飛び込み台の、水飛沫みたいな恋だった

「ピピーッ! さあ佐倉選手、本日は一気にレベルアップ! 10メートル台への登頂を命じます!」

 いつもの夜、いつものプールサイド。
 首から下げたホイッスルを景気良く鳴らして、凪は無茶苦茶なことを言い出した。

「はあ!? 昨日は3メートルだっただろ! なんで過程を全部すっ飛ばすんだよ!」
「『思い立ったが吉日』『善は急げ』『飛び込み台は高い方がエモい』! ほら、四の五の言わずにさっさと登る!」

 バインダーを指揮棒のように振り回して僕を急かす。
 あいつのペースに巻き込まれるのが心地いいなんて昨日思ったばかりだが、こればかりは話が別だ。3メートルと10メートルでは、見える景色も、覚悟の重さも、天と地ほどの差がある。

 だが、凪はすでに軽やかな足取りで梯子に手をかけていた。
「ほらほら、置いてっちゃうよー!」
「……っ、分かったよ。行けばいいんだろ、行けば!」

 僕は半分やけくそで、錆びた金属の梯子を掴んだ。

 一段、登るごとに。
 足元を抜けていく夜風が、急に冷たさと強さを増していく。
 キィ、キィ、と梯子が軋む音が、静かなプールの底に虚しく響く。

 ふと下を見た。
 ……水面が、遠い。
 街灯の光を反射して黒く光る水面が、あの日僕の全身を打ち砕いたコンクリートの壁のように見えた。
 脳裏に閃光が走る。骨が軋む音。呼吸ができなくなるほどの衝撃。
「……っ、はぁ……っ」
 膝が笑い、指先から血の気が引いた。梯子を握る手に嫌な汗がにじむ。あと数段というところで、僕の身体は完全に凍りついてしまった。

「おーい! 湊くん、あと少し!」

 上から降ってきたのは、一切の恐怖を感じさせない、どこまでも明るい声だった。
 見上げると、すでに頂上に登りきった凪が、柵から身を乗り出してこちらを見下ろしている。
「早くしないと、私一人で宇宙まで行っちゃうよ!」
「……バカ、宇宙なんて行けるかよ」

 その突拍子もない言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。
 僕は彼女の声に釣り上げられるようにして、最後の一段を登りきった。

 10メートルの頂上。コンクリートの狭い足場。
 そこは地上から切り離された、空中の孤島だった。
 僕と凪は、あの夜と同じように、プールに向かって並んで足をぶら下げた。

「……本当に、ただ高いってだけで、こんなとこ登ってたのか、お前は」
 風に髪を乱されながら尋ねると、凪は楽しそうに足をブラブラさせた。
「うん。だって、ここからだと下の世界がちっちゃく見えるでしょ」
 彼女は吸い込まれそうな夜空を見上げて、独り言のように呟く。
「学校の面倒なことも、大人たちのうるさい声も、全部下の方にあって、ここまでは届かない。それが好きなの」

 その言葉が、昼間に聞いた『検査』『転院』という単語と、音を立てて繋がった。

「さて、そろそろ降りますか!」
 ひとしきり夜景を眺めた後、凪が勢いよく立ち上がろうとした。
 だが、その瞬間。
「……あ」
 ふらりと、彼女の身体が力なく揺れた。バランスを崩し、その華奢な肩が、柵のないプール側へと傾く。

「危ないっ!」

 心臓が止まるかと思った。
 僕は反射的に手を伸ばし、落ちそうになった彼女の手首を、折れんばかりの力で強く掴んで引き戻した。

「……っ」
 その瞬間、掌から伝わってきた感触に、僕は息を呑んだ。
 掴んだ手首は、驚くほど細かった。少し力を込めただけで壊れてしまいそうな、頼りない骨の感触。
 そして何より――真夏の夜だというのに、彼女の肌は、ゾッとするほど冷たかった。

 昨日感じた違和感が、確信へと変わる。彼女は、冗談抜きで、何か深刻なものを抱えている。

「あはは、ごめんごめん。ちょっと立ちくらみ」
 凪はすぐにいつものようにおどけて笑い、僕の手をそっと解こうとした。
 だが、僕はその手を離さなかった。掴んだ手首から伝わるその「冷たさ」が、僕の胸を締め付ける。

「……一ノ瀬」
 僕は真剣な目で、彼女を見つめた。
 昼間のことを問い詰めはしない。けれど、このまま笑って誤魔化されることだけは、どうしても許せなかった。

「俺が、絶対にもう一度ここから跳ぶ。お前に、最高の水しぶきを見せてやる」
「え……」
「だから――俺が跳ぶまでは、勝手にいなくなるなよ」

 それは、「病気から逃げるな」「勝手に死ぬな」という言葉を、僕なりに必死に言い換えた、不器用なメッセージだった。

 凪は一瞬、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして目を丸くした。
 やがて、その瞳が潤んだように揺れる。
 彼女は今までで一番優しく、そして今にも泣き出してしまいそうな笑顔で、僕を見つめ返した。

「……うん。約束」

 繋いだ手首から、彼女の微かな鼓動が伝わってくる。
 右手に残る、ゾッとするような冷たさと、細い骨の感触。
 彼女をこの世界に繋ぎ止めておくために、僕は絶対に跳ばなければならない。