飛び込み台の、水飛沫みたいな恋だった

 第15話(最終話)『永遠に乾かない水飛沫と、明日への跳躍』

 足場に囲まれた、十メートルの頂上。
 吹き抜ける夜風が、僕の体温を少しずつ奪っていく。眼下には、水抜き前夜の、黒く静かに沈み込んだ水面が口を開けていた。
 見上げる夜空に、十年前のような完璧な満月はない。鋭く削り取られたような細い三日月が、冷たい光を放っているだけだった。

 この十年間、僕は世界中の巨大なプールで跳び続けてきた。
 鼓膜を破らんばかりの大観衆の歓声、実況アナウンサーの叫び声、そして数え切れないほどのカメラのフラッシュ。表彰台の一番高い場所に立ち、首に重い金メダルをかけられるたびに、世界中が僕を「完璧だ」と称賛した。
 けれど、どれほど美しいノースプラッシュを決めても、僕の心はずっと冷え切ったままだった。

 当たり前だ。
 俺は、世界一になりたかったわけじゃない。
 ただ、あの夜の彼女にもう一度、褒めてほしかっただけなんだから。

 『一生、私のことを忘れられないよ』

 彼女が遺したあの言葉と、唇に落ちた魔法。それは、高い場所から落ちる恐怖を完全に消し去る、強烈な推進力となって僕を世界の頂点まで押し上げた。
 しかし同時に、それは僕の心をこの古びた母校のプールに縛り付け、どれほど大勢の観客に囲まれても、常にたった一人の少女の幻影を探し続ける「孤独なアスリート」に変えてしまった『呪い』でもあった。

 だが、今はもう違う。
 昨夜、この錆びた梯子を登り切った時、僕はついに理解したのだ。
 彼女は、僕を縛り付けるためにあんな魔法をかけたのではない。僕が僕自身の人生を、誰よりも高く、自由に飛べるように祈ってくれた――彼女なりの、精一杯の『お守り』だったのだと。

 それにすがりつき、都合のいい呪いとして利用し、自分の時間を止めていたのは僕の方だ。

 「……お前の魔法は、ここまでだ。今日からは、俺の足で跳ぶ」

 僕は教師用のジャージを脱ぎ捨て、足場の隅に無造作に放り投げた。
 夜の冷気が、肌を粟立たせる。
 十年前と同じように、深く、静かに夜の空気を肺の奥底まで吸い込んだ。

 もう、観客の拍手も、メダルの輝きもいらない。
 これは、十年間立ち止まっていた「自分自身の時間」を動かすための、たったひとりの跳躍だ。

 僕は空気を蹴り、三日月の浮かぶ夜空へと身を投げた。

 重力から解放され、体が宙を舞う。
 風を切る激しい音の中で、すべての時間がひどくゆっくりと、スローモーションのように引き伸ばされていくのを感じた。
 世界大会で何度も見せた、極限まで研ぎ澄まされた完璧なフォーム。しかし、今の僕の胸にあるのは、点数を気にするようなアスリートの冷たい計算ではない。
 ただ純粋に、空を飛ぶことの恐れと喜びだった。

 指先が、黒い水面を捉える。

 ――ザパーンッ!

 深夜の学校に、大きく、高く、美しい水音が響き渡った。
 世界を制した男の、完璧な入水。十年前のあの夜と同じ、巻き上がった巨大な水しぶきが、三日月の光に照らされて、一瞬だけ空中でキラキラと弾けた。

 全身を包み込む水の重力と、圧倒的な静寂。
 ゆっくりと浮上し、水面に顔を出す。
 濡れた髪をかき上げ、ふとプールサイドへ視線を向けた時――僕は息を呑んだ。

 そこには、もう何年も置かれていなかったはずのパイプ椅子があった。
 そして、その『特等席』には、赤いカーディガンを羽織った彼女が座っていた。

 月明かりの下、彼女はあの夜と同じように、泣き笑いのような、ひどく眩しい顔をして僕を見つめている。
 そして、胸の前でパチパチと音のない拍手をし、嬉しそうに口パクでこう告げたのだ。

 『百点満点!』

 僕は水の中から彼女を見上げた。
 十年間、どれほど探しても見つからなかった、たった一人の僕のコーチ。
 胸にこびりついていた重い執着が、水に溶けていくのを感じた。僕は、この十年間で一度も見せたことのないような、心からの優しい顔で微笑み返した。

 「……ありがとう。やっと、お前の魔法が解けたよ」

 僕がそう呟いた瞬間だった。
 一陣の夜風がプールサイドを吹き抜け、水面を揺らした。
 風が通り過ぎた後には、もう彼女の姿も、パイプ椅子もなかった。弾けた水しぶきの余韻と一緒に、静かに夜の空気へ溶けて消えてしまったのだ。

 後に残ったのは、凪がいない『現実』の静かな水音だけ。
 しかし、今の僕の胸には、圧倒的な喪失感など欠片もなかった。ただ、すべてをやり遂げたという、静かで確かな充足感だけが、波紋のように広がっていた。

 *

 翌朝。
 職員室の窓からは、目を細めるほど眩しい夏の朝日が差し込んでいた。

 ガラガラ、ドスーン! と、地響きのような音が外から聞こえてくる。
 窓の外ではすでに重機が動き出しており、旧プールの十メートル飛び込み台の解体作業が本格的に始まっていた。
 黄色い巨大なアームが振り下ろされ、僕があの夜登った赤錆びた梯子が、無残に、あっけなく壊されていく。

 「あーあ、ついに壊されちゃいますね。……やっぱり少し寂しいですか、佐倉先生?」

 隣の席の同僚が、コーヒーカップを片手に窓の外を見ながら声をかけてきた。
 僕は、崩れ落ちていくコンクリートの塔から視線を外し、同僚へと向き直る。

 「……いや。あいつの役目は、もう終わりましたから」

 僕のその言葉に嘘はなかった。
 ガラスに映る自分の顔は、世界の大舞台で金メダルを手にした時のどの瞬間よりも、ずっと晴れやかで、前を向いていた。

 飛び込み台が崩れ落ちる鈍い音を背中で聞きながら、僕は窓の外に広がる高く澄んだ青空を見上げる。

 『一瞬で形を変え、重力に従って消えてしまう。それは飛び込み台の、水飛沫みたいな恋だった。』

 彼女という物理的な水しぶきは、もう二度と僕の目の前には現れない。形を変え、重力に従って、あの夏の中に消えてしまった。

 『けれど、あの夏に俺が浴びた冷たい水の感触と、ひどく眩しかった彼女の記憶だけは、これからの俺の人生で、永遠に乾くことはないのだ。』

 予鈴のチャイムが、学校中に鳴り響く。
 魔法は解けた。だが、お守りとしての水しぶきの跡は、しっかりとこの胸に残っている。
 僕は職員室の窓に背を向け、出席簿を手に取った。
 止まっていた時計の針は、もう力強く動き出している。僕は、新しい一日が待つ教室へと、顧問として待つ生徒たちの元へと向かって、真っ直ぐに歩き出した。