飛び込み台の、水飛沫みたいな恋だった

 10年前

 夜のプールは、昼間とはまるで違う顔を持っている。
 底抜けに明るい太陽も、やかましい蝉の声も、容赦なく照りつける熱気も、ここには届かない。水面は鏡のように滑らかで、空に浮かぶ細い月を歪みなく映し出している。ひんやりとした夜風が吹き抜けると、微かにツンとした塩素の匂いが鼻腔をくすぐった。

 十七歳の夏。僕は、フェンスを乗り越えて深夜の学校のプールに忍び込んでいた。
 足元には、波一つない静かな水面。そして視線を上げれば、夜空に突き刺さるようにそびえ立つ十メートルの飛び込み台があった。

 それを見上げるだけで、息が詰まる。
 無意識に、右膝を庇うように手を当てていた。半年前に負った怪我そのものは、もうとっくに完治している。医者も「競技への復帰に問題はない」と太鼓判を押した。
 けれど、問題は僕の頭の中にあった。

 飛び込み台の先端に立つと、足がすくんで一歩も動けなくなるのだ。
 落下していく時の、内臓が浮き上がるような浮遊感。水面に叩きつけられた瞬間の、骨が軋むような鈍い痛みと、視界を覆い尽くした真っ赤な血の色。
 その記憶がこびりついて離れず、僕は「飛べない選手」になってしまった。
 同情を含んだコーチの視線も、気を使うチームメイトの態度も、もうたくさんだった。僕は部活に顔を出さなくなり、気付けば夏休みの半分が、無為な自堕落さの中で溶けて消えていた。

 手の中にある、くしゃくしゃになった紙切れを見下ろす。退部届だ。
 今日こそ、これを置いて言葉を去ろう。そうすれば、諦めがつく。飛び込み台への未練も、過去の栄光への執着も、すべて断ち切れるはずだ。
 大きく息を吸い込み、ふと夜空を見上げた、その時だった。

「ふふふーん、ふふーん♪」

 突如、頭上から場違いなほど軽快な鼻歌が降ってきた。
 心臓が跳ね上がった。ビクンと肩を揺らし、恐る恐る声のする方を見上げる。

「……え?」

 我が目を疑った。
 十メートル飛び込み台の、その一番高い先端。幅わずか六十センチほどしかない細いコンクリートの板の上に、人が立っていたのだ。
 セーラー服のシルエット。夜風にスカートと長い髪が煽られ、今にもバランスを崩して落ちてしまいそうだ。
 自殺志願者だ。真っ先にそう思った。

「おい、何やってるんだ! 早まるな!」

 静寂を切り裂くような自分の大声が、夜のプールに反響する。
 飛び込みの体勢なんて取っていない。あのまま無防備に落ちれば、水面に打ちつけられてただでは済まない。
 僕は退部届を放り出し、プールサイドを蹴って駆け出そうとした。

「……えっ?」

 頭上から、間の抜けた声が降ってきた。
 危うい足場の上に立つ少女は、身投げするどころか、不満げに頬を膨らませて下を覗き込んでいた。

「ちょっと、人がせっかく黄昏てたのに大声出さないでよ。幽霊だと思った?」
「いや、飛び降りるのかと……てか、お前こそ誰だ! 水泳部じゃないだろ!」
「残念でした。幽霊よりもタチの悪い美少女です」

 少女はくるりと背を向けると、手すりを掴み、スルスルと猿のような身軽さで梯子を降りてきた。飛び込み台に慣れている動きではないが、高いところへの恐怖心が微塵も感じられない。

 コンクリートの床にふわりと着地した彼女は、スタスタと僕の方へ歩み寄ってきた。
 月明かりの下で、その顔立ちが鮮明になる。
 色素の薄い茶色がかった髪に、大きな瞳。整った顔立ちは確かに「美少女」と自称するだけのことはあるが、その瞳には悪戯っ子のような光が宿っていた。

「夜風に当たって涼んでただけなのに、びっくりして落ちるかと思ったじゃない。責任取ってよね」
「勝手に登ってたお前が悪いんだろ。そもそも、ここは関係者以外立ち入り禁止だ。不法侵入だぞ」
「あら、それを言うなら君もでしょ? こんな夜更けに」

 ニヤリ、と小悪魔のように笑う彼女に、僕は言葉に詰まった。確かに、僕も正規の手続きを踏んでここにいるわけではない。
 気まずくなって視線を逸らす僕に、彼女はさらに距離を詰めてくる。顔が近い。ふわりと、シャンプーのような甘い香りが塩素の匂いに混じった。

「名前は一ノ瀬凪。高いところが好きだから、登ってみただけ。君は?」

​ 馴れ馴れしく話しかけてきながら、凪は僕の足元に視線を落とした。
 半ズボンから覗く右膝のテーピング跡。そして、足元には先ほど僕が放り出した、くしゃくしゃの退部届。

​ まずい。直感が、警鐘を鳴らした。

​「帰る」