飛び込み台の、水飛沫みたいな恋だった

 約束の、満月の夜。
 雲一つない夜空の中央には、コンパスで描いたような完璧な真円の月が浮かんでいた。波一つないプールの水面は、その青白い光を余すところなく反射し、まるで巨大な銀色の鏡のように夜の学校に横たわっている。

 僕は一切の躊躇なく、十メートル台への錆びた梯子に手をかけた。
 一段、また一段と登る。
 不思議なほど、心は静かだった。数日前に感じた足のすくみも、水面に叩きつけられたあの日のフラッシュバックも、今は微塵も感じない。僕の心を占めているのは、「下で待っているあいつに、最高の景色を見せてやりたい」という、ひどく純粋で、ひたむきな熱意だけだった。

 頂上に辿り着き、眼下を見下ろす。
 十メートル下のプールサイド。一番下の「特等席」に座る彼女は、僕を見上げて、両手で双眼鏡のポーズを作っていた。
 月明かりに照らされたその姿は、幻のように白く、小さく、今にも夜風に溶けて透けて消えてしまいそうに見えた。

『楽しい時間が終わって消えちゃうからこそ、残された記憶が綺麗に光るんでしょ』

 彼女の言葉が、胸の奥で反芻される。
 消えてしまうから、美しい。
 なら、彼女の命の灯火が消えてしまう前に、俺が一番美しい一瞬を、その瞳に永遠に刻み込んでやる。

 足の指先で、飛び込み板の先端を確かめる。
 深く、夜の空気を肺の奥底まで吸い込んだ。
 そして――思い切り、空を蹴った。

 体がふわりと宙に浮く。風を切る音、重力の引力、肌を刺すような月明かり。そのすべてが、スローモーションのように鼓膜と網膜を通り過ぎていく。
 空中で身体を捻り、姿勢を整える。両腕を伸ばし、指先から一直線になって、あの銀色の鏡へと向かっていく。
 恐怖は、ない。

 ――ザパーンッ!

 夜の学校に、空気を切り裂き水を叩く、大きな音が響き渡った。
 かつての不格好で痛々しい失敗とは違う。指先から滑らかに水に吸い込まれる、完璧な入水だった。
 水中に深く潜った瞬間、外の音はすべて遮断され、圧倒的な静寂が僕を包み込んだ。全身を包む水の重さが、今はひどく心地よい。
 長く、苦しかった僕のトラウマは、この静かな水底で、完全に昇華されたのだと分かった。

 水面から顔を出すと、波立つプールの向こう側、プールサイドのギリギリの場所に、凪が立っていた。
 彼女の大きな瞳には、いっぱいの涙が溜まり、月明かりを反射してキラキラと光っている。

「……どうだ、鬼コーチ。今のジャンプの芸術点は」

 息を切らしながら問いかけると、凪は泣き笑いのような顔を作って、胸の前でパチパチと不器用な拍手をした。

「……うんっ。百点満点。今までで一番、大きくて、綺麗な水しぶきだった」

 鼻をすすりながら、彼女は言った。
 僕はゆっくりとプールサイドに上がり、顔の水を拭って、濡れた髪をかき上げた。
 その瞬間だった。

「じゃあ、約束の魔法ね」

 震える声でそう呟くと、凪は背伸びをして、僕の首に細い両手を回してきた。
 驚く暇もなかった。
 彼女は目を閉じ、水に濡れたままの僕の唇に、そっと自分の唇を重ね合わせた。

 ツンとする塩素の匂い。
 真夏だというのに、ぞっとするほど冷たい彼女の唇の感触。
 そして、僕の頬にポツリと落ちた、彼女の温かい涙の熱。
 圧倒的な静寂の底から浮上した直後の僕の体に、その鋭い温度差が、鮮烈な記憶として焼き付いていく。

 ゆっくりと唇を離した凪は、至近距離で、僕の目を真っ直ぐに見つめた。
 その瞳に、もういつものおどけた色はなかった。

「これが、私の魔法。……これで君はもう、一生私のことを忘れられないよ」

 それは、自分という存在がこの世界に生きていたという証を、僕の心に強制的に刻み込むための宣告。
 あまりにも身勝手で、残酷で、どうしようもなく愛おしい『呪い』だった。

 月明かりを背に受け、涙を流しながら笑う彼女の顔を見る。
 あの日、彼女が教えてくれた水しぶきの哲学。
 一瞬で形を変え、重力に従って消えていくその飛沫のように。彼女もまた、僕の指の間をすり抜けて、もうすぐ消えてしまうのだと、残酷なほどはっきりと悟った。

 完全に消えてしまうのに。肌に触れた冷たさと、微かな熱の感触だけが、いつまでも消えずに残っている。

『それは、高く跳び上がった一瞬だけ輝いて、すぐに消えてしまう――あの飛び込み台の、水飛沫みたいな恋だった。』

 胸の奥が、焼け焦げたように痛かった。
 けれど、僕は彼女の呪いを、甘んじて受け入れることに決めた。

「……ああ、そうだな。一生、忘れられない」

 僕が静かにそう答えると、凪は心底満足そうに、柔らかく微笑んだ。

「ありがとう、湊くん」

 初めて、彼女は僕を名前で呼んだ。
 それが、僕たちの秘密の夏が、完全に終わった合図だった。
 遠くで、秋を告げる微かな虫の音が鳴り始めていた。