出会いから一ヶ月。季節は、アスファルトに張り付くような重い湿気を伴う梅雨の本番を迎えていた。
純喫茶『琥珀』の一番奥のボックス席。オレンジ色のランプが、彼の読む文庫本のページに丸い影を落としている。
私の膝の上にあるクロッキー帳は、もう半分以上が鉛筆の黒鉛で埋まっていた。ページを捲るたびに、紙の擦れる乾いた音と、微かな削りカスの匂いが立ち昇る。そこに描かれているのは、コーヒーカップを持つ手、窓の外を見る横顔、少しだけ眉間に皺を寄せた表情。すべて彼だ。
「……鼻の形が、少し違うな」
ページを捲る音に反応したのか、彼は本から顔を上げずに呟いた。
「モデルは黙っていてください」
私が消しゴムをかけながら返すと、彼は「肖像権の侵害に加えて、名誉毀損も追加しておこう」と鼻を鳴らした。
待ち合わせの約束なんて、一度もしたことがない。ただ、雨が降ればこの場所にいる。言葉を交わす必要すらない。氷がグラスの中で溶けてカランと鳴る音と、時折響く彼の小さな咳払い。
雨の日の、この琥珀色の空間にいる間だけ。私は、学校のチャイムからも、親の溜息からも、世界のすべての輪郭から隠れているような心地がした。
〇
彼は文庫本に栞を挟み、机の上に置いた。活字を追うために酷使した目を休めるように、サングラスの奥でゆっくりと瞬きをする。
「それにしても。最近の君、天気予報士になれるんじゃないか?」
彼が、グラスについた結露を指でなぞりながら揶揄するように言った。
「降水確率、五パーセント。そんなのでここに来るなんて、君も相当な物好きだよな」
今日の予報は、曇り。雨が降る要素は、限りなくゼロに近かった。それでも私は、空の片隅にある僅かな鈍色を見つけて、傘も持たずにここまで走ってきたのだ。
「……降ると思ったんです」
私は鉛筆を置き、冷めきったコーヒーを見つめた。
「私の世界では、今にも降り出しそうだったから」
それは、ほとんど本音に近い言葉だった。乾ききった日常の中で、彼に会うという理由だけが、私に息継ぎをさせてくれる。
彼は一瞬だけ、グラスをなぞる指を止めた。サングラスの奥の視線が、私を真っ直ぐに射抜く。真空のような数秒の後、彼は「……ふーん」と興味なさそうに視線を外し、再び文庫本を開いた。
けれど、琥珀色のランプに照らされた彼の耳の端が、ほんの少しだけピクリと動いたのを、私は見逃さなかった。
〇
家に着くと、すでに雨の気配は完全に消え去っていた。
リビングのドアを開けた瞬間、まばゆいまでに白い蛍光灯の光が網膜を焼いた。
食卓には、冷めかけたハンバーグと、几帳面に揃えられた箸。そして、私の席の目の前に、一枚のプリントが置かれていた。
『三者面談のお知らせ』と『進路希望調査票』。
「次の面談までに、経済学部の推薦枠に印を付けておきなさい」
テレビのニュースから目を離さず、父親が平坦な声で言った。
「絵は、就職してから趣味で描けばいい。それが現実的な選択だ」
台所で洗い物をしている母親の、カチャカチャと皿を重ねる音がやけに大きく響く。振り返ることはないが、その背中が「余計な波風を立てないで」と訴えかけているのは、嫌というほど伝わってきた。
ハンバーグの脂の匂いが、不意に胃の奥を這い上がってくる。私は何も言わず、ただ白米を口に運び、飲み込んだ。砂を噛んでいるような味がした。
反論する気力すらない。彼らの目には、私が引いた線の軌跡も、色の深みも映らない。
夕食を終え、逃げるように自室のドアを閉める。
鞄からクロッキー帳を取り出し、胸に抱え込んだ。少しだけザラついた表紙の感触と、微かに残る純喫茶のコーヒーの匂い。その中に閉じ込められた彼の横顔だけが、今、私が触れることのできる唯一の「現実」だった。
〇
部屋の窓を開ける。
雲の隙間から、冷たく研ぎ澄まされた月光がアスファルトに突き刺さっていた。夜の風はひどく乾いていて、雨の匂いはどこにもない。
私は窓枠に額を押し当て、夜空を見上げた。
早く、雨が降ってほしい。
すべてを濡らして、境界線を曖昧にしてくれる、あの暗くて重い雨が。
次の雨が来れば、私はまた、私になれるのだから。
純喫茶『琥珀』の一番奥のボックス席。オレンジ色のランプが、彼の読む文庫本のページに丸い影を落としている。
私の膝の上にあるクロッキー帳は、もう半分以上が鉛筆の黒鉛で埋まっていた。ページを捲るたびに、紙の擦れる乾いた音と、微かな削りカスの匂いが立ち昇る。そこに描かれているのは、コーヒーカップを持つ手、窓の外を見る横顔、少しだけ眉間に皺を寄せた表情。すべて彼だ。
「……鼻の形が、少し違うな」
ページを捲る音に反応したのか、彼は本から顔を上げずに呟いた。
「モデルは黙っていてください」
私が消しゴムをかけながら返すと、彼は「肖像権の侵害に加えて、名誉毀損も追加しておこう」と鼻を鳴らした。
待ち合わせの約束なんて、一度もしたことがない。ただ、雨が降ればこの場所にいる。言葉を交わす必要すらない。氷がグラスの中で溶けてカランと鳴る音と、時折響く彼の小さな咳払い。
雨の日の、この琥珀色の空間にいる間だけ。私は、学校のチャイムからも、親の溜息からも、世界のすべての輪郭から隠れているような心地がした。
〇
彼は文庫本に栞を挟み、机の上に置いた。活字を追うために酷使した目を休めるように、サングラスの奥でゆっくりと瞬きをする。
「それにしても。最近の君、天気予報士になれるんじゃないか?」
彼が、グラスについた結露を指でなぞりながら揶揄するように言った。
「降水確率、五パーセント。そんなのでここに来るなんて、君も相当な物好きだよな」
今日の予報は、曇り。雨が降る要素は、限りなくゼロに近かった。それでも私は、空の片隅にある僅かな鈍色を見つけて、傘も持たずにここまで走ってきたのだ。
「……降ると思ったんです」
私は鉛筆を置き、冷めきったコーヒーを見つめた。
「私の世界では、今にも降り出しそうだったから」
それは、ほとんど本音に近い言葉だった。乾ききった日常の中で、彼に会うという理由だけが、私に息継ぎをさせてくれる。
彼は一瞬だけ、グラスをなぞる指を止めた。サングラスの奥の視線が、私を真っ直ぐに射抜く。真空のような数秒の後、彼は「……ふーん」と興味なさそうに視線を外し、再び文庫本を開いた。
けれど、琥珀色のランプに照らされた彼の耳の端が、ほんの少しだけピクリと動いたのを、私は見逃さなかった。
〇
家に着くと、すでに雨の気配は完全に消え去っていた。
リビングのドアを開けた瞬間、まばゆいまでに白い蛍光灯の光が網膜を焼いた。
食卓には、冷めかけたハンバーグと、几帳面に揃えられた箸。そして、私の席の目の前に、一枚のプリントが置かれていた。
『三者面談のお知らせ』と『進路希望調査票』。
「次の面談までに、経済学部の推薦枠に印を付けておきなさい」
テレビのニュースから目を離さず、父親が平坦な声で言った。
「絵は、就職してから趣味で描けばいい。それが現実的な選択だ」
台所で洗い物をしている母親の、カチャカチャと皿を重ねる音がやけに大きく響く。振り返ることはないが、その背中が「余計な波風を立てないで」と訴えかけているのは、嫌というほど伝わってきた。
ハンバーグの脂の匂いが、不意に胃の奥を這い上がってくる。私は何も言わず、ただ白米を口に運び、飲み込んだ。砂を噛んでいるような味がした。
反論する気力すらない。彼らの目には、私が引いた線の軌跡も、色の深みも映らない。
夕食を終え、逃げるように自室のドアを閉める。
鞄からクロッキー帳を取り出し、胸に抱え込んだ。少しだけザラついた表紙の感触と、微かに残る純喫茶のコーヒーの匂い。その中に閉じ込められた彼の横顔だけが、今、私が触れることのできる唯一の「現実」だった。
〇
部屋の窓を開ける。
雲の隙間から、冷たく研ぎ澄まされた月光がアスファルトに突き刺さっていた。夜の風はひどく乾いていて、雨の匂いはどこにもない。
私は窓枠に額を押し当て、夜空を見上げた。
早く、雨が降ってほしい。
すべてを濡らして、境界線を曖昧にしてくれる、あの暗くて重い雨が。
次の雨が来れば、私はまた、私になれるのだから。

