽の肩を押した。
学校から駅までの道は概ねひと通りしかない。厳密にはいくつかあるのだが、どの道を選んでも結局、駅前の大通りで合流してしまう。だから丹羽と八田は一緒に帰っていた。しかし昨日まで他人だったもの同士の会話は思うように弾まない。丹羽は気まずさに押しつぶされそうだった。
「……ちなみに、オレ!はサンバじゃなくてフラメンコらしいよ」
「そうなの?」
「うん」
会話終了である。丹羽が何も言っても八田が一言で終わらせるのだ。八田に会話する気がないなら走ってでも先に帰るべきだったが、もうそんな体力は丹羽には残っていない。丹羽が何か話題になるものが落ちていないかと目を凝らしていたとき、八田が突然立ち止まった。
「丹羽はさ、いつから霊感があるの?」
消えそうなほど小さな声で八田がつぶやいた。街頭が明滅していて、顔がよく見えない。
「小さいとき……、幼稚園くらいのころから霊感がある」
「くっきり見えるわけ?」
「見えるよ」
「じゃあさ」
八田は丹羽と鼻先がぶつかりそうなくらいまで距離を詰めた。
「除霊ビジネス、俺と一緒にしませんか」
「えっ……。嫌です」
この男は何の勝算があって誘ったのだろう。丹羽は不思議でたまらなかった。除霊ビジネスが気に食わなくて、ノートを明け渡さなかったというのに何を考えているのだろうか。
「あ、ごめん。やり直させて」
「無理だよ?」
「いいから聞いて。丹羽の力が必要なの。俺は霊感が強くないから、幽霊は全体的にぽわっとしてる」
「ぽわ?」
「そう。ぼんやりと発光してるっていうか。顔とか服とか分からないの」
どうやら八田にとって幽霊は輪郭が曖昧な光のかたまりにしか見えないらしい。生きている人間と幽霊の区別がつかない丹羽からすれば、羨ましい限りだった。
正直、丹羽の心は揺れていた。除霊ビジネスとやらに興味はないし加担したくもないが、自分を必要としてくれる人がいることが今はありがたかった。だから自分でも可笑しいと思いながらも丹羽は頷いてしまった。
「分かった。ただし金はもらわないこと」
「えー。物だったらいい?」
「場合による」
「固いなー。じゃあ丹羽がちゃんと見張っといてね。俺のこと」
丹羽はこれから面倒くさいことに巻き込まれそうだなと思った。
月明かりが夜道に2人分の影を落としていた。
