飛び込み台の、水飛沫みたいな恋だった

 煌びやかなホテルの宴会場。無数のカメラのフラッシュが、瞬きする暇もなく網膜を焼いていく。
 背後に設置された巨大なスクリーンには、僕――佐倉湊が、国際大会で金メダルを確定させた最後の跳躍が、何度も繰り返し再生されていた。

 十メートルの高台から放たれた身体は、空中で完璧な弧を描き、一切の乱れなく水面に吸い込まれていく。
 『ノースプラッシュ』。
 水飛沫をまったく上げないその圧倒的な技術は、メディアから「神の入水」と称賛された。

「佐倉選手、世界の頂点を極めた今、その完璧なジャンプを生み出した原動力は何だったのでしょうか!」

 最前列の記者が、興奮した様子でマイクを向けてくる。

「過去の自分に打ち勝つための、日々の積み重ね。それに尽きると思います」

 感情の籠もらない、手垢のついた大人の模範解答。
 会場は期待通りの美しいコメントに沸き立ち、再びフラッシュの嵐が巻き起こる。その光の渦の中で、僕の心だけがひどく冷め切っていた。

(違う。本当に見せたかったのは、こんな行儀の良い水音じゃない)

 あの日から、僕の時間は止まったままだ。
 僕は数多の栄光と喧騒をその場に置き去りにするように、選手としてピーク過ぎた二十七歳――周囲が惜しむ若さであっさりと競技生活を引退した。そして、かつての母校へ教師として戻ることを選んだ。



 放課後の校舎は、西日に照らされて長く伸びた影を落としている。
 真新しいジャージに身を包んだ僕は、現役時代とは対照的なひどく緩慢な足取りで、敷地の外れにある「旧プール」へと向かっていた。

 立ち入り禁止を知らせる看板が掛けられた錆びたフェンス。
 ポケットから取り出した鍵を差し込み、ゆっくりと回す。ガチャリ、という乾いた金属音と共に、十年間封印されていた時間が開く。

 一歩足を踏み入れると、そこにはあの夏と何も変わらない、重いコンクリートの匂いが立ち込めていた。
 プール納めがされたばかり放置された水面は、やや濁った色に淀んでいる。そして、かつての主を失った十メートルの飛び込み台は、赤錆に蝕まれ、無残に朽ち果てていた。

 不意に、生温かい風が吹き抜けた。
 プールの壁に反響したその風の音が、鼓膜の奥で「ピィーッ!」という甲高いホイッスルの音に変換される。

『遅刻! 佐倉選手、たるんでるんじゃないですか!』

 反射的に振り返る。
 だが、当然そこには誰もいない。ただ、彼女がいつも座っていたパイプ椅子の『特等席』の場所だけが、陽炎のように歪んで見えた。

 なぜ、世界一の称号を手に入れても、僕の心は飢えたままだったのか。

「……佐倉先生。やはりこちらにいましたか」
 不意に、背後から声をかけられた。
 振り返ると、教頭が事務的な笑顔を浮かべて立っている。

「赴任早々、熱心ですね。しかしそこは立ち入り禁止ですよ」
「……ええ、すみません。少し、昔を懐かしんでいただけです」
「ああ、先生が在籍していた頃は、まだこのプールを使っていましたね。それも、とうとう来月には解体ですか」
 「……」
 「新プールの建設用地になるんです。もう飛び込み台なんてもう危険で邪魔ですし、仕方ない」

 邪魔。
 その言葉を聞いた瞬間、世界一を獲った大人の余裕が、音を立てて崩れ落ちるのを感じた。

(……邪魔、なわけないだろ)

 教頭は引き続き何かを話していたが、僕の視線はもう、彼には向いていなかった。

 黄色と黒の立ち入り禁止テープが巻かれた、赤錆びた梯子。
 あの日から一歩も進めず、彼女が愛した水しぶきの跡を追い続けている、二十七歳の迷子。それが今の僕だ。

 解体される前に、思い出さなきゃいけないんだ。
 お前が俺にかけた魔法の、本当の意味を。

 夕闇に包まれ始めたプールで、僕は十メートルの頂上を見上げた。
 そこには、十年前と同じ不遜な笑みを浮かべ、赤いカーディガンを羽織った一ノ瀬凪の幻影が、僕を挑発するように見下ろして立っていた。