飛び込み台の、水飛沫みたいな恋だった

 「……馬鹿で悪かったな」とため息をついた僕の隣で、凪は楽しそうに鼻歌を歌い続けていた。
 ふと見ると、彼女の手元で何やら白い紙がカサカサと音を立てている。

「おい、お前何して……!」
「ん? 折り紙」

 悪びれもせず答える凪の手の中で、僕の退部届がみるみるうちに形を変えていく。器用な指先が幾度か紙を折りたたみ、あっという間に見慣れた形が完成した。

「はい、完成。未練とトラウマがたっぷり詰まった、重た〜い飛行機。飛ぶかな、これ」
「飛ばすな! それ公式の書類!」

 僕の制止を完全に無視して、凪は立ち上がった。
 そして、ピッチャーが振りかぶるような大きなフォームで、夜のプールに向けて退部届の紙飛行機を思い切り投げ放った。

「あ……」

 僕の口から、間抜けな声が漏れる。
 未練とトラウマを乗せた紙飛行機は、月明かりの下を不格好に宙を舞った。風に乗ることもなく、放物線を描いて真っ逆さまに落下していく。
『ポチャン』
 小さく、けれどやけに鮮明な音を立てて、それは水面に落ちた。
 微かな水しぶきが上がり、静かな水面に幾重にも波紋が広がっていく。紙飛行機はぶくぶくと水を吸って、あっけなくプールの底へと沈んでいった。

 僕の高校生活の終わり。かつて抱いていた栄光も、すべてを打ち砕いた絶望も、あの紙切れ一枚に込められていたはずだった。
 それが、こんなにもあっさりと、見ず知らずの少女の手によって沈められてしまった。呆然とする僕の胸に去来したのは、怒りではなく、憑き物が落ちたような不思議な喪失感だった。

「あーあ、落ちちゃった」

 凪は満足げに笑うと、再び僕の隣に腰を下ろした。
 風が吹いた。火照った頬を撫でる夜風はひんやりと冷たく、遠くの街灯の光が、紙飛行機が作った波紋の残滓をキラキラと反射させている。

「ねえ、湊くん」

 不意に、凪が真顔になって口を開いた。さっきまでのふざけたトーンは消え、その声は夜の静寂にすっと溶け込むように澄んでいた。

「水しぶきって、もったいないと思わない?」
「……は?」
「だってさ。高く跳べば跳ぶほど、大きな水しぶきが上がるでしょ。でも、どんなに綺麗に弾けても、一瞬で消えちゃう。形に残らない。無駄だよね」

 反論しようとして、僕は口ごもった。
 何も言い返せなかったのだ。それは、この数ヶ月間、痛みを誤魔化すために自分に言い聞かせていた「諦め」の感情そのものだった。
 
 僕が黙り込んでいると、凪はゆっくりとこちらを向いた。
 月明かりに照らされた彼女の顔に、柔らかく、けれど熱を帯びた鮮烈な笑顔が浮かぶ。

「でもね、私はあの瞬間が一番きれいだと思う」

 波紋が消え、再び鏡のようになった水面を見つめながら、彼女は言った。

「一瞬で消えちゃうから、ずっと目に焼き付けておきたくなるの」

 ――ドクン、と。
 心臓が、これまでで一番大きく跳ねた。

 一瞬で消えてしまうから、美しい。
 無駄だと思っていた僕の軌跡を、形に残らない水しぶきを、彼女は「一番きれいだ」と断言した。その言葉は、怪我で無様に行き止まり、暗いプールの底で泥のように沈殿していた僕の過去を、確かな光で照らし出していた。
 痛いほどに真っ直ぐな彼女の哲学が、僕の胸の奥深くに突き刺さる。

 息を呑み、彼女の横顔から目を逸らせずにいる僕をよそに。
 パンッ! と、凪が突然大きな音を立てて手を叩いた。

「よし、決めた!」
「……何を」

 しんみりした空気を自ら木っ端微塵にぶち壊し、凪は立ち上がって僕を見下ろした。腰に手を当て、自信満々に胸を張る。

「私、君の飛び込みが見たい。というわけで、今日から私が君の再起をプロデュースしてあげます! 泣く子も黙る鬼コーチ・一ノ瀬凪の誕生です!」
「はぁ!?」

 僕は素っ頓狂な声を上げた。

「お前、水泳のこと何も知らないだろ! 高いところが好きなだけって――」
「細かいことは気にしない! 気合と根性でカバー!」
「カバーできるか!」

 あまりの理不尽さに声を荒げるが、凪はケラケラと笑うばかりだ。
 水底には、僕の退部届が完全に沈みきっている。もう、引き返すことはできない。なし崩し的に、僕は得体の知れない「暇人」の美少女にプロデュースされることになってしまった。

 最悪だ。本当に、最悪の夏休みだ。
 僕は頭を抱えながら、深いため息をついた。

 けれど。
 文句を言いながらも、僕の視線は無意識のうちに、あの見上げるほど高い十メートル台へと向かっていた。
 あの日以来、決して動くことのなかった胸の奥の歯車が、確かに、熱を帯びて回り始めているのを感じていた。