君が見た夢の正体について教えよう

「よく誤解されるのですが、

倫理学とは、物事の良し悪しだけを論ずるものではありません。
人間はどのように生命を謳歌するべきなのかを考えていく学問でもあります。

今回の議題は
脳死と植物状態、安楽死の合法化についてでしたね。

人間を人間たらしめるものは何なのか。

皆さん、自分なりの人生の幸福について意見をまとめて来週提出してください」

大学の講義終了チャイムが鳴った。
教授が今回の課題について短く説明して、原稿用紙の束を教卓に置いた。

「では課題用の原稿用紙は、1人2枚ずつ取って帰ってください」

私は確保した原稿用紙を自分のカバンに仕舞う。
講義室を出た所で、一緒に講義を受けていた友達が不満をもらした。

「今どき、紙のレポート提出なんて聞いたことないよ。
あれ、絶対コピペ対策だろ。
あー!面倒くさい!」

「教授が言ってた参考文献、ほとんど大学の図書館にある本だよ。
どれか読んでみたら」

「何でそんなこと知ってるのさ」

「図書館で探した。アリストテレスの霊魂論とか、結構面白いよ」

「授業の為にわざわざ探したの?」

「うん、いずれ卒論書く時にも役に立つし、色々読んでみてるの」

「今から卒論のこと考えるの早くない?」

「来年は企業インターンもあるし、再来年は就活で忙しいじゃん。
卒業論文、適当にしたくないから」

「前準備やばあ。凄すぎ。
まあ、いいけどさ。
私はネットの記事いくつか引っ張って、チャットGPTに書いてもらうわ。
あー手書きで紙に写すのが、面倒すぎ!」

友達はサークルに顔を出すと言うので、大学構内で手を振って別れた。
駅のホームで電車を待つ間に、私はスマホのカレンダーを確認する。
今日の予定リストを見ながら、この後のスケジュールを組み立てる。

帰ったら洗濯物を取り込んで、夕方シフトのアルバイトに出掛けなければいけない。

夕食はシフトの休憩中に済ませよう。
課題のレポートは帰ってから書こう。

そういえば来月は友達の誕生日がある。
プレゼントを何にするかも決めないと……。

画面にメッセージ通知が表示される。

「あ、ママからだ」

ママと、不意に昔の呼び方をしてしまい、一人で恥ずかしくなる。
子供の頃はママと呼んでいたが、いつからかお母さんと呼ぶようになった。
パパはいつまでもパパだ。

そして他人に両親のことを話すときは母、父。
属性や呼び方なんて、ただの記号だ。
私も母にとっては娘であり、世間からは大学生という属性で括られる。

記号に意味なんてない。

ただ一つ、私にだけ与えられた戸塚遥という名前を除いては。

この呼称を与えられたのは私が私だからであり、意味があるはずだ。

だけど、いつからだろう。

この名前すらただの記号であり、他の誰かと共有しているものに過ぎない。

そんな絵空事が頭をよぎるようになった。


東京の大学に通う為、家を出て一人暮らしを始めた。
引越し当日、母が最寄り駅まで車で送ってくれた時のことを思い出す。

別れ際、母が「いい機会だから伝えさせて」と私に言う。
まるで今生の別れのようで、大袈裟だと茶化した。
それでも母は続けた。

「パパが亡くなってから、色々大変だったけど、

遥が側にいてくれたから、

諦めずに今日までやってこられたんだと思う。

ずっと遥の存在に助けられたんだよ。

私の娘でいてくれてありがとう」

心のどこかで、母のことを一人では生きていけない人だと思い続けていた。

だから、ずっと傍に居続けた。
それが私の役割だと思ったから。

涙ぐむ母の瞳は、間違いなく私を映している。


でもこうも思うのだ。

母は私ではない誰かを見ている。


私は感謝の言葉を述べられながら、どこか宙に放り出されたような気がして、足元がぐらついた。


(お母さん、私はここにいるよ?)


縋り付きたくなる気持ちを抑えた。
この感覚は、これまで幾度となく感じてきた。
その度に私は心のどこかが喪失しているような、何か大事なものをどこかに置いてきてしまった気がするのだ。

ふと、私が生まれ育ったあの町に帰りたいと思う。
もうそこに私の家はないのに。


電車が到着し、現実に意識を戻される。
電車内は空いていたが、ひと駅だけなのでドア付近に立つ。
窓の外、横に流れていく風景を眺めながら、
私は父との最後の記憶を掘り起こした。
ぐずる私の頭を撫でで、一緒のベッドで寝てくれた父。

そのときに感じた手のひらの温もり

私が唯一覚えている父との思い出。

その次は友達、学校の同級生や先生、サークルや、アルバイト先の人たち。

母と祖父母。

皆んなの顔を順番に思い出していく。
不安になった時にはこの儀式を行うと、何故か安心できるのだ。

そうだ、映二郎叔父さんは元気だろうか。
私が小学生の頃、父が亡くなってから
映二郎叔父さんにはお世話になった。

父の葬儀準備や死亡保険の申請。
その他も父の死後に、必要な身辺整理を憔悴した母に代わってやってくれた。
あの家を売却して、母の実家がある県外へ引っ越すように勧めてくれたのも叔父だった。

友達と別れるのは悲しかった。
だが今思えば、その選択は正しかったと思う。
あの家は二人で住むには広すぎて、どうしても父の不在を実感する。

母と叔父は仲が良く、定期的に連絡を取り合っているようだ。
毎年、夏が近づくと叔父は母と祖母がいる家に遊びに来る。
そこは彼の実家でもある。

今年は私も顔を見せに実家へ帰ろうかな。



電車が降りるべき駅に着く。
私はホームから改札を通って外に出る。
アルバイトの前にアパートへ立ち寄らなくてはいけない。
もう一度、頭の中でやるべきことを復唱しながら帰路を行く。

帰ったら洗濯物を取り込む
夕方シフトのアルバイトに出掛ける
夕食はアルバイトの休憩中に済ませる
帰ったらレポートを書く
友達の誕生日プレゼントを決める

今日も、明日もやらなければいけないことがたくさんある。

気持ちのいい風が吹いている。
もう大分見慣れた住宅街の道を歩くと、
石塀の上に猫がいた。

私が誰であろうと、生きているならば何らかの意味がある。

誰でもない私こそが、その意味を見出してあげるべきだと思う。

だからきっとこれで良いのだろう。

この生命が尽きるその瞬間まで、私はそれを考え続けよう。