天気予報にない通り雨みたいな恋だった

 七月下旬。梅雨が完全に明け、街は息苦しいほどの熱気に包まれていた。
 空には見渡す限りの快晴が広がり、照りつける太陽がアスファルトを白く焦がしている。

 地方へ向かう長距離列車の発着ホーム。
 陽炎が揺れるプラットホームの端、屋根の影が濃く落ちる場所に、彼はいた。
 深く被った帽子と、色の濃いサングラス。足元には、彼のこれからの時間を詰め込んだトランクが一つ。

「……はぁっ、はぁっ……!」

 私は、自分の背丈の半分ほどもある大きなキャンバスを抱え、階段を駆け上がって彼の元へ走った。厳重に布で包まれたそれを両手で抱え込む姿は、きっと、あの日――彼と出会った土砂降りの交差点の時と同じように、ひどく不格好だっただろう。

 荒い息を吐きながら彼の前に立つと、彼はサングラスの奥でわずかに目を丸くし、やがて呆れたように小さく息を吐いた。

「……見送りには来なくていいって言ったのに。最後まで人の話を聞かない奴だな、君は」

 いつもの、少しだけ棘のある冷めた声。
 けれど、その声色がひどく優しいことを、私はもう知っている。

「専属画家の最後の仕事です」

 私は乱れた前髪を払い、息を整えながら言った。

「納品に来ました」



 私はキャンバスを足元に下ろし、包んでいた布を一気に引き抜いた。

 強い夏の日差しが、キャンバスの表面に跳ね返る。
 そこに描かれているのは、あの日、図書館の薄暗いベンチで彼が見せてくれた、一枚の風景だった。

 彼がかつてファインダー越しに切り取った、息を呑むほど美しい青い海と空。
 私はその景色を、私自身の色彩感覚で再構築し、何日も何日も徹夜して油絵の具を塗り重ねた。
 出会った日の、雨で無残に溶け出していたあの青のグラデーションは、今はもうない。計算された確かな技術と、絶対に彼に届けたいという情熱によって、決して溶けることのない、鮮烈で強い青色としてキャンバスに定着させていた。

 布が取られた瞬間、彼は言葉を失ったように動きを止めた。
 ゆっくりと身を屈め、サングラスを少しだけずらす。キャンバスの表面からわずか数センチの距離まで顔を近づけ、じっと、穴が開くほど見つめる。

 ホームを吹き抜ける熱風が、彼の髪を揺らす。
 彼は、自分の視界のわずかに残された隙間に、その鮮烈な青色を一つ残らず、永遠に焼き付けようとしているかのようだった。
 長い、長い沈黙。
 私は彼が顔を上げるのを、祈るような気持ちで見守った。



 やがて、彼はゆっくりと顔を上げた。
 ずらしたサングラスの奥、その瞳がわずかに潤んでいるように見えたのは、夏の強い日差しのせいだろうか。

 彼は小さく鼻で笑うと、いつもの憎まれ口を叩いた。

「……まあ、俺の写真の構図が良かったからな。及第点ってところだ」
「素直じゃないですね。泣くほど感動したって顔に書いてありますよ」
「光が強すぎて目が痛いだけだ」

 強がる彼の声は、ほんの少しだけ震えていた。
 その時、発車ベルの無機質な音が、ホームにけたたましく鳴り響いた。別れの時間が来たのだ。

 彼はキャンバスを傷つけないように、大切に、しっかりと受け取った。
 そして、空いた片方の腕を伸ばし――私を強く、一度だけ引き寄せ、抱きしめた。

「え……」

 ワイシャツ越しに伝わる、彼の温かい体温。出会った日、私の肩を掴んだあの氷のような冷たさはなく、私を包み込む腕の力は、微かに、けれど確かに震えていた。
 耳元で、彼が低く囁く。

「……いいか、雨音」

 それは、私にかけられた一番強い呪い。

「もっと鮮やかな色を描け。俺が暗闇の中でも、迷わず君を見つけられるくらいに」

 それが、彼からの最後の言葉だった。



 プシュッ、と音を立てて、列車のドアが閉まる。
 ゆっくりと車輪が回り始め、彼を乗せた鉄の塊が、私から遠ざかっていく。

 私はホームの端に立ち、泣き笑いのような、きっとひどく不細工な顔で、遠ざかる列車に向かって何度も、何度も手を振った。
 涙で視界が滲んでも、彼の見ている世界に比べたら、この景色はあまりにも明るすぎた。

 顔を上げると、私の頭上には、一点の曇りもない真っ青な夏空が広がっている。

 私の世界に雨を降らせてくれた人は、最高に眩しい夏を私に残して、行ってしまった。