翌朝。カーテンを開けると、昨日と同じように残酷なほどの快晴が広がっていた。
けれど、私の目に映る世界は、昨日までとはまるで違っていた。
通学路の道端でしおれかけている紫陽花の深い青。交差点で明滅する信号機の刺すような赤。容赦なく照りつける太陽と、アスファルトの乱反射。
今まで私を急き立て、息苦しくさせていた「晴れの世界の色彩」が、今は全く別の意味を持って私の網膜を叩く。これらすべてが、彼が愛し、そして二度と見られないかもしれない「尊いもの」なのだ。
(彼が光を失っていくなら。私がこの世界の鮮やかな色を全部、キャンバスに縛り付けてみせる)
私の胸の奥で、冷え切っていた絵の具が再び熱を帯びて溶け出していくのを感じた。彼のために、私はもう一度筆を執る。そう決意した朝の空気は、痛いくらいに澄み切っていた。
〇
放課後。埃っぽい空気が漂う教室には、息が詰まるような重苦しい沈黙が落ちていた。
机を挟んで向かい合うのは、疲れた顔の担任教師と、眉間に深い皺を寄せた母親。
そして机の中央には、私が昨日破り捨て、セロハンテープで不格好に繋ぎ合わせた『進路希望調査票』が置かれていた。
第一志望の欄。私はそこにあった「経済学部(推薦)」の文字を二重線で乱暴に消し、太い黒のボールペンで大きく、はっきりと書き直していた。
『〇〇美術大学(油画科)』と。
「……どういうつもりなの、これは」
母親の震える声が、静かな教室に響いた。
「才能がないって、自分で諦めたはずでしょ。何者にもなれないのに、無駄なことに時間とお金をかける余裕はうちにはないわ。今すぐ書き直しなさい」
いつもの私なら、ここで膝の上で拳を握りしめ、俯いて言葉を飲み込んでいただろう。波風を立てるくらいなら、息を止めて嵐が過ぎるのを待つ方がずっと楽だったから。
けれど、今の私は違う。
誰の役にも立たなくても、生産性がなくても、私の色を「綺麗だ」と言ってくれた、彼のあの言葉があるから。
〇
私はゆっくりと顔を上げ、母親と担任教師の目を真っ直ぐに見据えた。
「無駄かもしれません。誰の役にも立たないかもしれない。……でも、私の絵を『綺麗だ』と言ってくれた人がいます」
「は……? 何を馬鹿なことを……」
母親が鼻で笑って一蹴しようとしたが、私は言葉を止めなかった。
「私は、描かなきゃいけないんです」
声は震えていなかった。自分でも驚くほど、澄んだ強い声だった。
「その人の世界から色が完全に消えてしまう前に、この世界の綺麗なものを全部、私が描きたい。自分だけの為じゃありません。私には、どうしても描かなきゃいけない理由ができたんです」
初めて見せた私の強い反抗に、母親は言葉を失い、担任教師も目を丸くして固まっていた。
私の鞄の中には、昨日彼に見せてもらった風景写真からインスピレーションを得て、一晩中夢中で描き殴った新しい色彩のラフスケッチが、溢れんばかりに詰まっている。
無駄でもいい。才能がなくてもいい。
私が絵を描く理由は、親を納得させるためでも、社会で評価されるためでもなく、彼が見ていた圧倒的に美しい世界を、この手で証明するためなのだ。
〇
「話は、これだけです。私、絶対に美大に行きますから」
私は一方的に面談を終わらせると、椅子を蹴るようにして立ち上がり、教室を飛び出した。
「ちょっと、雨音! 待ちなさい!」
背後で母親の怒声が響いたが、私の足は止まらなかった。ローファーが廊下を蹴る音が、これまでにないほど力強く鳴り響く。
向かう先は一つだけだった。彼がいるかもしれない、あの場所へ。
無駄でもいい。ただの自己満足でもいい。早く、彼に会いたい。
そして、伝えなければならない。
私の世界を救ってくれた彼を、今度は私が描くのだと。晴れの世界を切り裂くように、私は夢中で走り続けた。
けれど、私の目に映る世界は、昨日までとはまるで違っていた。
通学路の道端でしおれかけている紫陽花の深い青。交差点で明滅する信号機の刺すような赤。容赦なく照りつける太陽と、アスファルトの乱反射。
今まで私を急き立て、息苦しくさせていた「晴れの世界の色彩」が、今は全く別の意味を持って私の網膜を叩く。これらすべてが、彼が愛し、そして二度と見られないかもしれない「尊いもの」なのだ。
(彼が光を失っていくなら。私がこの世界の鮮やかな色を全部、キャンバスに縛り付けてみせる)
私の胸の奥で、冷え切っていた絵の具が再び熱を帯びて溶け出していくのを感じた。彼のために、私はもう一度筆を執る。そう決意した朝の空気は、痛いくらいに澄み切っていた。
〇
放課後。埃っぽい空気が漂う教室には、息が詰まるような重苦しい沈黙が落ちていた。
机を挟んで向かい合うのは、疲れた顔の担任教師と、眉間に深い皺を寄せた母親。
そして机の中央には、私が昨日破り捨て、セロハンテープで不格好に繋ぎ合わせた『進路希望調査票』が置かれていた。
第一志望の欄。私はそこにあった「経済学部(推薦)」の文字を二重線で乱暴に消し、太い黒のボールペンで大きく、はっきりと書き直していた。
『〇〇美術大学(油画科)』と。
「……どういうつもりなの、これは」
母親の震える声が、静かな教室に響いた。
「才能がないって、自分で諦めたはずでしょ。何者にもなれないのに、無駄なことに時間とお金をかける余裕はうちにはないわ。今すぐ書き直しなさい」
いつもの私なら、ここで膝の上で拳を握りしめ、俯いて言葉を飲み込んでいただろう。波風を立てるくらいなら、息を止めて嵐が過ぎるのを待つ方がずっと楽だったから。
けれど、今の私は違う。
誰の役にも立たなくても、生産性がなくても、私の色を「綺麗だ」と言ってくれた、彼のあの言葉があるから。
〇
私はゆっくりと顔を上げ、母親と担任教師の目を真っ直ぐに見据えた。
「無駄かもしれません。誰の役にも立たないかもしれない。……でも、私の絵を『綺麗だ』と言ってくれた人がいます」
「は……? 何を馬鹿なことを……」
母親が鼻で笑って一蹴しようとしたが、私は言葉を止めなかった。
「私は、描かなきゃいけないんです」
声は震えていなかった。自分でも驚くほど、澄んだ強い声だった。
「その人の世界から色が完全に消えてしまう前に、この世界の綺麗なものを全部、私が描きたい。自分だけの為じゃありません。私には、どうしても描かなきゃいけない理由ができたんです」
初めて見せた私の強い反抗に、母親は言葉を失い、担任教師も目を丸くして固まっていた。
私の鞄の中には、昨日彼に見せてもらった風景写真からインスピレーションを得て、一晩中夢中で描き殴った新しい色彩のラフスケッチが、溢れんばかりに詰まっている。
無駄でもいい。才能がなくてもいい。
私が絵を描く理由は、親を納得させるためでも、社会で評価されるためでもなく、彼が見ていた圧倒的に美しい世界を、この手で証明するためなのだ。
〇
「話は、これだけです。私、絶対に美大に行きますから」
私は一方的に面談を終わらせると、椅子を蹴るようにして立ち上がり、教室を飛び出した。
「ちょっと、雨音! 待ちなさい!」
背後で母親の怒声が響いたが、私の足は止まらなかった。ローファーが廊下を蹴る音が、これまでにないほど力強く鳴り響く。
向かう先は一つだけだった。彼がいるかもしれない、あの場所へ。
無駄でもいい。ただの自己満足でもいい。早く、彼に会いたい。
そして、伝えなければならない。
私の世界を救ってくれた彼を、今度は私が描くのだと。晴れの世界を切り裂くように、私は夢中で走り続けた。

