天気予報にない通り雨みたいな恋だった

 日差しの強い駅前広場から逃げるように、私たちは近くの市立図書館へと足を踏み入れた。

 冷房の効いた静謐な空間。書架のずっと奥にある、窓から離れた薄暗い閲覧スペースのベンチに腰を下ろす。彼にとっては、強い光を遮れるこの暗さが何よりの「安全地帯」なはずだ。
 私の強い握力から解放された彼は、握られていた自分の左手を右手で軽くさすりながら、信じられないものを見るような目で私を見つめ、やがて深く、深い溜息をついた。

「……君のその変な意地っぱり、誰に似たの。親? それとも生来のもの?」

 いつもの皮肉めいたトーン。けれど、その声色は以前よりずっと柔らかく、微かな諦めと、ほんの少しの安堵が混じっているように聞こえた。

「自分でも分かりません。でも、晴れの日に会いに来たこと、後悔はしてませんから」

 私がきっぱりと答えると、彼はもう一度、小さく息を吐いた。サングラスの奥の瞳が、静かに私を捉える。

「同情じゃないって言い切ったこと、後悔するよ。俺の世界は、君が思っている以上に退屈で、暗いからね」



 図書室の静寂の中、誰かがページを捲るかすかな音だけが遠くで響いている。
 彼はぽつりぽつりと、これまで決して見せようとしなかった自分の過去を語り始めた。

 かつて彼が、風景写真家として世界中を飛び回っていたこと。
 そして、数年前から進行性の目の病気を患い、視細胞が徐々に失われていること。

「カメラのファインダーを覗いても、もうピントが合わせられないんだ」

 彼の乾いた声が、静かな空気に溶けていく。

「俺の目には今、世界がトンネルの底から見上げているみたいに、ひどく狭く、ぼやけて見えてる。視野が極端に狭くて、少しでも強い光を浴びると、白く飛んで何も見えなくなる。だから、晴れの日はサングラスとあの傘がないと、一歩も歩けない」

 彼は自嘲気味に、唇の端を吊り上げた。

「光の色を切り取る仕事をしてたのに、光を避けなきゃ生きられないなんて。最高のブラックジョークだろ?」

 その言葉の裏側にある、どれほどの絶望と喪失を、彼は一人で抱え込んできたのだろう。
 自分からすべてを奪っていく世界を恨むこともせず、ただ雨の日の純喫茶で、静かに自分の世界が閉じていくのを待っていたのだ。
 言葉を失った私は、ただ彼のワイシャツの袖を、祈るようにきつく握りしめることしかできなかった。震える私の手を、彼はもう払いのけなかった。



「……これ」

 彼は内ポケットからスマートフォンを取り出すと、画面の輝度を限界まで下げてから、私の前に差し出した。
 そこに表示されていたのは、彼がかつてファインダー越しに切り取った、世界の欠片たちだった。

 息を呑んだ。
 燃えるような夕焼けが空と海を境界線なく染め上げる、圧倒的な赤。氷河の隙間に閉じ込められた、吸い込まれるような深い青。生命の息吹そのもののような、鮮烈で暴力的なまでの新緑。

 どれもが色彩と光に満ち溢れ、彼がどれほどこの世界を愛し、その美しさを見出していたかが、痛いほどに伝わってくる。一枚一枚スワイプするたびに、私の目から堪えきれない涙が零れ落ちそうになった。

「……すごく、綺麗」

 震える声で零すと、彼は画面を見つめたまま、静かに頷いた。

「もう二度と、俺には撮れない色だ」

 その横顔は、深い海の底に沈んでいるように静かだった。

「……だから、君が雨の日にキャンバスを捨てようとした時、少し腹が立ったんだ」



 彼は目を細め、図書館の薄暗い天井のずっと先――あの土砂降りの雨の日を思い出すように、遠くを見つめた。

「雨に滲んで溶け出したあの不格好な青色が、俺には、痛いほど鮮やかに見えたんだよ。君には描ける『色』があるのに、どうして捨てるんだって」

 胸の奥で、何かが堰を切ったように溢れ出した。
 「才能がない」「役に立たない」と自分を卑下し、すべてを諦めようとしていた私を、彼が引き留めてくれたあの言葉。

 それは、ただの気休めでも、優しい慰めでもなかった。
 光と色を失いゆく彼が、最後に手を伸ばしたかった「色彩」そのものだったのだ。

 彼が私を肯定してくれた本当の理由を知った。
 私の目に映るこの世界が、彼にとってはどれほど愛おしく、そして永遠に手の届かない場所にあるのかを。

 涙で視界が滲む中、私は強く、自分の内側に芯が通っていくのを感じていた。
 私はもう、彼が愛したこの世界から、自分の色から、逃げるわけにはいかないのだ。