飛び込み台の、水飛沫みたいな恋だった

「あーあ、今日もコーチ疲れちゃったなー。喉も渇いたし、頭使ったから糖分も足りないなー」

 深夜の学校を抜け出し、人気のない住宅街の裏道を歩きながら、凪がわざとらしく大きなため息をついた。隣を歩く僕は、ジト目で彼女を見下ろす。

「さっき俺のシュークリーム半分食っただろ」
「あれは特訓の一環! 私が今要求しているのは、純粋な食欲に基づく報酬です! ほら佐倉選手、偉大なるコーチにパピコを奢る権利を与えます」
「なんだよ、その恩着せがましいカツアゲは……」

 ぶつぶつと文句を言いながらも、僕の足は自然とコンビニエンスストアへと向かっていた。
 店内に入り、アイスケースからコーヒー味のパピコを取り出す。レジで会計を済ませる間、凪は背後で「やったー」と小躍りしていた。
 カツアゲされているというのに、僕の胸の中には微塵も不快感がなかった。むしろ、彼女のデタラメなペースに巻き込まれるこのやり取りを、どこかで心地よいと感じ始めている自分がいた。

 コンビニを出て、駐車場の端にあるコンクリートの車止めに二人で並んで腰を下ろす。夏の夜の生ぬるい風が、アスファルトの熱を孕んで頬を撫でていった。

「はい、半分」

 パピコを二つに割り、片方を差し出す。凪は「わーい」と受け取ると、さっそく先端に齧り付いた。
 シャリッ、という冷たい音が響く。

「……で?」

 冷たいアイスを口に含んだまま、凪はふと僕のサポーターをつけている右膝へと視線を落とした。

「結局、どうやって盛大にコケたのさ。その足」

 不躾で、一切の遠慮がない問いかけ。
 今までの僕なら「お前には関係ないだろ」と冷たく突き放していただろう。だが、凪に対しては、不思議と抵抗感が湧かなかった。むしろ、溜まりに溜まった澱を吐き出してしまいたいような、そんな衝動に駆られていた。

「……かっこいい悲劇でもなんでもないよ」

 僕はパピコの冷たい感触を指先に感じながら、ぽつりぽつりと話し始めた。

「県大会の決勝だった。プレッシャーに負けたんだと思う。空中で回転している時、ふと感覚がズレた。今自分がどの位置にいて、水面がどこにあるのか分からなくなったんだ」

 当時の記憶が、生々しくフラッシュバックする。
 落下していく時の、内臓が浮き上がる感覚。水面が異常な速さで迫ってくる恐怖。

「体勢を立て直せないまま、水面に叩きつけられた。腹打ちなんてレベルじゃない。まるでコンクリートの壁に激突したみたいだった。……バキッて、自分の骨が軋む嫌な音が、水の中に響いたのを覚えてる」

 息が詰まりそうになり、僕は言葉を切った。アイスを見つめたまま、俯く。

「それ以来、一メートルの高さからでも、水面がコンクリートみたいに見えるようになった。飛び込もうとすると、足がすくんで一歩も動けなくなる。だから競技から逃げたんだ。ただの、ダサい逃げだよ」

 自嘲気味に笑った。
 両親も、コーチも、僕のこの話を聞いて「辛かったな」「ゆっくり治せばいい」と、痛々しいものを見るような、同情の目を向けた。その優しさが、僕には息苦しくてたまらなかった。だから今度も、気まずい沈黙が降りてくるのを覚悟して、身を固くしていた。

 しかし。

「――あははははは! なにそれ、ダッサ!」

 静かな夜の駐車場に響き渡ったのは、予想を遥かに裏切る、底抜けに明るい爆笑だった。

「は……?」

 驚いて顔を上げると、凪はお腹を抱え、パピコを持った手を震わせてゲラゲラと笑っていた。街灯に照らされたその顔には、同情の欠片すら浮かんでいない。

「お前なぁ……! 人がせっかく深刻な話をしてるのに!」
「だって、自分でダサいって言ったじゃん! じゃあ笑ってあげなきゃ損でしょ。あははは、水面がコンクリートって、どんだけビビりなのさ!」

 腹立たしさを通り越して、僕は完全に毒気を抜かれてしまった。
 こいつは本当に、僕のトラウマをただの「笑い話」として消費してしまうのだ。

 ひとしきり笑い転げた後、凪は目尻に浮かんだ涙を指で拭い、ふと真面目な顔になった。
 そして、食べかけのアイスの先端を、僕の顔に向かってビシッと突きつける。

「でもさ」

 まっすぐな、ビー玉のように澄んだ瞳が僕を射抜いた。

「そんなに派手に痛い思いをしたってことはさ。君はあの瞬間、誰よりも高く、誰よりも限界ギリギリまで跳んでたってことだよね」
「……」
「失敗して上がった水しぶきも、きっと他の誰よりも、絶対すごく大きかったはずだよ」

 凪は、アイスを下ろし、夜空を見上げるように微かに目を細めた。

「……私は見たかったな、それ。だって、高く跳べば跳ぶほど、水しぶきは綺麗に弾けるんでしょ?」

 ドクン、と心臓が大きく鳴った。
 僕の「ただのダサい失敗」を、彼女は独自の「水しぶきの哲学」で、強引に、肯定してしまった。無駄じゃなかった。その軌跡は綺麗だったはずだ、と。

 ぽたり。
 手の中で溶けかけたアイスが、僕の手の甲に落ちた。
 冷たさと、ベタつくような甘さ。そして、アスファルトの熱気と混ざり合う、夏の夜の匂い。
 同情されるより、憐れまれるより、ずっと救われた。「無様でいい、むしろそれがいい」と笑い飛ばしてくれた彼女の言葉が、凍りついていた僕の心を急激に溶かしていく。

 僕は、街灯の光に照らされながらアイスを頬張る、彼女の少し子供っぽい横顔をじっと見つめた。

 ほんの少し心臓が跳ねた気がした。

 不思議な感覚だった。

 けれど――。
 急激に熱を帯びる感情の裏側で、ふと、昨夜彼女が口にした言葉が頭をよぎった。

『私に時間があるうちは、ね』

 この心地よいやり取りが、この馬鹿げた特訓が、永遠には続かないのではないか。
 胸の奥に芽生えたばかりの感情は、そんな微かな焦燥感を伴って、夜の闇の中で静かに、けれど確実に熱を放ち始めていた。