天気予報にない通り雨みたいな恋だった

 あの日、不器用な専属契約を結んでから数週間。
 七月半ばを迎えた街は、水分をたっぷり含んだ重い空気の中に、気の早い蝉の鳴き声が混じるようになっていた。

 私たちの関係は、いつしか「雨の日だけの秘密」から、かけがえのない「日常」へと変わっていた。
 晴れの日は、直射日光を避けられる図書館の奥や、あの薄暗い純喫茶『琥珀』で。雨の日は、出会いの場所である公園の東屋で。
 私は毎日、少しだけ重くなった鞄に真新しいスケッチブックを忍ばせ、彼に会いに行った。道端で丸くなる野良猫、駅前の花壇で咲き誇る向日葵、雨上がりの水たまりに映る空。
 私が切り取った世界の欠片を、彼は文句を言いながらも、いつも特等席で見てくれた。

「……なあ。この猫、ちょっと太りすぎじゃないか? どう見ても豚にしか見えないんだけど」

 琥珀色のランプの下、私のスケッチブックを覗き込んだ彼が、呆れたように息を吐く。

「モデルがそういう体型だったんです。文句があるなら、専属契約打ち切りますよ」
「悪徳業者め。クーリングオフの期間は過ぎてるってわけか」

 皮肉を言い合いながらも、彼の表情は出会った頃とは比べ物にならないほど柔らかく、穏やかに凪いでいた。
 他愛のない会話をして、時々彼がふっと笑う。ただそれだけで、私の胸は甘く満たされた。間違いなく、私の十七年の生涯で最も幸福で、色彩に溢れた数週間だった。



 けれど。
 どれだけ私が幸せな時間に浸っていても、残酷な現実は、彼の目の奥で確実に進行していた。

 私が描いた絵を見る時。彼の顔とスケッチブックの距離が、数週間前よりも明らかに近くなっていることに、私は気づいていた。
 時折、彼は絵の輪郭を確かめるように、その青白い指先でそっと鉛筆の線をなぞることが増えた。視界の端から少しずつ欠け落ちていく世界を、指先の触覚で必死に補おうとしているかのように。

 彼は決して、弱音を吐かなかった。「見えづらい」とも「怖い」とも言わなかった。
 だから私も、気づかないふりをして笑い続けた。でも、彼が絵の具の濃淡を指でなぞるたび、私の胸の奥には氷のような冷たい不安が静かに積もっていく。

 季節が夏へ向かうように、彼の視界が奪われていくスピードは、私が筆を走らせるよりもずっと、ずっと早かったのだ。



 その日は、空が割れるような激しい夕立だった。
 梅雨明けを告げるサインのような、雷を伴う暴力的な雨。私たちはいつもの純喫茶に逃げ込み、窓際の席で息をついた。

 窓ガラスを叩きつける激しい雨音の中、彼は運ばれてきたコーヒーカップの縁を指でなぞりながら、ふと、独り言のように口を開いた。

「今年の梅雨は、随分長かったな」
「そうですね。でも、天気予報だと、明日か明後日には梅雨明けするみたいですよ。いよいよ本格的な夏ですね」

 私が無邪気に笑って答えると、彼は手元のカップを見つめたまま、微かに唇を噛んだ。
 いつもなら、「うだるような暑さは勘弁してほしい」と皮肉の一つでも返してくるはずなのに。彼の間には、ひどく重く、息苦しい沈黙が横たわっていた。

「……雨音」

 不意に、彼が私の名前を呼んだ。
 顔を上げた彼のサングラスの奥の瞳は、どこか諦めたような、ひどく静かな色をしていた。

「梅雨が明けたら、俺、ここを出るよ」
「え……?」

 頭の中が、真っ白になった。
 カップを持ち上げようとしていた私の手が、空中でピタリと止まる。

「もう、一人暮らしでこの目を誤魔化すのは限界が来てる。それに、これ以上光が強くなる真夏を、この街で一人で乗り切るのは難しい」

 淡々と語る彼の声は、まるで他人の予定を読み上げているかのようだった。
 遠方の実家へ戻り、いずれは専門の療養施設に入るつもりだと、彼は静かに告げた。

「え、嘘ですよね……? だって、私、専属画家になったばかりなのに。まだ、灰谷さんに描いて見せたいものが、たくさん……」

 喉がひきつり、声がうまく出ない。
 私がずっと彼の目になって、彼の隣で絵を描き続けられると、信じて疑わなかったのに。

 ピカッ、と窓の外で強烈な光が瞬き、数秒遅れて、地響きのような雷鳴が純喫茶の古い窓ガラスを震わせた。
 びくりと肩を震わせた私を、彼はただ静かに見つめていた。その表情には、これ以上踏み込ませないという、あの日のような明確な境界線が引かれていた。

 天気予報通りの、残酷な梅雨明け。
 私の短い魔法の季節は、音を立てて終わりを告げようとしていた。