天気予報にない通り雨みたいな恋だった

 冷たい雨の匂いが、ギャラリーの入り口から静かに流れ込んでくる。
 ガラス越しに見える街は、あの日と同じような突然の通り雨に濡れ、道行く人々が足早に駅へと急いでいた。

 美大を卒業し、アートディレクターとして仕事をする傍ら、画家としての第一歩を踏み出した私の、初めての小さな個展。
 その最終日である今日、客足はまばらで、ギャラリー内には静かな雨音と、微かな油絵の具の匂いだけが満ちていた。

 白い壁に飾られているのは、私がこの数年間で描き溜めた風景画や、日常の切り取り。そのどれもが、どこかにあの「深い青色」を宿している。
 あの日、真夏のプラットホームで彼を見送ってから、数年の月日が流れた。彼とは一度も会っていない。連絡先も知らない。進行性の病を抱えていた彼の世界から、完全に光が消えてしまったのかどうかも、私にはわからない。

 ただ、記憶の中の彼は、いつもあの少し意地悪な笑みを浮かべて、私の絵を特等席で見てくれている。



 ギャラリーの中央に立ち、自分の絵をぐるりと見渡す。
 親の敷いたレールを外れ、自分の足で立ち、自分の意志で絵の具を選ぶ日々は、決して楽なことばかりではなかった。才能のなさに絶望して、何度も筆を折りそうになった。

 それでも、私は描き続けた。
 彼と約束したからだ。

『いつか、俺の目が完全に光を失っても。俺のこの瞼の裏まで届くような、最高に鮮やかな絵を描いてよ』

 その不器用で、呪いのように優しい言葉が、ずっと私の背中を押し続けてきた。
 いつか真っ暗闇の中にいる彼が見つけてくれるように、私はひたすらに鮮やかな色を探し、キャンバスに叩きつけてきた。
 今の私はもう、雨宿りをする場所を探して震えていた、あの日の弱い少女ではない。自分の足で光の中に立ち、この世界を切り取る画家になったのだ。



「雨音」

 閉館時間が近づき、外の雨が小降りになり始めた頃。
 受付を手伝ってくれている友人が、少し不思議そうな顔をして私を呼んだ。

「さっき、白い杖をついた男の人が、ヘルパーさんみたいな人と一緒に来てたんだけどね」

 その言葉に、心臓が大きく、痛いほど跳ねた。

「なんか、絵に触れそうなほどすっごく顔を近づけて、一枚一枚、ずっと長い時間見てたよ。帰る前に、その付き添いの人に何か代筆してもらって、帰っていったけど……知り合い?」

 私は友人の言葉に答えることも忘れ、弾かれたように受付へ走り、芳名帳を開いた。
 最後のページ。そこには、見知らぬ端正な文字で、たった一行、こう書かれていた。

『豚みたいな猫は、少しだけ上手くなったね。青色は及第点』

 息が止まった。
 紛れもない、彼の言葉だった。
 彼の強がりで、毒があって、誰よりも不器用で、最高に優しい賛辞。

「あ……っ、う……」

 芳名帳のその一行を指でなぞった瞬間、熱いものがせり上がり、視界がぼやけた。
 私は芳名帳を胸に強く抱きしめ、その場にしゃがみ込んで、声を殺して泣き崩れた。
 悲しいからじゃない。二度と会えない寂しさからでもない。
 ただ、私が描き続けた鮮やかな光が、私の放ったあの青色が、ちゃんと彼の暗闇に届いたことが、どうしようもなく嬉しかったのだ。



「灰谷さん……っ!」

 私は立ち上がり、ギャラリーの外へと飛び出した。
 雨に濡れたアスファルトを蹴って、左右を見渡す。けれど、交差点にも、駅へ続く道にも、あの不格好な長傘を持つ彼の姿は、もうどこにもなかった。

 ふと顔を上げると、分厚い雨雲が割れ、そこから眩しいほどの西日が差し込み始めていた。
 雨上がりの街が、黄金色の光に照らされて、痛いほど鮮やかにきらめいている。

「……及第点なんて、言わせない」

 涙に濡れた頬を乱暴に拭い、私は光の射す空に向かって笑った。
 次は、ぐうの音も出ないくらい、完璧な色を描いてやる。

 私の忘れられない恋は、この空の青さと同じように、一生色褪せることはない。
 私はこれからも、彼のために、そして私のために。この眩しい光の中で、キャンバスに色を乗せ続ける。