「本当に行く意味なんてない」
家を出る時から、いや、昼間からずっと自分にそう言い聞かせていた。あの正体不明の幽霊少女との口約束なんて、ただの冗談だ。本気にする方が馬鹿げている。
だが、気がつけば僕は、またしても深夜の学校のフェンスを乗り越えていた。
夏特有の生ぬるい夜風が、制服のシャツを抜けていく。見上げれば、少しだけ丸みを帯びた月が、静かに夜のプールを照らしていた。
「ピピーッ!」
プールサイドに足を踏み入れた瞬間、間の抜けた甲高い音が鳴り響いた。
びくっと肩を揺らして声のした方を見ると、そこには両手を腰に当て、仁王立ちしている凪の姿があった。
「遅刻! 佐倉選手、たるんでるんじゃないですか!」
「……お前、その笛と謎のボードは何だ」
呆れ果てた僕の視線の先で、凪は百均で買ってきたような安っぽいプラスチックのホイッスルを首から下げ、いっちょ前にバインダーを小脇に抱えていた。ドヤ顔で胸を張る姿は、完全に自分の世界に入り込んでいる。
「形から入るタイプの鬼コーチです。一流のアスリートには一流の指導者が不可欠でしょ? さあ、四の五の言わずにまずは準備運動から! イチ、ニ、サン、シ!」
「お前が勝手に始めたんだろ……」
ぶつぶつと文句を言いながらも、僕はスポーツバッグを置き、彼女の異様なハイテンションに巻き込まれる形で屈伸やアキレス腱伸ばしに付き合わされる羽目になった。
「よし! 準備運動完了! それでは本日の特訓メニュー第一弾を発表します!」
「……なんだよ」
「『メンタルトレーニング』!」
バインダーをバァンと叩き、凪が高らかに宣言する。
「メンタル?」
「はい。恐怖に打ち勝つには、まず頭を鍛える必要があります! つまり、脳への栄養補給、すなわち糖分が不可欠です。というわけで、じゃーん! コンビニの新作シュークリーム!」
どこから取り出したのか、凪はホイッスルを持っていた手に、見事なパッケージのシュークリームを掲げてみせた。
「ただお前が食べたいだけだろ!」
「失礼な! 私はコーチとして、君がシュークリームを食べてリラックスする姿を厳しくチェックする義務があります! ではさっそく、毒が入っていないかコーチ自ら毒見を……あむっ」
「お前が食ってんじゃねぇか!」
結局、僕たちはプールサイドに並んで座り、夜更けのメンタルトレーニングと称した甘いシュークリームを頬張ることになった。
「美味しい?」と覗き込んでくる凪に、「甘すぎる」と悪態をつきながらも、僕の口元は自然と綻んでいた。張り詰めていた緊張の糸が、少しずつほどけていくのを感じる。
ひとしきりふざけ合い、食べ終えたゴミを袋にまとめた後。
凪がふと立ち上がり、プールサイドの端を指差した。
「よし、じゃあ次はあそこに立ってみて」
彼女が指差したのは、十メートル台のずっと下にある、一番低い「一メートル飛び込み板」だった。
「跳ばなくていい。ただ、先端に立つだけ」
その言葉に、さっきまでの緩い空気が一変し、僕の体はビクッと強張った。
一メートル。競技者にとっては地面と同じような高さだ。けれど、今の僕にとっては「水面を見下ろす」という行為そのものが、あの日の落下の恐怖と痛みを鮮明に呼び起こす引き金だった。
「……無理だ」
「大丈夫」
後ずさりしようとした僕の背中を、凪の手がポンと軽く叩いた。
「大丈夫。私がここで見ててあげるから」
背後から聞こえたその声は、先ほどまでのふざけた調子ではなく、夜の静寂に溶け込むような、ひどく静かで優しいものだった。
その不思議な引力に背中を押されるように、僕はゆっくりと一メートル板へと足を踏み出した。
一歩、また一歩。
足裏に伝わる、飛び込み板特有のザラザラとした滑り止めの感触。鼻腔を突く、塩素の匂い。
足元には、夜空を映して黒々と波打つ水面が口を開けている。心臓の鼓動が早くなり、指先が冷たくなるのがわかった。
しかし、後ろを振り返らなくても、凪がそこで見守ってくれているという事実が、不思議と恐怖を和らげてくれた。背中に残る手のひらの温もりが、僕を現実に繋ぎ止めてくれている。
板の先端に立ち、深く息を吐き出す。
落ちるわけじゃない。ただ立っているだけだ。
僕は、自分がほんの少しだけ、この水を受け入れられていることに気づき、驚いていた。
「よくできました!」
ゆっくりと板から戻ってきた僕を、凪は満足げに頷いて出迎えた。
「この調子でいけば、あっという間に十メートルから跳べるようになるね、佐倉選手!」
「……まあ、悪くはなかった」
息をつきながら、僕は素直に認めた。
ふざけた女だと思っていたが、彼女のデタラメなペースに乗せられていると、余計な恐怖を思い出す暇がないのだ。
「明日も、こんな馬鹿な特訓なのか?」
口から出た言葉に、自分でも驚いた。
無意識のうちに「明日」を期待している僕がいたのだ。退部届を破り捨て、すべてを終わらせようとしていた僕が。
しかし、凪はその言葉にすぐには答えなかった。
一瞬だけ目を伏せ、プールに反射する揺れる月明かりを見つめる。その横顔に、初めて見る翳りが落ちたような気がした。
「明日も、明後日もやるよ」
凪は再び僕の方を向き、微かに微笑んだ。
「……私に時間があるうちは、ね」
胸の奥に、小さなトゲが刺さったような感覚を覚えた。
「時間があるうち」とはどういう意味だ。
問い質そうと僕が口を開きかけた瞬間、凪はいつもの底抜けに明るい笑顔に戻っていた。
「よし、本日の特訓はここまで! 解散!」
足早に帰り支度を始める凪の背中を見つめながら、僕は小さく息を呑んだ。
謎めいた言葉の余韻を残したまま、僕と凪の、奇妙で秘密めいた夏が本格的に幕を開けたのだった。
家を出る時から、いや、昼間からずっと自分にそう言い聞かせていた。あの正体不明の幽霊少女との口約束なんて、ただの冗談だ。本気にする方が馬鹿げている。
だが、気がつけば僕は、またしても深夜の学校のフェンスを乗り越えていた。
夏特有の生ぬるい夜風が、制服のシャツを抜けていく。見上げれば、少しだけ丸みを帯びた月が、静かに夜のプールを照らしていた。
「ピピーッ!」
プールサイドに足を踏み入れた瞬間、間の抜けた甲高い音が鳴り響いた。
びくっと肩を揺らして声のした方を見ると、そこには両手を腰に当て、仁王立ちしている凪の姿があった。
「遅刻! 佐倉選手、たるんでるんじゃないですか!」
「……お前、その笛と謎のボードは何だ」
呆れ果てた僕の視線の先で、凪は百均で買ってきたような安っぽいプラスチックのホイッスルを首から下げ、いっちょ前にバインダーを小脇に抱えていた。ドヤ顔で胸を張る姿は、完全に自分の世界に入り込んでいる。
「形から入るタイプの鬼コーチです。一流のアスリートには一流の指導者が不可欠でしょ? さあ、四の五の言わずにまずは準備運動から! イチ、ニ、サン、シ!」
「お前が勝手に始めたんだろ……」
ぶつぶつと文句を言いながらも、僕はスポーツバッグを置き、彼女の異様なハイテンションに巻き込まれる形で屈伸やアキレス腱伸ばしに付き合わされる羽目になった。
「よし! 準備運動完了! それでは本日の特訓メニュー第一弾を発表します!」
「……なんだよ」
「『メンタルトレーニング』!」
バインダーをバァンと叩き、凪が高らかに宣言する。
「メンタル?」
「はい。恐怖に打ち勝つには、まず頭を鍛える必要があります! つまり、脳への栄養補給、すなわち糖分が不可欠です。というわけで、じゃーん! コンビニの新作シュークリーム!」
どこから取り出したのか、凪はホイッスルを持っていた手に、見事なパッケージのシュークリームを掲げてみせた。
「ただお前が食べたいだけだろ!」
「失礼な! 私はコーチとして、君がシュークリームを食べてリラックスする姿を厳しくチェックする義務があります! ではさっそく、毒が入っていないかコーチ自ら毒見を……あむっ」
「お前が食ってんじゃねぇか!」
結局、僕たちはプールサイドに並んで座り、夜更けのメンタルトレーニングと称した甘いシュークリームを頬張ることになった。
「美味しい?」と覗き込んでくる凪に、「甘すぎる」と悪態をつきながらも、僕の口元は自然と綻んでいた。張り詰めていた緊張の糸が、少しずつほどけていくのを感じる。
ひとしきりふざけ合い、食べ終えたゴミを袋にまとめた後。
凪がふと立ち上がり、プールサイドの端を指差した。
「よし、じゃあ次はあそこに立ってみて」
彼女が指差したのは、十メートル台のずっと下にある、一番低い「一メートル飛び込み板」だった。
「跳ばなくていい。ただ、先端に立つだけ」
その言葉に、さっきまでの緩い空気が一変し、僕の体はビクッと強張った。
一メートル。競技者にとっては地面と同じような高さだ。けれど、今の僕にとっては「水面を見下ろす」という行為そのものが、あの日の落下の恐怖と痛みを鮮明に呼び起こす引き金だった。
「……無理だ」
「大丈夫」
後ずさりしようとした僕の背中を、凪の手がポンと軽く叩いた。
「大丈夫。私がここで見ててあげるから」
背後から聞こえたその声は、先ほどまでのふざけた調子ではなく、夜の静寂に溶け込むような、ひどく静かで優しいものだった。
その不思議な引力に背中を押されるように、僕はゆっくりと一メートル板へと足を踏み出した。
一歩、また一歩。
足裏に伝わる、飛び込み板特有のザラザラとした滑り止めの感触。鼻腔を突く、塩素の匂い。
足元には、夜空を映して黒々と波打つ水面が口を開けている。心臓の鼓動が早くなり、指先が冷たくなるのがわかった。
しかし、後ろを振り返らなくても、凪がそこで見守ってくれているという事実が、不思議と恐怖を和らげてくれた。背中に残る手のひらの温もりが、僕を現実に繋ぎ止めてくれている。
板の先端に立ち、深く息を吐き出す。
落ちるわけじゃない。ただ立っているだけだ。
僕は、自分がほんの少しだけ、この水を受け入れられていることに気づき、驚いていた。
「よくできました!」
ゆっくりと板から戻ってきた僕を、凪は満足げに頷いて出迎えた。
「この調子でいけば、あっという間に十メートルから跳べるようになるね、佐倉選手!」
「……まあ、悪くはなかった」
息をつきながら、僕は素直に認めた。
ふざけた女だと思っていたが、彼女のデタラメなペースに乗せられていると、余計な恐怖を思い出す暇がないのだ。
「明日も、こんな馬鹿な特訓なのか?」
口から出た言葉に、自分でも驚いた。
無意識のうちに「明日」を期待している僕がいたのだ。退部届を破り捨て、すべてを終わらせようとしていた僕が。
しかし、凪はその言葉にすぐには答えなかった。
一瞬だけ目を伏せ、プールに反射する揺れる月明かりを見つめる。その横顔に、初めて見る翳りが落ちたような気がした。
「明日も、明後日もやるよ」
凪は再び僕の方を向き、微かに微笑んだ。
「……私に時間があるうちは、ね」
胸の奥に、小さなトゲが刺さったような感覚を覚えた。
「時間があるうち」とはどういう意味だ。
問い質そうと僕が口を開きかけた瞬間、凪はいつもの底抜けに明るい笑顔に戻っていた。
「よし、本日の特訓はここまで! 解散!」
足早に帰り支度を始める凪の背中を見つめながら、僕は小さく息を呑んだ。
謎めいた言葉の余韻を残したまま、僕と凪の、奇妙で秘密めいた夏が本格的に幕を開けたのだった。


