うだるような暑さだった。
窓の外でやかましく鳴く蝉の声が、担任の教師の単調な声をかき消していく。夏休みの三者面談に向けた事前の進路指導。どうせスポーツ推薦の話は白紙に戻ったのだから、今さら何を言われたところで響くものなんてない。生返事を繰り返しながら、僕の意識は完全に別の場所――いや、別の時間へと飛んでいた。
『あはははは! なにそれ、ダッサ!』
頭の奥で、底抜けに明るい笑い声がリフレインしている。
昨夜のコンビニの駐車場。溶けかけたパピコと、夜風に混じる夏の匂い。
同情も慰めも拒絶していた僕の無様な過去を、彼女はあんなにもあっけなく、ゲラゲラと笑い飛ばしてくれた。
それが、どれほど僕を救ったか。
「好き」だとか「恋」だとか、そんな明確で甘ったるい名前をつけるには、まだ少し早い気がする。ただ確かなのは、僕はもう彼女から目が離せなくなっているということだ。
あいつのデタラメなペースに巻き込まれるのが、どうしようもなく心地いい。
僕の止まっていた時間は、彼女という強烈な引力に引っ張られて、確かに動き出していた。
「……佐倉、聞いてるのか?」
「あ、はい。考えておきます」
適当に面談を切り抜け、僕は進路指導室を後にした。
少しだけ頭を冷やそうと、普段はあまり人の来ない旧校舎の廊下へ足を向ける。ここは風通しがよく、自販機もあるからだ。
スポーツドリンクを買い、微かに埃の匂いがする廊下を歩いていた時だった。
「……え?」
開け放たれた窓辺に、見覚えのある後ろ姿があった。
一ノ瀬凪。
声をかけようとした僕の口は、しかし、半開きのまま音を失った。
強烈な夏の真昼の日差しが、窓枠にもたれかかる彼女の身体の輪郭を白く飛ばしていた。色素の薄い髪が風に揺れている。
夜のプールで見せる、あのエネルギッシュで鬱陶しいほどの存在感はどこにもなかった。強い光に透けて今にも消えてしまいそうなほど、彼女の纏う空気は青白く、そしてひどく静かだった。
いつもはうるさいほどの口数も、大げさな身振り手振りもない。ただじっと、酷く大人びた、どこか寂しそうな瞳で、遠くの夏空を見つめている。いや、彼女の視線の先にあるのは、空に突き刺さる十メートルの飛び込み台だった。
「一ノ瀬、こんなところで何してる」
沈黙を破ったのは、僕の声ではなく、廊下の反対側から歩いてきた中年の教師の声だった。
凪はびくっと肩を揺らし、振り返る。
「あ、見つかっちゃった。涼んでただけですよー」
「今日の『検査』はどうした。あまり無理をするなと……」
「今から行くところですってば。大丈夫です、元気ですから」
「次の転院の前に、体力を落とされては困るからな。ほら、早く戻りなさい」
――検査? 転院?
断片的に聞こえてきた不穏な単語に、僕は息を呑んだ。
教師に背を向けて歩き出した凪は、ふと廊下の隅に立ち尽くしている僕の存在に気づいた。
彼女は一瞬だけ、本当に一瞬だけ、傷口を見られたような顔で目を見開いた。
しかし次の瞬間には、いつもの「ふざけた笑顔」を顔の表面に貼り付け、顔の横で小さくひらひらと手を振ってみせた。そして、人差し指を唇に当てて、悪戯っぽくウインクをする。
『内緒ね』
声にならないそのメッセージに、僕は何も答えることができなかった。
ただ、白昼の強い光の中へ溶けていくような彼女の華奢な背中を、見送ることしかできなかった。
〇
「ピピーッ!」
その日の夜。いつものプールサイドに、間の抜けたホイッスルの音が鳴り響いた。
「さあ佐倉選手! 準備運動はバッチリですね! 今日はついに、三メートル板からのジャンプに挑戦です!」
月明かりの下、首から笛を下げた凪は、何事もなかったかのようにハイテンションでバインダーを叩いている。
僕の足元には、一メートル板よりも少しだけ高い、三メートルの飛び込み板。
「……お前、昼間」
たまらず口を開きかけた僕を見て、凪は両手で耳をバシッと塞いだ。
「あー聞こえない聞こえない! 私は夜しか生きられない吸血鬼なので、昼間の記憶は一切ございませーん!」
「おい、一ノ瀬」
「吸・血・鬼・ですっ! ほら、早く跳ばないと血を吸うぞ、シャーッ!」
犬の威嚇のような変な声を上げながら、凪は僕に向かって牙を剥く真似をした。
その強引な誤魔化し方を見ていたら。
……なんだかもう、追及する気力がすーっと抜けてしまった。
彼女が昼間に見せたあの儚い横顔と、教師との不穏な会話。明らかに普通の高校生活を送っていないであろう事情。
彼女が意図的にその「影」を隠そうとしているのなら、今はそれに付き合ってやろう。彼女が夜のプールを「ふざけた吸血鬼」として楽しみたいなら、僕がその道化の相方になってやればいい。
「……勝手にしろ、吸血鬼」
呆れたようにため息をつきながら、僕は笑った。
「よーし、いい返事だ! じゃあ行ってみよう!」
凪の明るい声に背中を押され、僕は三メートルの飛び込み板へと足を乗せた。
夜風は生ぬるいのに、胸の奥だけが、微かな痛みと熱を帯びて焦げついているようだった。
窓の外でやかましく鳴く蝉の声が、担任の教師の単調な声をかき消していく。夏休みの三者面談に向けた事前の進路指導。どうせスポーツ推薦の話は白紙に戻ったのだから、今さら何を言われたところで響くものなんてない。生返事を繰り返しながら、僕の意識は完全に別の場所――いや、別の時間へと飛んでいた。
『あはははは! なにそれ、ダッサ!』
頭の奥で、底抜けに明るい笑い声がリフレインしている。
昨夜のコンビニの駐車場。溶けかけたパピコと、夜風に混じる夏の匂い。
同情も慰めも拒絶していた僕の無様な過去を、彼女はあんなにもあっけなく、ゲラゲラと笑い飛ばしてくれた。
それが、どれほど僕を救ったか。
「好き」だとか「恋」だとか、そんな明確で甘ったるい名前をつけるには、まだ少し早い気がする。ただ確かなのは、僕はもう彼女から目が離せなくなっているということだ。
あいつのデタラメなペースに巻き込まれるのが、どうしようもなく心地いい。
僕の止まっていた時間は、彼女という強烈な引力に引っ張られて、確かに動き出していた。
「……佐倉、聞いてるのか?」
「あ、はい。考えておきます」
適当に面談を切り抜け、僕は進路指導室を後にした。
少しだけ頭を冷やそうと、普段はあまり人の来ない旧校舎の廊下へ足を向ける。ここは風通しがよく、自販機もあるからだ。
スポーツドリンクを買い、微かに埃の匂いがする廊下を歩いていた時だった。
「……え?」
開け放たれた窓辺に、見覚えのある後ろ姿があった。
一ノ瀬凪。
声をかけようとした僕の口は、しかし、半開きのまま音を失った。
強烈な夏の真昼の日差しが、窓枠にもたれかかる彼女の身体の輪郭を白く飛ばしていた。色素の薄い髪が風に揺れている。
夜のプールで見せる、あのエネルギッシュで鬱陶しいほどの存在感はどこにもなかった。強い光に透けて今にも消えてしまいそうなほど、彼女の纏う空気は青白く、そしてひどく静かだった。
いつもはうるさいほどの口数も、大げさな身振り手振りもない。ただじっと、酷く大人びた、どこか寂しそうな瞳で、遠くの夏空を見つめている。いや、彼女の視線の先にあるのは、空に突き刺さる十メートルの飛び込み台だった。
「一ノ瀬、こんなところで何してる」
沈黙を破ったのは、僕の声ではなく、廊下の反対側から歩いてきた中年の教師の声だった。
凪はびくっと肩を揺らし、振り返る。
「あ、見つかっちゃった。涼んでただけですよー」
「今日の『検査』はどうした。あまり無理をするなと……」
「今から行くところですってば。大丈夫です、元気ですから」
「次の転院の前に、体力を落とされては困るからな。ほら、早く戻りなさい」
――検査? 転院?
断片的に聞こえてきた不穏な単語に、僕は息を呑んだ。
教師に背を向けて歩き出した凪は、ふと廊下の隅に立ち尽くしている僕の存在に気づいた。
彼女は一瞬だけ、本当に一瞬だけ、傷口を見られたような顔で目を見開いた。
しかし次の瞬間には、いつもの「ふざけた笑顔」を顔の表面に貼り付け、顔の横で小さくひらひらと手を振ってみせた。そして、人差し指を唇に当てて、悪戯っぽくウインクをする。
『内緒ね』
声にならないそのメッセージに、僕は何も答えることができなかった。
ただ、白昼の強い光の中へ溶けていくような彼女の華奢な背中を、見送ることしかできなかった。
〇
「ピピーッ!」
その日の夜。いつものプールサイドに、間の抜けたホイッスルの音が鳴り響いた。
「さあ佐倉選手! 準備運動はバッチリですね! 今日はついに、三メートル板からのジャンプに挑戦です!」
月明かりの下、首から笛を下げた凪は、何事もなかったかのようにハイテンションでバインダーを叩いている。
僕の足元には、一メートル板よりも少しだけ高い、三メートルの飛び込み板。
「……お前、昼間」
たまらず口を開きかけた僕を見て、凪は両手で耳をバシッと塞いだ。
「あー聞こえない聞こえない! 私は夜しか生きられない吸血鬼なので、昼間の記憶は一切ございませーん!」
「おい、一ノ瀬」
「吸・血・鬼・ですっ! ほら、早く跳ばないと血を吸うぞ、シャーッ!」
犬の威嚇のような変な声を上げながら、凪は僕に向かって牙を剥く真似をした。
その強引な誤魔化し方を見ていたら。
……なんだかもう、追及する気力がすーっと抜けてしまった。
彼女が昼間に見せたあの儚い横顔と、教師との不穏な会話。明らかに普通の高校生活を送っていないであろう事情。
彼女が意図的にその「影」を隠そうとしているのなら、今はそれに付き合ってやろう。彼女が夜のプールを「ふざけた吸血鬼」として楽しみたいなら、僕がその道化の相方になってやればいい。
「……勝手にしろ、吸血鬼」
呆れたようにため息をつきながら、僕は笑った。
「よーし、いい返事だ! じゃあ行ってみよう!」
凪の明るい声に背中を押され、僕は三メートルの飛び込み板へと足を乗せた。
夜風は生ぬるいのに、胸の奥だけが、微かな痛みと熱を帯びて焦げついているようだった。


