飛び込み台の、水飛沫みたいな恋だった

あの満月の夜の翌日。僕の唇には、まだぞっとするような魔法の冷たさが残っていた。
深夜、抜け殻のような足取りで夜の学校へと向かい、フェンスを越えた。
しかし、そこに彼女の姿はなかった。
次の日も、その次の日も。
彼女がいなくなった夜のプールは、驚くほど静かで、ただの生ぬるいコンクリートの箱でしかなかった。鼓膜を刺すようなホイッスルの音も、呆れるほど真っ直ぐな言葉も、ふざけた笑い声も、もう聞こえない。
僕は十メートルの飛び込み台を見上げたが、一人であの梯子を登る気にはなれなかった。ただ、彼女の『特等席』だったパイプ椅子を、いつまでもぼんやりと見つめることしかできなかった。

夏休みが明けた、九月の始業式。
ホームルームの短い静寂の中、担任教師はひどく事務的な口調で事後報告を行った。
「皆さんに、残念なお知らせがあります。一ノ瀬凪さんが、亡くなりました」
教室がざわめく中、僕の心臓はひどく静かだった。
泣き叫ぶことも、取り乱すこともなかった。ただ、「ああ、やっぱり」という静かな納得と共に、体の内側から急速に温度が奪われ、心臓の奥が冷たい石のように固まっていくのを感じた。
放課後、気がつけば僕は一人でプールに向かっていた。
すでに秋の気配が混じり始めた風が、水面を細かく揺らしている。ふと、濁り始めた水底に目を落とした僕は、息を呑んだ。
そこには、泥に塗れた一つの紙飛行機が沈んでいた。一ヶ月前、彼女が「こんなもの必要ない」と笑って投げ捨てた、僕の退部届だ。
ふやけて形を失いかけているそれは、彼女が確かにこの場所にいたという唯一の証明であり、同時に、僕だけが永遠にこのプールという『過去』に取り残されたのだという、残酷な宣告のようだった。

泥に沈む紙飛行機をじっと見つめていたはずの視界が、不意に、暴力的なまでの眩い光によって真っ白に塗り潰された。

『完璧なノースプラッシュ! 佐倉選手、見事な金メダルです!』
鼓膜を突き破るような大歓声と、無数のカメラのフラッシュ。
目の前にあるのは、くすんだ学校のプールではない。エメラルドブルーに輝く、最新鋭の設備が整った国際大会の巨大なプールだ。
水面に浮上し、顔を覆っていた水滴を拭う。
二十七歳になった僕は、鳴り止まないスタンディングオベーションのど真ん中にいた。
あの日、彼女が遺した魔法のキスは、僕から高所への恐怖を完全に奪い去った。感情を殺し、恐怖を持たない精密機械のように十メートル台から跳び続けた僕は、瞬く間に国内の頂点に立ち、ついには世界的なトップアスリートとしての栄光を手に入れた。
世界中の賞賛を浴び、数え切れないほどのメダルを首にかけられた。
けれど、僕の内面は十七歳の夏から一歩も進んでいなかった。どれほど完璧な跳躍を決めても、どれほど美しい水音を響かせても、水面から顔を出した僕が無意識に探してしまうのは、金メダルやコーチの笑顔ではない。
プールサイドの隅。パイプ椅子の特等席で、赤いカーディガンを羽織って笑う彼女の姿だけだった。
当然、そこに彼女はいない。熱狂する数万人の観客の中に、僕が求めているたった一人の観客は存在しないのだ。
彼女の魔法は、僕の恐怖を消し去り、世界の頂点へと導いた。だがそれは同時に、「彼女以外のすべてを無価値にする」という、一生解けない『呪い』としての代償を僕に強いていた。

「それでは、今月末からいよいよ旧プールの解体工事に入ります」
職員会議の席。資料を読み上げる教頭の声で、僕は現実へと引き戻された。
現役を引退し、母校の教師として戻ってきた僕にとって、それはあまりにも唐突な終わりへのカウントダウンだった。老朽化が進んだ十メートル飛び込み台は、新校舎建設のために跡形もなく壊されるという。
「あーあ、ついに壊されちゃいますね。佐倉先生は少し寂しいですか?」
隣の席の同僚が、気の抜けた声で話しかけてくる。
「いや……」
「まあ、そうですよね。世界中のものすごいプールを見てきた佐倉先生にとっては、あんなボロボロの古い台、どうでもいいですよね」
同僚の無邪気な言葉が、胸の奥を鋭くえぐる。
僕は、乾いた愛想笑いを浮かべて頷くしかなかった。
彼らは何も知らない。
世界中のどんな最新設備のプールよりも、どんなに美しい飛び込み台よりも、あの赤錆びた台こそが、僕にとっての『世界のすべて』なのだということを。あそこで彼女が見せてくれた景色だけが、僕の人生のすべてなのだということを。
放課後。夕日に照らされる旧プール。
すでに立ち入り禁止のテープが張られたフェンス越しに、僕は赤錆びた十メートル台を見上げた。
「……なぁ、一ノ瀬」
誰にも届かない声が、夕風に溶けていく。
「俺は、どうすればお前の魔法を解けるんだ」
手に入れた空虚な栄光の裏で、ボロボロになった僕の未練だけが、解体を待つ飛び込み台の影に黒く縛り付けられていた。