あの約束を交わした翌日から、僕の練習は明らかに熱を帯びていた。
三メートルから五メートル、そして七メートルへ。一段階ずつ、確実に恐怖をねじ伏せるように高さを上げていく僕の原動力は、自身の復活などという綺麗なものではなかった。
ただの、焦燥だ。
十メートルの頂上で握った、あの氷のように冷たい手首。少し力を込めただけで折れてしまいそうだった細い骨の感触が、僕に「もう時間がない」と急かしてくるようで、恐ろしかったのだ。
その日の夜も、僕たちはいつものようにプールにいた。
だが、七メートル台から降りた直後、バケツをひっくり返したようなゲリラ豪雨が突然僕たちを襲った。たまらず僕たちは、飛び込み台の下にある狭い用具室へと逃げ込んだ。
トタン屋根を打ち付ける激しい雨音が、外の世界の音をすべて掻き消していく。
薄暗く狭い空間には、僕と凪の二人きり。濡れた髪をタオルで拭く彼女から、プールの塩素と、アスファルトを叩く夏の雨の匂いが混ざり合って漂ってきた。
いつものようにふざけ合うには、ここは少し静かすぎて、閉鎖的だった。
「ひどい雨だな。これじゃ、しばらく帰れそうにない」
「……うん」
壁際のマットに座り込み、膝を抱えた凪がポツリと呟く。
「でも、なんか。このまま世界が水に沈んじゃえばいいのにって、たまに思うよ」
それは、普段の彼女からは想像もつかないような、ひどく低く、輪郭のぼやけた声だった。
「昼間のこと知りたいでしょ?」
僕は無言で頷いた。
雨音に隠れるようにして、凪は自分の奥底に沈めていたものを吐き出すように語り始めた。
「私ね、自分が、自分じゃなくなっていくのが怖いんだ」
病室の真っ白な天井を見つめ続けるだけの毎日。
周囲の大人たちが、自分を『一ノ瀬凪』という一人の人間としてではなく、『可哀想な患者』として扱うようになること。病魔に体を侵され、今まで当たり前にできていたことが一つ、また一つとできなくなっていくこと。
「自分が自分でなくなっていく感覚って、わかる? そのうち、高いところが好きだった自分のことすら、病気の中に溶けて忘れちゃうんじゃないかって……それが一番怖いの」
その吐露を聞いて、僕はふと、国語の授業で習った古い小説を思い出した。
理由もわからず虎の姿に変わり果てていく男が、やがて人間の心すらも失い、完全な獣に成り果ててしまうことを恐れる絶望の独白。
今の彼女はまさに、自我が病に塗り潰され、時間が奪われていく恐怖と必死に戦っていたのだ。
「だから、動ける今のうちに、一番高いところに登りたかった。私が私のままでいられるのは、たぶん、この夏が最後だから」
僕は、ただ黙ってその言葉を受け止めることしかできなかった。
「そんなことない」「大丈夫だ」なんていう薄っぺらい励ましや同情が、彼女の抱える切実な恐怖の前ではいかに無力で残酷か、痛いほど理解していたからだ。
どれくらいの時間が経っただろうか。
不意に雨音が遠ざかり、雲の隙間から青白い月光が、用具室の小さな窓を透かして差し込んできた。
光に照らされた瞬間。
凪はハッとして顔を上げると、パンッ! 両手で自分の頬を勢いよく叩いた。
「――なーんてね!」
顔を上げた彼女の表情には、一瞬でいつもの『人を食ったような明るい笑顔』が張り付いていた。
「今の、すっごい可哀想だったでしょ? ちょっと悲劇のヒロインぶってみましたー! あははは、もしかして騙されちゃった?」
それは、あまりにも不器用で、明らかな強がりだった。
僕にこれ以上の重荷を背負わせまいとする、彼女なりの優しくて哀しい『嘘』。
月明かりの下、必死に涙を堪えて無理に作ったその笑顔は――僕の目には、直視できないほど「ひどく眩しく」映った。
こいつは、どこまでも一人で戦おうとしている。
僕の心がこんなにも掻き乱されているのに、彼女は自分だけですべてを終わらせようとしているのだ。
「……お前なぁ。悪趣味すぎるだろ」
僕はあえてその嘘を暴かなかった。騙されたふりをして、いつものように呆れたようにため息をつき、頭を掻いた。
こいつが嘘をつき通したいと言うのなら、僕はどこまでもその道化に付き合ってやる。
ただ、心の中ではっきりと決めた。
一秒でも早く、あの十メートルの頂上から跳んでみせる。
彼女が『一ノ瀬凪』であるうちに。
右手に残るあの日の冷たい感触を握り込むように、僕は暗がりの中で、強く拳を握り直した。
三メートルから五メートル、そして七メートルへ。一段階ずつ、確実に恐怖をねじ伏せるように高さを上げていく僕の原動力は、自身の復活などという綺麗なものではなかった。
ただの、焦燥だ。
十メートルの頂上で握った、あの氷のように冷たい手首。少し力を込めただけで折れてしまいそうだった細い骨の感触が、僕に「もう時間がない」と急かしてくるようで、恐ろしかったのだ。
その日の夜も、僕たちはいつものようにプールにいた。
だが、七メートル台から降りた直後、バケツをひっくり返したようなゲリラ豪雨が突然僕たちを襲った。たまらず僕たちは、飛び込み台の下にある狭い用具室へと逃げ込んだ。
トタン屋根を打ち付ける激しい雨音が、外の世界の音をすべて掻き消していく。
薄暗く狭い空間には、僕と凪の二人きり。濡れた髪をタオルで拭く彼女から、プールの塩素と、アスファルトを叩く夏の雨の匂いが混ざり合って漂ってきた。
いつものようにふざけ合うには、ここは少し静かすぎて、閉鎖的だった。
「ひどい雨だな。これじゃ、しばらく帰れそうにない」
「……うん」
壁際のマットに座り込み、膝を抱えた凪がポツリと呟く。
「でも、なんか。このまま世界が水に沈んじゃえばいいのにって、たまに思うよ」
それは、普段の彼女からは想像もつかないような、ひどく低く、輪郭のぼやけた声だった。
「昼間のこと知りたいでしょ?」
僕は無言で頷いた。
雨音に隠れるようにして、凪は自分の奥底に沈めていたものを吐き出すように語り始めた。
「私ね、自分が、自分じゃなくなっていくのが怖いんだ」
病室の真っ白な天井を見つめ続けるだけの毎日。
周囲の大人たちが、自分を『一ノ瀬凪』という一人の人間としてではなく、『可哀想な患者』として扱うようになること。病魔に体を侵され、今まで当たり前にできていたことが一つ、また一つとできなくなっていくこと。
「自分が自分でなくなっていく感覚って、わかる? そのうち、高いところが好きだった自分のことすら、病気の中に溶けて忘れちゃうんじゃないかって……それが一番怖いの」
その吐露を聞いて、僕はふと、国語の授業で習った古い小説を思い出した。
理由もわからず虎の姿に変わり果てていく男が、やがて人間の心すらも失い、完全な獣に成り果ててしまうことを恐れる絶望の独白。
今の彼女はまさに、自我が病に塗り潰され、時間が奪われていく恐怖と必死に戦っていたのだ。
「だから、動ける今のうちに、一番高いところに登りたかった。私が私のままでいられるのは、たぶん、この夏が最後だから」
僕は、ただ黙ってその言葉を受け止めることしかできなかった。
「そんなことない」「大丈夫だ」なんていう薄っぺらい励ましや同情が、彼女の抱える切実な恐怖の前ではいかに無力で残酷か、痛いほど理解していたからだ。
どれくらいの時間が経っただろうか。
不意に雨音が遠ざかり、雲の隙間から青白い月光が、用具室の小さな窓を透かして差し込んできた。
光に照らされた瞬間。
凪はハッとして顔を上げると、パンッ! 両手で自分の頬を勢いよく叩いた。
「――なーんてね!」
顔を上げた彼女の表情には、一瞬でいつもの『人を食ったような明るい笑顔』が張り付いていた。
「今の、すっごい可哀想だったでしょ? ちょっと悲劇のヒロインぶってみましたー! あははは、もしかして騙されちゃった?」
それは、あまりにも不器用で、明らかな強がりだった。
僕にこれ以上の重荷を背負わせまいとする、彼女なりの優しくて哀しい『嘘』。
月明かりの下、必死に涙を堪えて無理に作ったその笑顔は――僕の目には、直視できないほど「ひどく眩しく」映った。
こいつは、どこまでも一人で戦おうとしている。
僕の心がこんなにも掻き乱されているのに、彼女は自分だけですべてを終わらせようとしているのだ。
「……お前なぁ。悪趣味すぎるだろ」
僕はあえてその嘘を暴かなかった。騙されたふりをして、いつものように呆れたようにため息をつき、頭を掻いた。
こいつが嘘をつき通したいと言うのなら、僕はどこまでもその道化に付き合ってやる。
ただ、心の中ではっきりと決めた。
一秒でも早く、あの十メートルの頂上から跳んでみせる。
彼女が『一ノ瀬凪』であるうちに。
右手に残るあの日の冷たい感触を握り込むように、僕は暗がりの中で、強く拳を握り直した。


