飛び込み台の、水飛沫みたいな恋だった

 昨日のゲリラ豪雨が嘘だったかのように、今日の夜空は澄み切っていた。
 いつもの夜のプール。飛び込み台を見上げる僕の耳に、生ぬるい風に乗ってドンドンという低い太鼓の音と、時折パンッと弾けるような花火の音が遠くから聞こえてくる。
 今日は地元の神社で、夏祭りが開かれているはずだった。

 「一秒でも早く跳んでみせる」と決意した昨日から、僕の心の中には常にじりじりとした焦燥感が燻っている。早く練習を始めたいのに、肝心のコーチの姿がどこにもない。
 苛立ちながらプールサイドを歩き回っていると、背後のフェンスを乗り越えてくる不審な影があった。

「遅いぞ、一ノ瀬。今日は七メートルから……って、お前」

 振り返った僕は、絶句した。
 現れた凪は、いつものホイッスルの代わりに、頭に安っぽいプラスチックの狐のお面を斜めに乗せ、右手には毒々しい赤色をした大きなりんご飴を掲げていた。さらに左手には、水風船と金魚が入ったビニール袋までぶら下げている。

「佐倉選手! 本日の特訓は急遽変更です!」
「はあ!?」
「課外授業として、ただいまよりお祭りの視察に向かいます!」
「いやいや、完全に遊んできたフル装備じゃねえか! 今日は七メートルから跳ぶ予定だっただろ!」

 呆れて怒鳴る僕を意に介さず、凪は狐のお面をクイッと持ち上げてドヤ顔を作った。

「甘い! お祭りの屋台にはね、飛び込みに必要な『空間把握能力』を鍛える射的や、絶妙な力加減を学ぶ金魚すくいという高等なトレーニングが溢れているのです! ほら、四の五の言わずに行くよ!」
「おい、引っ張んなって……!」

 半ば強引に腕を引かれ、僕は夜の学校から、夏祭りの喧騒へと連れ出されることになった。

 神社へと続く道は、浴衣姿の中高生や家族連れでごった返していた。
 道の両脇にはずらりと提灯が並び、オレンジ色の明かりが夜の闇を非日常の色に染め上げている。屋台から漂うソースや綿飴の甘い匂いに、祭りの中心地へ向けて人の波が押し寄せていく。
 当然、僕たちもその波に乗って境内へ向かうものだと思っていた。

 しかし、凪はなぜか人の波から逸れるように脇道へと入り、境内の外れにある、人気のない暗い石段へと向かった。
 そして、一段高い石段に腰を下ろすと、「ふぅ」と小さく息を吐いた。

 「……」

 提灯の明かりが遠く届くその場所で、僕は彼女の異変に気がついた。
 ここまでの短い距離を歩いただけなのに、凪の息は微かに上がり、華奢な肩が小刻みに上下している。狐のお面の下に隠された横顔は、気のせいではなく、透けるように白かった。
 確実に、彼女の体力は落ちている。

『動ける今のうちに、一番高いところに登りたかった』

 僕は言葉を飲み込み、手の中で揺れる水風船を見つめたまま、凪の隣に腰を下ろした。

「……俺が人混み嫌いだって、よく分かったな」

 あえて、自分が疲れたような口調で言い訳を作る。
 凪は少し驚いたように僕を見て、それからふわりと、柔らかく笑った。
「うん。湊くん、こういううるさいの苦手そうだから」

 僕たちはしばらく、遠くの喧騒をBGMにしながら、並んで座っていた。
 凪は左手に持っていたビニール袋を目の高さに持ち上げ、中の金魚をオレンジ色の提灯の明かりに透かして見つめた。赤い尾ひれが、窮屈そうに揺れている。

「お祭りってさ、終わったあとの帰り道が一番好きなんだよね」
 りんご飴の袋をカサカサと鳴らしながら、凪がぽつりと言った。
「鼻緒が擦れて足が痛くて、提灯の明かりが遠ざかっていくのがちょっと寂しくて。でも、胸の奥に『楽しかったなー』って熱だけがじんわり残ってる感じ。あれがすごく好き」
「……俺は嫌いだけどな、そういうの。祭りの後の静けさってやつは、なんか虚しくなるだろ」

 僕の言葉に、凪は金魚から視線を外し、唇を尖らせた。

「えー、もったいない。その余韻こそが最高なのに」
「余韻?」
「そう。楽しい時間が終わって消えちゃうからこそ、残された記憶が綺麗に光るんでしょ。……水しぶきと同じだよ」

 ドクン、と心臓が鳴った。
 あの日、僕の致命的な失敗を肯定してくれた『水しぶきの哲学』。
 空高く上がり、一瞬で消え去ってしまうからこそ美しい。彼女のその価値観が、祭りの情景と重なり合って聞こえた。

 ヒュルルルル……ドーン!

 突然、夜空を引き裂くような音とともに、境内の向こう側で大きな打ち上げ花火が花開いた。
 色鮮やかな火花が夜の闇を彩り、すぐにパラパラと消えていく。

「わあ……」

 凪が空を見上げた。僕も釣られて夜空を見上げる。
 しかし、僕の目を引いたのは、一瞬の輝きを放つ花火ではなく、その向こう側で静かに光を放つ『月』だった。
 少しだけ左側が欠けた、もうすぐ満月になりそうな明るい月。

「ねえ、湊くん」

 花火の音が遠ざかった静寂の中で、凪が月を見つめたまま、静かな声で口を開いた。

「ん?」
「次の満月の夜。……その日が、私のコーチとしての最終日」

 夜風が、急に冷たくなった気がした。
 満月。それはあと、ほんの数日後だ。
 『コーチとしての最終日』という言葉の裏にある本当の意味を、僕は直感で理解した。その日が、彼女が彼女自身の足で自由に歩き回れる『時間の終わり』なのだと。

「その日」
 凪はゆっくりとこちらを向き、ビー玉のように澄んだ瞳で僕を真っ直ぐに見つめた。
「君の最高のジャンプを見せてね。一番高いところからの、一番きれいな水しぶき」

 それは、彼女がこの夏に託した、最初で最後の願いだった。
 冗談も、強がりも、もうそこにはなかった。

 「……ああ」

 僕は手の中にあった金魚の袋を、割れない程度の力で、けれど強く握りしめた。
 指先に、命の脈動のような金魚の動きが伝わってくる。

 「約束する。お前が満足するくらいのやつを、絶対に見せてやる」