天気予報にない通り雨みたいな恋だった

 空は、突き刺すように青かった。
 校舎の窓から差し込む陽光が、教室の空気を重く、乾いたものに変えている。机の上に置かれたスマホの画面。天気予報アプリには、無機質な数字が並んでいた。「降水確率20%」。

「絵なんて、結局は贅沢な遊びだ。現実を見ろ」

 父の冷めた声が、耳の奥で反響する。進路指導室の空気と、この眩しすぎる陽射しが、私の輪郭を少しずつ溶かしていくような感覚。世界中の誰もがこの晴天を愛し、明日への希望を見出しているような顔をしている。
 そんな中で、私だけが雨を待ち焦がれている。
 あの人の黒い傘の下で見つけた、濡れた油絵の具の匂いと、少しだけ温度の低い言葉を。
 晴れを喜ぶ世界の中で、私の祈りは誰にも届かない。ただ、あの人にもう一度会いたいという渇望だけが、肺の中で黒いインクのように広がっていた。



 放課後。予報を裏切り、空が急激に色を変えた。
 鈍色の雲が低い位置まで降りてきて、世界を閉ざす。アスファルトに叩きつけられる大粒の雨音は、私にとってはこの上ない福音だった。
 私は鞄を抱え、ローファーの踵を鳴らして駅前の公園へ走った。息を切らして東屋の屋根の下に駆け込むと、そこにはやはり、あの青年がいた。

 彼はベンチに腰掛け、一冊の文庫本を広げていた。
 ……いや、読んでいるというより、ページを顔に押し付けるほど至近距離で眺めている。色の濃いサングラスをかけたまま、眉間に深く皺を寄せているその横顔を見て、私はふと足を止めた。

「また君か」

 顔を上げもせず、彼は皮肉な笑みを浮かべた。

「ずぶ濡れじゃないか。そんなに雨が好きなの? それとも、俺にまた絵を褒めてほしくて来たわけ?」
「……違います」

 私は乱れた呼吸を整え、上着のポケットから自販機で買ったばかりの缶コーヒーを取り出した。ブラックの、熱い缶。

「この前のお礼です。タオルのクリーニング代の代わりに」

 差し出すと、彼はサングラスの奥で目を細め、怪訝そうに受け取った。指先が触れ合うことはない。彼は慣れた手つきでタブを引き、一口飲んで、小さく顔をしかめた。

「俺、甘いのは飲まない主義なんだけど。……いや、これはブラックか。意外と、気が利くじゃないか」
「……」

 隣のベンチに座る。雨のカーテンが私たちの世界を外界から切り離し、静寂を運んでくる。
 本当は、会いたかっただけだ。でも、そんなことを言えるはずがない。
 私は膝の上で固く拳を握りしめ、ポツリと本音をこぼした。

「あれから、一度も絵を描いてないんです」
「ふーん」
「両親の言う通り、私には才能なんてない。美大に行って、何者かになろうとするなんて……結局はただの『無駄』なんだって、わかったから」

「無駄、ね」

 彼は雨のカーテンをぼんやりと見つめ、鼻で笑った。

「じゃあ、あの雨は無駄かな」
「え?」
「今のこの雨。誰の役にも立ってない。傘をささない人間を風邪にさせ、靴を濡らして、君の髪を台無しにしてるだけだ。生産性なんてゼロで、ひたすら迷惑なだけ」

 彼は一口、コーヒーを喉に流し込む。喉仏が上下し、缶の縁を指でなぞる。

「でも、雨上がりの紫陽花は綺麗だろう。濡れた路面が街灯を反射して、少しだけこの街もマシに見える。無駄だからって、価値がないわけじゃない」

 彼はサングラスを少しだけずらし、鋭い眼光で私を射抜いた。

「君の絵も同じだ。誰の役に立たなくても、俺はあれを綺麗だと思った。それじゃ、不服?」

 心臓が、跳ねた。
 「才能があるか」「将来の役に立つか」。そんな定規でしか測られなかった私の世界を、彼が鮮やかに、無造作にひっくり返した瞬間だった。
 喉の奥が熱くなる。彼に否定されることを覚悟していたからこそ、その言葉は毒のように甘く、全身に染み渡った。

 ……ああ、この人は。
 こんなに突き放すようなことを言いながら、どうしてこんなに優しいんだろう。

 私は溢れそうになる涙を堪え、少しだけ精一杯の強がりを混ぜて言い返した。

「……ブラックコーヒー買ってきたの、正解でしたね」
「ん?」
「甘くない言葉に、よく合います」

 私の言葉を聞いて、彼は一瞬だけ呆気に取られたように目を丸くし、それから――初めて、声を出して笑った。
 乾いた、けれどどこか寂しげな笑い声が、雨音に溶けていく。

 冷たい雨の音の中、彼の笑い声だけがやけに暖かく響いた。
 この公園を出れば、また眩しい晴れの日が待っている。両親の期待と、終わりのない競争が待っている。
 けれど、私はもう誤魔化せない。
 たとえ彼がどんなに冷たくても、どれほど理屈っぽくても。
 私はもう、彼に惹かれているのだ。

 雨の降る世界でしか生きられない彼を、私もまた、追いかけ始めていた。