◇◇◇
その日、探偵事務所に姉・奈津美がやってきた。
子綺麗な服装に化粧を施した彼女は幸せそうに笑っていた。
「もう、夫への疑いは晴れましたので、調査を終了してください」
確かに不倫調査は決定的な証拠が出なかった。
旭さんの報告によると、奈津美の証言通り仕事帰りに車を適当な場所に止めて何時間も動かないという姿が何度か目撃された。
仕事をしている様子はないが、ただひたすらに時間を潰す姿から、典型的な“帰宅恐怖症”と思われた。
最初から不倫の事実はなかったように思う。
だが、あれだけ根拠のない疑いをかけていた奈津美が、どうして疑いが晴れたと言い切れるのか、単純に理由が聞きたかった。
俺の気持ちを旭さんが代弁し、奈津美はこのように答えた。
「発端は夫が、家庭の問題に対して消極的な態度だったのを、私が一方的に不満に思っていたんです。
家庭の問題というのは、主に遥のことなんですけど、あ、遥は何も悪くないんです。
ただ、私たちが親としてきちんと接することができているのか。
夫とはその部分が噛み合っていなかったように思います」
遥はずっと学校の成績が芳しくなく、精神的にもふさぎ込む日が多かったそうだ。
奈津美は遥を積極的に外に連れ出し元気づけようとした。
隆之さんはあえて一歩離れて見守るスタイルだった。
それでは遥が可哀想だとずっと夫婦喧嘩の原因になっていたと言う。
だが、俺たちに調査依頼をした後から、隆之さんが遥に積極的に関わるようになり、夜も一緒のベットで寝てあげたりしたらしい。
「夫から働きかけてくれたことが一番嬉しかったです。
遥も夜グズることがなくなって、家族の雰囲気が良くなっているのを感じました。
それで今朝、私が目を覚ましたら、夫が遥を抱きしめて泣いていたんです。
その様子を見たら私もつられて涙が出ました。
遥はキョトンとしていたんですけど」
その光景を思い出しているのか、奈津美は少し照れくさそうに笑っていた。
「彼が私に言ったんです。
『ようやく、自分がやるべきことがわかった』って。
それを聞いて私も、あ、もう大丈夫なんだって、やっと安心したんです。
不倫に関しては、一切なかったって証拠はないけど、不思議と今後はそういう心配をしなくて大丈夫だって思えたんです。
夫を信じてやっていけるって」
そう言って、奈津美は調査の清算を済ませ、事務所を去っていった。
「お姉さん、不倫の疑いが晴れて良かったな」
「そうですね、離婚とか言い出さずに平和に終わって安心しました」
残っている調査は共有夢のことだけだ。
あとは自分の就職活動も、気合を入れ直さなければならない。
俺は事務所の机を借りて新しいエントリーシート作成に時間を費やした。
途中から旭さんが「模擬面接の練習や」と言い出して、面接官に扮して色々質問してくる。
俺が質問に答える度に「真面目か」とか「もっとひねった回答で」とか茶化してくるので、後半は大喜利のようになっていた。
まるで高校生の昼休みのようなテンションで、俺は声を出して笑っていた。
気がつくと外は日が落ち始めていたので、そろそろ帰らなくてはいけない。
俺は帰り際、彼に「この前受けた面接、実は選考通過しました」と報告をする。
「おお!?ホンマ?絶対落ちたって言うてたやつか」
「明後日、二次面接に行ってきます」
「良かったなあ。じゃあ、今日はもう上がって、ゆっくり休みや」
「はい。お先に失礼します」
探偵事務所を後にした俺は電車に乗って帰路に着く。
吊り革を掴んで、揺れる車窓の外を見るとすっかり夜だ。
ビルの灯りが遠くの方で流れ去っていく。
窓ガラスに映る自分の顔は心なしか綻んでいるように見えた。
◇◇◇
面接日の朝、カーテンの隙間から差し込む光で目を覚ます。
スマホを確認したらアラームが鳴る5分前だった。
俺は覚醒しきらない身体を起こすと洗面所で顔を洗い、朝食の準備を始めた。
袋入りのミックスサラダを小皿に出す。
プチトマトだけパックから2粒取り出し、水道水で軽く洗ってから即席サラダの上に乗せた。
食パンにスライスチーズとマヨネーズを広げ、トースターで加熱すると、食パンが焼き上がる香ばしい匂いが漂う。
サラダにシーザードレッシングをかけたら、朝食は完成。
インスタントコーヒーも追加して、自分の中では最大限に手を掛けた朝食セットだった。
頭の中で、二次面接のシュミレーションをしながら朝食を済ませた後は、軽く食器を洗ってから洗面台へ向かった。
シェービングフォームの泡を乗せて、丁寧にカミソリで髭を剃る。
きちんとワイシャツとスーツにスチームアイロンをかけてから袖を通し、身支度を完了した。
スマホで今日の天気と面接会場までの行き方を確認していると、突然の着信画面に驚いた。
隆之さんが帰ってこない。
姉の震える声が、彼が失踪したことを告げた。
