窓ガラスが割れんばかりの豪雨と、けたたましい雷鳴。
純喫茶『琥珀』の薄暗い店内で、私は息を呑み、目の前に座る彼を凝視していた。
「ここを出る」――その言葉の意味を脳が理解した瞬間、全身の血が逆流するようなパニックが私を襲った。
「……私も、行きます」
震える両手をテーブルに伸ばし、カップの縁をなぞっていた彼の冷たい手を両手で包み込んだ。すがるように、必死に。
「美大なんて、行かなくていい。親にどう思われたって構わない。私があなたの専属になるって、あなたの目になるって約束したじゃないですか!」
「雨音」
「嫌です! 灰谷さんがいない雨の日なんて、私には何の意味もない……っ」
私にとって、彼以上の「絵を描く理由」など、この世界のどこを探しても存在しなかった。彼が光を失うなら、私が光になればいい。彼と一緒に暗闇に沈んでもいいとすら、本気で思っていた。
けれど。
彼は私の両手から、自分の手をゆっくりと引き抜いた。乱暴ではない。けれど、絶対に覆らない強い力で、私の指を一つずつ剥がしていくように。
顔を上げた彼の表情に、いつもの憎たらしい皮肉めいた笑みはなかった。
サングラスの奥の瞳は、ひどく静かで、悲しげで、これ以上ないほどの深い愛情と諦観を湛えて私を捉えていた。
「……駄目だ。君は連れて行けない」
「どうして……! 私の絵が、好きだって言ってくれたのに!」
ぽろぽろと涙をこぼしながら叫ぶ私に、彼は酷く優しい声で答えた。
「好きだからだよ」
雷が遠くで地響きを立てる。
彼は、私の顔の輪郭を確かめるように、少しだけ身を乗り出した。
「あの日、土砂降りの中でキャンバスを捨てようとした君を見て、俺はどうして腹が立ったと思う?」
声が、微かに震えていた。
「俺の目が光を失っていくからじゃない。君が持っている圧倒的な色彩と、その眩しい才能を、君自身が殺そうとしていたからだ」
彼は静かに、けれど強い切実さを持って言葉を紡いだ。
「君には、君の描くべき世界がある。俺という狭いトンネルの中で、君の色を殺さないでくれ。光を失っていく俺の暗闇の道連れにするために、君の才能を肯定したわけじゃないんだ」
それは、「自分が重荷になるのが嫌だ」というような、陳腐な自己犠牲ではなかった。
ただ純粋に、私の持つ光を、私の未来を、誰よりも愛し、守りたいと願う眩しい祈りだった。
「灰谷さん……っ、でも、私は……」
泣き崩れ、テーブルに顔を伏せる私の頭に。
ぽん、と。冷たくて、骨張った、大きな手のひらがそっと乗せられた。
「専属契約は破棄だ。違約金は取らないでおいてやる」
頭上から降ってきた声は、出会った頃のような、少しだけ意地悪で、泣きたくなるほど優しい声だった。
「代わりに、新しい条件を出そう。……君は美大に行って、あの眩しい光の中で、君自身の絵を描き続けろ。親を納得させるためでも、ましてや、可哀想な俺のためでもない。君自身のためにだ」
それは、彼からの最大のエールであり、私が一生絵を描き続けるための、甘く、解けない「優しい呪い」だった。
「いつか、俺の目が完全に光を失っても。……遠く離れた暗闇の中にいる俺の、この瞼の裏まで届くような、最高に鮮やかな絵を描いてよ」
頭を撫でる手が、微かに震えながら離れていく。
「……それができたら、また会ってやってもいい」
絶対に果たせないと分かっている、透明な嘘。
彼が二度と私の前に現れる気がないことなど、痛いほど分かっていた。それでも私は、その嘘の優しさに縋りつくように、ただ何度も、何度も首を縦に振ることしかできなかった。
〇
不意に、窓を叩きつけていた激しい雨音が、嘘のように止んだ。
分厚い雨雲が割れ、その切れ間から、目を射るような強烈な夏の夕日が純喫茶に差し込んでくる。
オレンジ色の刃のような光を浴びた彼は、痛そうに顔をしかめ、深く顔を背けた。
残酷なほど鮮やかな、夏がやってきた。
私の世界に色をくれたこの人は、もうすぐ、光の届かない場所へ旅立とうとしている。
純喫茶『琥珀』の薄暗い店内で、私は息を呑み、目の前に座る彼を凝視していた。
「ここを出る」――その言葉の意味を脳が理解した瞬間、全身の血が逆流するようなパニックが私を襲った。
「……私も、行きます」
震える両手をテーブルに伸ばし、カップの縁をなぞっていた彼の冷たい手を両手で包み込んだ。すがるように、必死に。
「美大なんて、行かなくていい。親にどう思われたって構わない。私があなたの専属になるって、あなたの目になるって約束したじゃないですか!」
「雨音」
「嫌です! 灰谷さんがいない雨の日なんて、私には何の意味もない……っ」
私にとって、彼以上の「絵を描く理由」など、この世界のどこを探しても存在しなかった。彼が光を失うなら、私が光になればいい。彼と一緒に暗闇に沈んでもいいとすら、本気で思っていた。
けれど。
彼は私の両手から、自分の手をゆっくりと引き抜いた。乱暴ではない。けれど、絶対に覆らない強い力で、私の指を一つずつ剥がしていくように。
顔を上げた彼の表情に、いつもの憎たらしい皮肉めいた笑みはなかった。
サングラスの奥の瞳は、ひどく静かで、悲しげで、これ以上ないほどの深い愛情と諦観を湛えて私を捉えていた。
「……駄目だ。君は連れて行けない」
「どうして……! 私の絵が、好きだって言ってくれたのに!」
ぽろぽろと涙をこぼしながら叫ぶ私に、彼は酷く優しい声で答えた。
「好きだからだよ」
雷が遠くで地響きを立てる。
彼は、私の顔の輪郭を確かめるように、少しだけ身を乗り出した。
「あの日、土砂降りの中でキャンバスを捨てようとした君を見て、俺はどうして腹が立ったと思う?」
声が、微かに震えていた。
「俺の目が光を失っていくからじゃない。君が持っている圧倒的な色彩と、その眩しい才能を、君自身が殺そうとしていたからだ」
彼は静かに、けれど強い切実さを持って言葉を紡いだ。
「君には、君の描くべき世界がある。俺という狭いトンネルの中で、君の色を殺さないでくれ。光を失っていく俺の暗闇の道連れにするために、君の才能を肯定したわけじゃないんだ」
それは、「自分が重荷になるのが嫌だ」というような、陳腐な自己犠牲ではなかった。
ただ純粋に、私の持つ光を、私の未来を、誰よりも愛し、守りたいと願う眩しい祈りだった。
「灰谷さん……っ、でも、私は……」
泣き崩れ、テーブルに顔を伏せる私の頭に。
ぽん、と。冷たくて、骨張った、大きな手のひらがそっと乗せられた。
「専属契約は破棄だ。違約金は取らないでおいてやる」
頭上から降ってきた声は、出会った頃のような、少しだけ意地悪で、泣きたくなるほど優しい声だった。
「代わりに、新しい条件を出そう。……君は美大に行って、あの眩しい光の中で、君自身の絵を描き続けろ。親を納得させるためでも、ましてや、可哀想な俺のためでもない。君自身のためにだ」
それは、彼からの最大のエールであり、私が一生絵を描き続けるための、甘く、解けない「優しい呪い」だった。
「いつか、俺の目が完全に光を失っても。……遠く離れた暗闇の中にいる俺の、この瞼の裏まで届くような、最高に鮮やかな絵を描いてよ」
頭を撫でる手が、微かに震えながら離れていく。
「……それができたら、また会ってやってもいい」
絶対に果たせないと分かっている、透明な嘘。
彼が二度と私の前に現れる気がないことなど、痛いほど分かっていた。それでも私は、その嘘の優しさに縋りつくように、ただ何度も、何度も首を縦に振ることしかできなかった。
〇
不意に、窓を叩きつけていた激しい雨音が、嘘のように止んだ。
分厚い雨雲が割れ、その切れ間から、目を射るような強烈な夏の夕日が純喫茶に差し込んでくる。
オレンジ色の刃のような光を浴びた彼は、痛そうに顔をしかめ、深く顔を背けた。
残酷なほど鮮やかな、夏がやってきた。
私の世界に色をくれたこの人は、もうすぐ、光の届かない場所へ旅立とうとしている。

