天気予報にない通り雨みたいな恋だった

 微かな雨の匂いが、夕暮れの街を薄い膜のように包み込んでいた。

 帰るために純喫茶『琥珀』の重い木製の扉を開けると、カウベルのくぐもった音が鳴る。外は、傘を差すか差さないか迷う程度の、霧のような小雨だった。
 私の隣を歩く彼の横顔は、いつものようにどこか冷めていて、余裕のある大人のそれだ。しかし、私の網膜には、つい数分前まで店内で向かい合っていた時の、彼の微細な違和感が焼き付いて離れなかった。

 テーブルに置かれた水滴のつくグラスに手を伸ばした時。彼の指先は、一瞬だけ何もない宙を掴んだ。
 そして、店を出る時。彼は何気ない動作を装いながら、扉の木枠を指の腹でそっと撫でるように探っていたのだ。

 あの、殺意すら覚える快晴の交差点で、点字ブロックを傘の先で執拗に叩いていた姿がフラッシュバックする。
 彼の目に、この世界はどう映っているのだろうか。
 喉の奥に鉛が詰まったように重く、その問いを口に出すことはできなかった。

「……随分と静かじゃないか。クロッキー帳が濡れるのを気にしてるなら、俺の傘に入れよ」

 彼は手にした黒い長傘を少しだけ持ち上げ、からかうように言った。
 私は無言で首を横に振り、少しだけ彼との距離を詰めて歩き出した。駅へと続く緩やかな坂道。濡れたアスファルトが街灯の光を乱反射し、足元に細かく砕けた琥珀色を散らしている。

 薄暗い路地の死角。
 濡れた路面を滑るタイヤの音と、錆びたチェーンが軋む嫌な音が、唐突に背後から鼓膜を突いた。
 振り返るより早く、無灯火の自転車が猛スピードで私たちの脇をすり抜けようと迫ってくるのが視界の端に映った。

「っ……!」

 私は息を呑み、反射的に身を竦めた。
 しかし、自転車の軌道上にいるはずの彼は、全く反応していない。彼の顔の向きからして、迫り来る鉄の塊は完全に死角に入っているようだった。足を踏み出すペースすら変わらない。

 ――見えていない。

「危ない!」

 思考よりも先に、手が動いていた。
 私は彼の着ているワイシャツの袖を力任せに掴み、自分のほうへと強く引き寄せた。

 直後、湿った風を巻き起こしながら、自転車が彼のすぐ真横を音もなく駆け抜けていく。
 急な力で引かれた彼は、バランスを崩して私のほうへと倒れ込んできた。

 カツン、と乾いた音を立てて、彼の手から黒い傘が地面に転がり落ちる。
 私の肩に、彼の手が重くのしかかった。

「……っ」

 ワイシャツ越しに伝わる、彼の体温。
 いや、それは体温と呼ぶにはあまりにも低すぎた。私の肩を掴む彼の指先は、ぞっとするほど冷たく、骨張っていた。そして、その華奢な体躯が、微かに、けれど確かに震えているのが分かった。

 顔を上げると、至近距離に彼の顔があった。
 サングラスの奥の瞳が、一瞬だけ大きく見開かれている。それは、暗闇で迷子になった子供のような、ひどく無防備で怯えた表情だった。

 完璧で、皮肉屋で、私にとっての揺るぐことのない安全地帯だった大人の男。
 彼が必死に隠し続けていた、決定的な「脆さ」が輪郭を持って私の腕の中に崩れ落ちてきた瞬間だった。

 しかし、その空白はわずか数秒で消え去った。
 彼は小さく息を吸い込むと、すぐにいつもの、あの憎たらしいほど余裕のある笑みを唇に貼り付けた。

「……ごめん。ぼんやりしてた。君みたいな小動物を押し潰さなくてよかったよ」

 彼は私の肩から手を離し、冗談めかして身を引こうとする。
 触れていた冷たい感触が、急速に離れていく。その途端、私の内側で何かがひび割れる音がした。

 行かないで。
 そう叫ぶ代わりに、私の右手は宙を泳ぎ、離れようとした彼の冷たい左手を、無意識のうちに強く握り返していた。

「……え」

 彼が、小さく息を呑む気配がした。
 アスファルトの冷気と、雨の匂い。遠くで車のクラクションが鳴る。
 私の小さな掌の中で、彼の骨張った指が強張っているのが痛いほど伝わってくる。

「……冷たいですね、灰谷さんの手」

 絞り出した私の声は、雨に溶けてしまいそうなほど震えていた。
 彼は何も言わなかった。ただ、深く、重い溜息を一つ吐き出すと、私の指の隙間から、自分の手を静かに引き抜いた。

 傘を拾い上げる彼の横顔には、いつもの余裕は微塵も残っていなかった。
 拒絶の冷たさが、夜の帳と共に降りてくる。

 彼の世界が、少しずつ、けれど確実に欠け落ちていっている。
 その残酷な事実の重さを知ってしまった今。私はもう、琥珀色の光の中でただ雨上がりを待つだけの、無力な子供ではいられなかった。