天気予報にない通り雨みたいな恋だった

 予報通りの雨だった。
 けれど、先日の夕立とは違う。低く垂れ込めた雲が街全体を重く押し潰し、逃げ場のない湿気が肺の奥まで入り込んでくるような、執拗で攻め立ててくるような豪雨。

「……さすがに、これは溺れるな」

 駅前の公園、東屋の軒下で、彼は苦笑いを浮かべた。
 跳ね返った水飛沫が、彼の黒い長傘の裾を白く汚している。私はといえば、駅からの短い距離を走っただけで、お気に入りのクロッキー帳を抱えたまま、肩で息をついていた。

「どこか、入ろう。このままだと君が水死体になる」

 彼が顎で示したのは、公園のすぐ裏手にある、蔦の絡まった古い純喫茶だった。
 色褪せた看板には『琥珀』と書かれている。重厚な木製の扉を開けると、カウベルのような乾いた音が鳴り、外の喧騒が嘘のように消えた。

 店内は、驚くほど暗かった。
 昼間だというのに窓際の席は影に沈み、等間隔に配置されたオレンジ色のランプが、澱んだ空気の中に小さな光の輪を落としている。

「……ここ、落ち着くんだ」

 彼はサングラスを外し、安堵したように息を吐いた。
 カウンターの奥で老主人がゆっくりとネルドリップを回している。焙煎された豆の香ばしい匂いと、雨に濡れたウールの匂い。
 私たちは一番奥の、壁際に押し込められたような小さなボックス席に座った。

「あの」

 私は鞄の中から、ずっと開けられずにいたクロッキー帳を取り出した。
 指先に触れる紙のざらついた感触が、今はひどく愛おしい。鞄に忍ばせていた三菱の4B。その黒鉛の匂いを嗅ぐだけで、胸の鼓動が少しだけ速くなる。

「……へえ。キャンバスを水死させようとしてた人間が、ずいぶん立ち直りが早いじゃないか」

 彼は運ばれてきたブラックコーヒーを一口啜り、唇の端を吊り上げた。

「誰かさんが、無駄でもいいって言ったからです。……あの、少しだけ、描いてもいいですか」
「俺を? 肖像権の侵害で訴えようか。それとも法外なモデル代を請求しようか」
「じゃあ」

 私はメニュー表の隅に載っていた、いかにも甘そうなクリームソーダを指差した。

「モデル代として、それをご馳走します。甘くないコーヒーが好きなのは、そういうことでしょ?」
「……ふん。今日は特別に、君の悪趣味に付き合ってやるよ」

 彼は肩をすくめると、窓の外を流れる雨粒に視線を投げた。
 それは、どうぞ好きにしろ、という彼なりの不器用な合図だった。

 私は、鉛筆を走らせた。
 サッ、ササッ、と紙を擦る音だけが、店内に流れるジャズの旋律に混ざっていく。
 こんなふうに、誰かに見せるためでも、評価されるためでもなく、ただ目の前の対象を追いかけるのはいつぶりだろう。

 レンズを外した彼の瞳は、どこか遠く、ここではない場所を見つめているように静かだった。
 彫りの深い眼窩。長く、影を落とす睫毛。
 ランプの光に照らされた彼の横顔は、琥珀色の中に閉じ込められた古代の宝石のように、完璧で、それでいて今にも砕け散りそうな危うさを孕んでいる。

 線を引き、陰影を重ねる。
 彼の鼻筋のラインをなぞるたび、私の指先に微かな熱が宿る。
 唇の端にある小さな黒子。少しだけ形の悪い耳。
 そんな、彼という人間の欠片を一つずつ拾い集めて、白紙の上に繋ぎ合わせていく作業。

 ふいに、彼が眩しそうに目を細めた。
 店内の微かな明かりですら、彼にとっては刺激が強いのかもしれない。
 私は、彼が時折見せるその「空白」のような表情を、逃さず紙に刻み込んだ。
 守りたい。
 そんな、分不相応な感情が、鉛筆を握る右手にじわりと滲む。

「……終わった?」

 しばらくして、彼は不機嫌そうな声を出し、こちらを覗き込んできた。
 運ばれてきたクリームソーダのアイスクリームは、すでに半分ほど溶けて、緑色の液体に白い斑点を作っている。

「はい。……できました」

 私は、描き上がったばかりのページを彼に向けた。
 そこには、少しだけ口角を上げた、皮肉屋の青年がいた。

「……俺って、こんなに意地悪そうな顔してる?」
「実物そっくりですよ」

 私の言葉に、彼は「最悪だね」と鼻を鳴らした。
 けれど、その声は雨音よりもずっと優しく、私の心に深く沈殿していった。

 窓の外では、まだ雨が降り続いている。
 彼の世界はいつも、こんなふうに冷たくて、出口のない雨が降っているのだろうか。
 だとしたら。
 この琥珀色の光の中で、私が彼の世界に、一滴だけでも違う色を落とすことはできないだろうか。

 溶けかけたアイスクリームをスプーンで掬う彼の指先を見つめながら、私は初めて、明日も雨が降ることを、心から願った。