床に落ちたままの退部届を拾い上げようと、しゃがみ込む。
その指先が紙切れに触れる直前。横からスッと白い手が伸びてきて、それをヒョイと摘み上げた。
「おい、返せ」
「『退部届』……ふーん。佐倉湊くん、か」
僕の焦りなどどこ吹く風で、凪は月明かりに紙を透かすようにして眺めている。僕と退部届を交互に何度か見比べると、腹を抱えて吹き出した。
「……ぷっ、あははははは!」
「な、何がおかしいんだよ!」
「だって! 夜のプールで、怪我した足をかばいながら、月明かりの下で退部届を握りしめる元エースって……あははは! なにそれ、ドラマの主人公気取り? ベタすぎて笑えるんだけど!」
ゲラゲラと、遠慮というものを一切知らない笑い声が夜空に響き渡る。
カアッと顔が熱くなった。見透かされていたのだ。自分がどこかで「悲劇のヒーロー」の座に酔い、誰もいない夜のプールをその感傷のステージに仕立て上げていたことを、この見ず知らずの少女は一瞬にして暴き立て、粉砕してしまった。
「笑うな! 返せって言ってんだろ!」
顔を真っ赤にして手を伸ばすが、凪はヒラリヒラリと闘牛士のように僕をかわす。膝の怪我のせいで機敏に動けない僕を、彼女は完全に弄んでいた。
「だいたいお前、水泳部の人間じゃないだろ。何しにこんな時間、学校に来たんだよ」
ぜぇぜぇと息を切らしながら睨みつけると、凪はキョトンとした顔で首を傾げた。
「え? 暇つぶしだけど」
「……は?」
「だから、暇だったの。私、高いところが好きなんだけど、学校で一番高いのってあそこじゃん。だから夜風に当たりに来たの」
こともなげに十メートルの飛び込み台を指差す凪に、僕は頭を抱えたくなった。
「猫かお前は」
「にゃー。で、君は? その足、高飛込で失敗でもしたの?」
「……ッ」
「どうせ、空中で回転しすぎて水面に叩きつけられたとかでしょ。痛いよねー、あれ。腹打ち? それとも顔面強打?」
容赦がない。本当に、一ミリの容赦もない。
医者も、親も、コーチも、チームメイトも、僕の傷には腫れ物に触るように接してきたというのに。この少女は土足でズカズカと踏み込んできて、僕の一番痛いところをゲラゲラ笑いながら指の腹でぐりぐりと押し広げてくる。
「お前……いい加減にしろよ。これ以上ふざけるなら、教師に通報するぞ」
「いいよ?」
僕の精一杯の脅しに、凪はニッコリと微笑んだ。
「でも君も不法侵入じゃん。一緒に怒られよっか。あ、それか、私が泣き真似して『この人に夜のプールに無理やり連れ込まれましたぁ!』って叫んだら、君どうなるかな?」
「……悪魔か、お前は」
「タチの悪い美少女って言ったでしょ」
えっへん、と胸を張る凪を前に、僕は深い敗北感を味わっていた。関わってはいけない、完全にヤバい女に見つかってしまった。ペースを握られっぱなしで、反撃の糸口すら見つからない。
だが――不思議なことに、ひどく嫌な気分ではなかったのだ。
肺の奥底にこびりついていた濁った空気が、微かに押し出される。呼吸が、ほんの少しだけ軽くなっていることに気づく。
僕が押し黙っていると、凪は唐突にプールサイドに腰を下ろした。
カタン、カタンと、ローファーを乱暴に脱ぎ捨てる。白いハイソックスも脱ぎ、無防備な素足を露わにすると、それを躊躇いもなくプールの水面へと滑り込ませた。
バシャ、バシャ。
無邪気に足を揺らすたび、月明かりを反射して鏡のように滑らかだった水面が、幾重にも波紋を広げて砕けていく。
先ほどまでのドタバタとした喧騒が嘘のように、一瞬だけ、夜のプールに静寂が訪れた。聞こえるのは、凪が立てる微かな水音と、遠くで鳴く虫の声だけだ。
月明かりに照らされた凪の白い足と、その横顔は、生意気な口調とは裏腹に、どこか儚げで、酷く綺麗だった。
彼女は揺れる水面を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「ねえ。君、本当はあそこから飛びたいんでしょ」
視線が、真っ直ぐに僕を射抜く。
「違う……僕は、もう」
言葉が喉に詰まる。凪は退部届をひらひらと揺らし、無邪気に笑った。
「私、高いところは好きだけど、自分の足で飛ぶ勇気はないんだよね。――ねえ、湊くん。あそこから飛んだら、どんな景色が見えるの」
心臓が、大きく一つ、跳ねた。
「飛び込みってすごいよね」
その声は、さっきまでのからかうような調子ではなく、静かな、夜の空気に溶け込むようなトーンだった。
「一瞬で終わっちゃうのに。その一瞬のために、何度も何度も、あの怖いところから落ちるんでしょ」
水しぶきを上げて遊んでいた足を止め、凪は水面に映る自分の顔を覗き込むようにして言った。
「……馬鹿みたい」
それは悪口のようでもあり、同時に、僕が費やしてきた膨大な時間と情熱への、ひどく優しい肯定のようにも聞こえた。
「……馬鹿で悪かったな」
完全に毒気を抜かれた僕は、深く、本当に深いため息をついた。帰るタイミングなんて、もうとっくに失っている。
僕はスポーツバッグを足元に置き、凪から少しだけ距離を空けたプールサイドに、ゆっくりと腰を下ろした。
真夜中の学校。水のないプールの底に沈んでいた僕と、水面を無邪気に蹴る正体不明の少女。
静寂と喧騒が入り混じる、奇妙な僕たちの時間が、こうして始まったのだ。
その指先が紙切れに触れる直前。横からスッと白い手が伸びてきて、それをヒョイと摘み上げた。
「おい、返せ」
「『退部届』……ふーん。佐倉湊くん、か」
僕の焦りなどどこ吹く風で、凪は月明かりに紙を透かすようにして眺めている。僕と退部届を交互に何度か見比べると、腹を抱えて吹き出した。
「……ぷっ、あははははは!」
「な、何がおかしいんだよ!」
「だって! 夜のプールで、怪我した足をかばいながら、月明かりの下で退部届を握りしめる元エースって……あははは! なにそれ、ドラマの主人公気取り? ベタすぎて笑えるんだけど!」
ゲラゲラと、遠慮というものを一切知らない笑い声が夜空に響き渡る。
カアッと顔が熱くなった。見透かされていたのだ。自分がどこかで「悲劇のヒーロー」の座に酔い、誰もいない夜のプールをその感傷のステージに仕立て上げていたことを、この見ず知らずの少女は一瞬にして暴き立て、粉砕してしまった。
「笑うな! 返せって言ってんだろ!」
顔を真っ赤にして手を伸ばすが、凪はヒラリヒラリと闘牛士のように僕をかわす。膝の怪我のせいで機敏に動けない僕を、彼女は完全に弄んでいた。
「だいたいお前、水泳部の人間じゃないだろ。何しにこんな時間、学校に来たんだよ」
ぜぇぜぇと息を切らしながら睨みつけると、凪はキョトンとした顔で首を傾げた。
「え? 暇つぶしだけど」
「……は?」
「だから、暇だったの。私、高いところが好きなんだけど、学校で一番高いのってあそこじゃん。だから夜風に当たりに来たの」
こともなげに十メートルの飛び込み台を指差す凪に、僕は頭を抱えたくなった。
「猫かお前は」
「にゃー。で、君は? その足、高飛込で失敗でもしたの?」
「……ッ」
「どうせ、空中で回転しすぎて水面に叩きつけられたとかでしょ。痛いよねー、あれ。腹打ち? それとも顔面強打?」
容赦がない。本当に、一ミリの容赦もない。
医者も、親も、コーチも、チームメイトも、僕の傷には腫れ物に触るように接してきたというのに。この少女は土足でズカズカと踏み込んできて、僕の一番痛いところをゲラゲラ笑いながら指の腹でぐりぐりと押し広げてくる。
「お前……いい加減にしろよ。これ以上ふざけるなら、教師に通報するぞ」
「いいよ?」
僕の精一杯の脅しに、凪はニッコリと微笑んだ。
「でも君も不法侵入じゃん。一緒に怒られよっか。あ、それか、私が泣き真似して『この人に夜のプールに無理やり連れ込まれましたぁ!』って叫んだら、君どうなるかな?」
「……悪魔か、お前は」
「タチの悪い美少女って言ったでしょ」
えっへん、と胸を張る凪を前に、僕は深い敗北感を味わっていた。関わってはいけない、完全にヤバい女に見つかってしまった。ペースを握られっぱなしで、反撃の糸口すら見つからない。
だが――不思議なことに、ひどく嫌な気分ではなかったのだ。
肺の奥底にこびりついていた濁った空気が、微かに押し出される。呼吸が、ほんの少しだけ軽くなっていることに気づく。
僕が押し黙っていると、凪は唐突にプールサイドに腰を下ろした。
カタン、カタンと、ローファーを乱暴に脱ぎ捨てる。白いハイソックスも脱ぎ、無防備な素足を露わにすると、それを躊躇いもなくプールの水面へと滑り込ませた。
バシャ、バシャ。
無邪気に足を揺らすたび、月明かりを反射して鏡のように滑らかだった水面が、幾重にも波紋を広げて砕けていく。
先ほどまでのドタバタとした喧騒が嘘のように、一瞬だけ、夜のプールに静寂が訪れた。聞こえるのは、凪が立てる微かな水音と、遠くで鳴く虫の声だけだ。
月明かりに照らされた凪の白い足と、その横顔は、生意気な口調とは裏腹に、どこか儚げで、酷く綺麗だった。
彼女は揺れる水面を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「ねえ。君、本当はあそこから飛びたいんでしょ」
視線が、真っ直ぐに僕を射抜く。
「違う……僕は、もう」
言葉が喉に詰まる。凪は退部届をひらひらと揺らし、無邪気に笑った。
「私、高いところは好きだけど、自分の足で飛ぶ勇気はないんだよね。――ねえ、湊くん。あそこから飛んだら、どんな景色が見えるの」
心臓が、大きく一つ、跳ねた。
「飛び込みってすごいよね」
その声は、さっきまでのからかうような調子ではなく、静かな、夜の空気に溶け込むようなトーンだった。
「一瞬で終わっちゃうのに。その一瞬のために、何度も何度も、あの怖いところから落ちるんでしょ」
水しぶきを上げて遊んでいた足を止め、凪は水面に映る自分の顔を覗き込むようにして言った。
「……馬鹿みたい」
それは悪口のようでもあり、同時に、僕が費やしてきた膨大な時間と情熱への、ひどく優しい肯定のようにも聞こえた。
「……馬鹿で悪かったな」
完全に毒気を抜かれた僕は、深く、本当に深いため息をついた。帰るタイミングなんて、もうとっくに失っている。
僕はスポーツバッグを足元に置き、凪から少しだけ距離を空けたプールサイドに、ゆっくりと腰を下ろした。
真夜中の学校。水のないプールの底に沈んでいた僕と、水面を無邪気に蹴る正体不明の少女。
静寂と喧騒が入り混じる、奇妙な僕たちの時間が、こうして始まったのだ。


