天気予報にない通り雨みたいな恋だった

 冷房の効いたオフィスに、窓を叩く乱暴な音が響いた。
 キーボードを走らせていた指を止め、ブラインドの隙間から外を見る。空は鈍色の絵の具をぶちまけたように濁り、アスファルトからは熱した石と埃の混じった、あの独特な匂いが立ち上っていた。

「うわ、急な雨。最悪だね」
 隣のデスクの同僚が、ため息交じりに吐き捨てる。
 私はPCのモニターから視線を外し、デスクの片隅に飾られた小さな風景画に目を落とした。不格好で、青い絵の具が少し滲んでいる油絵。
 窓ガラスを滑り落ちる水滴をなぞりながら、私は少しだけ口角を上げた。

 もう、二度と会うことはない。
 彼の少しひび割れた声を聞くことも、その細い指先が私のキャンバスに触れることもない。
 それでも、アスファルトが雨に濡れる匂いを嗅ぐたびに、鼓膜の奥で古い記憶が再生される。私の無彩色の時間を鮮やかに塗り潰し、そして――天気予報にない通り雨みたいに去っていった、あの人のことを。



 四年前。高校三年生の、長くべたつく梅雨の日のことだ。

『才能なんてないんだから、いい加減に諦めなさい』

 母親の甲高い声の反響が、鼓膜にこびりついて離れない。
 私は薄暗い美術準備室から、土砂降りの校庭へと転がり出た。ローファーの底が泥を跳ね上げ、制服のブラウスが瞬く間に肌に張り付く。息をするたびに、肺の中に重く冷たい水が流れ込んでくるようだった。

 両腕には、数ヶ月かけて描き上げたF50号のキャンバスを抱えていた。海と空の境界線を描いた、ただひたすらに青い風景画。美大の推薦枠から弾かれ、誰の目にも触れることのなくなった残骸。
 水を吸って鉛のように重くなったキャンバスを引きずりながら、私は学校の裏手にある寂れた公園へと逃げ込んだ。

 雨水が目に入り、視界が滲む。絵の具の油の匂いが、雨の湿気に混じって鼻腔を突いた。
 こんなもの。こんなものがあるから。
 塗装の剥げたベンチにキャンバスを叩きつけようと、両腕に力を込めた、その時だった。

 ふと、頭上を叩きつけていた雨の重さが消えた。
 代わりに、厚手のリネンを打つような、くぐもった音が頭上を覆う。

「……君さ、絵の具の致死量って知ってる?」

 低く、少し掠れた声が降ってきた。
 振り返ると、水たまりの中に男が立っていた。濡れて肌に張り付いた白いワイシャツ。ひどく整っているのに、どこか熱を持たない静かな顔立ち。
 彼は、私ではなく私の手にあるキャンバスを見下ろし、大きな黒い長傘を傾けていた。

「は……?」
「そんな土砂降りの中に投げ出されたら、このキャンバスが溺死しちゃうよ」

 男は、傘の柄を握る指先でトントンと軽くリズムを取りながら、少しだけ息を吐いた。

「捨てるにしても、もう少し慈悲を持ったらどう?」

 同情でも、制止でもない。ただの理屈っぽい非難。
 張り詰めていた空気が、唐突に形を失ったような気がした。キャンバスの木枠を食い込むほど握りしめていた指から、ゆっくりと力が抜けていく。

 男は少しだけ腰を屈め、キャンバスの表面に顔を近づけた。
 色の濃いサングラスの奥で、微かに目を細める。鼻先が触れるほどの至近距離で、彼は私の描いた青をじっと見つめていた。
 容赦のない雨粒に打たれ、まだ乾ききっていなかったウルトラマリンブルーとセルリアンブルーが、キャンバスの上でだらしなく溶け出している。

「……綺麗な青だ」

 雨音に紛れるほどの、小さな呟きだった。

「雨に滲んで、余計にいい色になってる。濡れた油絵の具の匂い、俺は嫌いじゃないよ」

 彼が言葉を紡ぐたび、微かに煙草とミントが混ざったような香りがした。
 親にも、美術教師にも見向きもされなかった無価値な青。それが今、見知らぬ男の黒い傘の下で、雨という理不尽な暴力と混ざり合い、奇跡のようなグラデーションを孕んで息づいていた。
 喉の奥が、ひりひりと熱く引きつった。

 雨足が少しだけ弱まる。
 男は持っていた使い古しのタオルを、無造作に私の頭に被せた。洗剤の匂いが抜けた、少しゴワゴワとした手触り。

「じゃあな、カンバスの殺人鬼さん」
「あっ、待って……!」

 踵を返した背中に、慌てて声をぶつける。

「名前と、連絡先……タオルの、クリーニング代を」

 男は振り返らなかった。ただ、長い黒傘を持つ手を軽く挙げて、宙でひらひらと振るだけ。

「いいよ、そんなの。……また雨が降ったら、ここで」

 アスファルトを突く傘の石突きが、カツ、と乾いた音を立てて遠ざかる。
 タオルを両手で握りしめながら、私はその後ろ姿が灰色の雨景色に溶けて見えなくなるまで、足を踏み出すことができなかった。

 晴天を望むのが当たり前だった私の十七年の人生で。
 初めて、「明日は雨が降ればいい」と、鈍色の空を見上げて祈った瞬間だった。