飛び込み台の、水飛沫みたいな恋だった

 職員室の窓から見下ろす旧プールの景色は、数日前から無機質な鉄の格子に覆われ始めていた。
 十メートルの飛び込み台を取り囲むように組まれた、工事用の足場。それは、僕の青春という名の聖域を強引に解体し、現実という名の砂地に引き摺り下ろそうとする、暴力的な時代の意志のようだった。

 「佐倉先生。旧プール、明日からいよいよ水抜きして本格的に解体ですね」

 昼休み、部活のタイム表を整理していた僕に、水泳部の生徒が無邪気な声をかけてきた。彼は窓の外の足場を一瞥し、屈託なく笑う。

 「先生は世界大会のすごいプールで何度も跳んできたんだから、あんなボロボロの飛び込み台、なくなっても何とも思わないですよね」

 僕はタイム表から顔を上げ、視線を窓の外に向けたまま、教師らしい穏やかな笑みを浮かべた。
 「……ああ。ただの老朽化した設備だからな。寂しくはないよ」

 自分でも驚くほど、滑らかな嘘だった。
 生徒の言う通り、僕はこの十年間、ロンドン、パリ、世界中のあらゆる巨大で美しいプールを経験してきた。数万人の観衆を収容できる最新鋭の設備。水質も、飛び込み台の弾力も、すべてが計算し尽くされた完璧な舞台。
 だが、どんなに高価で美しい飛び込み台に立っても、僕の心は決して満たされなかった。

 僕にとって、あの赤錆びた十メートルの台だけが、世界の中心だったのだ。
 あそこは僕にとって唯一の『聖域』であり、同時に、一生逃れられない『呪いの中心地』だった。

 *

 その日の深夜。僕は再び、あの場所へと足を運んだ。
 十七歳の頃は、心臓の鼓動を殺しながら高いフェンスをよじ登って不法侵入していた。けれど今の僕は、ポケットの中に職員用という正当な「合鍵」を持っている。
 ガチャリ、という冷たく乾いた金属音と共に解錠される門。
 そのあまりにスムーズな許可が、かえって僕に「お前はもう、世界一のアスリートとして成功し、社会の枠組みに収まった大人なのだ」という残酷な現実を突きつけてくる。

 一歩足を踏み入れると、そこには水抜き前夜の、最後の水を湛えたプールが静まり返っていた。
 空にはあの日のような巨大な満月ではなく、ナイフの刃のように鋭く欠けた三日月が浮かんでいる。水面は鏡のように光を反射することもなく、ただ黒く沈み、重い沈黙を守っている。
 プールサイドの「特等席」に、パイプ椅子はない。もちろん、ホイッスルを下げた彼女の姿も。

 僕はスーツの上着を脱いで足場に放り投げると、ネクタイを緩め、飛び込み台への梯子に手をかけた。

 ギィ……、と耳障りな金属音が夜の静寂を切り裂く。
 掌に伝わる、ざらついた赤錆の感触。
 これまでの十年間、僕が登ってきた世界大会の梯子は、どれも完璧に滑り止め加工が施された、冷たくて清潔なステンレス製だった。しかし、この母校の、血の匂いがするような赤錆だらけの梯子ほど、足取りが重くなる場所は世界のどこにもない。

 一段、また一段と登っていく。
 高度が上がるにつれ、吹き抜ける夜風の中に、この十年で経験してきた栄光の記憶がフラッシュバックし始めた。
 鼓膜を揺らす数万人の大歓声。英語でまくし立てる場内アナウンス。視界を白く染める無数のカメラのフラッシュ。

 だが、それらの圧倒的な喧騒は、記憶の底から響く一つの声によって、あっけなくかき消されていく。

 『遅刻! 佐倉選手、たるんでるんじゃないですか!』

 ピーッ! という、鼓膜を刺すような安っぽいプラスチックのホイッスルの音。
 心臓が早鐘を打つ。僕は幻聴に耳を塞ぎたくなる衝動を堪え、ただひたすらに頂上を目指した。

 ようやく辿り着いた十メートルの頂上は、工事用の足場に囲まれ、ひどく狭苦しく変貌していた。
 僕は足場の隙間から、眼下の黒い水面をじっと見つめる。

 その時だった。
 肺の奥に溜まっていた熱い何かが、一気に喉元までせり上がってきた。

 僕は、ずっと勘違いをしていたのだ。
 彼女がかけた「一生忘れられない魔法」は、恐怖を完全に消し去り、僕を世界一へと押し上げた。僕はその魔法を、自分を過去に縛り付ける『呪い』だと思い込んでいた。

 だが、違う。
 世界中のどんな巨大なスタジアムで跳ぶ時も、僕は無意識のうちに、観客席のどこかに「赤いカーディガン」を探してしまっていた。
 世界一の称号なんて、本当はどうでもよかった。僕はただ、彼女に褒めてもらうためだけに、彼女を驚かせるような一番きれいな水しぶきを上げるためだけに、十年間も一人で跳び続けていたのだ。

 彼女の魔法は、僕の時間を止めるための呪いではなかった。
 恐怖に負けず、何度でも高い場所から跳び立ち、自分の人生を生き抜くために彼女が遺してくれた『お守り』だったのだ。
 それに勝手に囚われ、自分自身で時間を止めていたのは、他でもない僕だった。

 「……本当に、身勝手な奴だな」

 三日月の下、僕は震える指でワイシャツのボタンに手をかける。
 自分を縛っていたのは、彼女の言葉ではなく、彼女を失った空虚さに甘んじ、観客席に幻影を探し続けていた自分自身の未練だった。

 「お前がくれたお守り、明日で返しにくるよ」

 夕暮れの空に向かって、誰にも届かない声で呟く。
 明日の朝、この台の本格的な解体が始まる。
 明日、僕は跳ぶ。
 数多のメダルを手にした世界王者の『佐倉選手』としてではなく。
 十年前のあの夏からずっと時間が止まったままの、一人の不器用な少年、『佐倉湊』として。

 夜風が、緩めたワイシャツの襟元を冷たく撫でていく。
 僕は十年経っても決して乾くことのない魔法の冷たさを唇に感じながら、眼下の黒い水面を静かに見下ろしていた。