九月の初旬。空は薄雲に覆われ、目に刺さるような白く濁った光を放っていた。残暑の生温かい空気が、まとわりつくように肌を撫でる。
アトリエへ向かうため、重い足取りでアパートの階段を降りた私は、一階の郵便受けに無造作に突っ込まれていた分厚い封筒に目を留めた。
眩暈がするほど真っ白な封筒。その表面には、大学の教務課の印字があった。
嫌な予感がして、その場で震える指で封を切る。中から出てきたのは、これまた残酷なほど白い数枚の紙だった。
『後期学費の未納通知』
『このままでは留年が確定します』
無機質な明朝体の黒い文字が、刃物のように私の眼球を突き刺した。
その直後、鞄の中でスマートフォンが短く震えた。液晶画面を埋め尽くしたのは、母親から届いたLINEの白い吹き出しだった。
『仕送りのこと、お父さんが怒ってる。大学から何か手紙来てない? 連絡しなさい』
呼吸が、ヒュッと止まった。
私を執拗に追い詰める、目に痛い「白」の連続。ずっと見ないふりをして逃げ続けてきたツケが、目に見える『タイムリミット』として、ついに私の首に冷たい指をかけた瞬間だった。
私は逃げるようにアパートを飛び出し、近くのコンビニへと駆け込んだ。
無機質な電子音が響く店内。ATMの前に立ち、すがるような思いでキャッシュカードを吸い込み口へと押し込む。
画面が切り替わり、青白い光が私の顔を不気味に照らし出した。
そこに表示された残高は、『2,102円』。
足元がぐらりと揺れた。胃の奥底から、酸っぱい吐き気が込み上げてくる。
来月の家賃なんて、到底払えない。携帯の料金も、光熱費も。それどころか、あと数日もすれば、あのアトリエに通うための電車賃すら底をつく。
私はもうすぐ、社会のシステムから完全に弾き出される。お金という命綱を絶たれ、誰からも必要とされない存在として、路上に放り出されるのだ。
青白い画面の前で、私は声を殺してうずくまりそうになるのを必死に堪えた。
どうやって電車に乗り、どうやって商店街の裏路地まで辿り着いたのか、記憶がひどく曖昧だった。
気がつけば、私はあの錆びた真鍮のプレートの前に立っていた。
息を切らし、全身に冷や汗をかきながら、体当たりするように重い木製の扉を押し開ける。
ひんやりと停滞した空気。鼻腔を突く現像液の酸っぱさと、成瀬が吸うバニラのような煙草の甘い匂い。
いつもなら、この匂いを肺の奥深くまで吸い込んだ瞬間、私の狂った心拍数はスッと静まり、すべての痛みから解放されるはずだった。
けれど。
今日は、違った。
息を吸っても吸っても、酸素が頭に回らない。脳裏に『留年』『未納』『残高』という黒い文字が、チカチカと明滅してこびりついて離れないのだ。
浅い呼吸が止まらない。手足の指先が、死体のように氷のように冷え切っていく。
致死量の麻酔をもってしても、現実の激痛が軽々と超えてしまった。もう、この甘い匂いだけでは、私に巻きついた死への恐怖を誤魔化すことはできなかった。
「……結衣ちゃん?」
不意に、アンバーの照明の向こうから声が降ってきた。
カウンターで読書をしていた成瀬が、私の異変に気づき、本を置いて歩み寄ってくる。
「顔色、ひどいよ」
彼はそう言って、少し眉をひそめながら私の顔を覗き込んだ。そして、その青白く冷たい指先を、熱を持った私の頬にそっと這わせた。
ヒヤリとした心地よい温度。
――ああ、助けて。
私はその手にすがりつき、泣き叫びそうになった。私、もうすぐ家を追い出される。大学も退学になる。お金もない。助けて、私をここから連れ出して。
喉の奥まで出かかった悲鳴を、私は血が滲むほど唇を噛んで飲み込んだ。
言えない。
ここで生々しいお金の話や、大学の通知の存在を口にしてしまえば、彼との間にある「心地よい魔法」が完全に解けてしまう。
現実を持ち込めば、この琥珀色の暗室もまた「現実の続き」に成り下がってしまうのだ。彼にとって私は、ただの『金に困った面倒な女』に転落し、この安全な場所から拒絶されるかもしれない。
成瀬の瞳は、優しく私を心配してくれている。けれど、彼が見ているのは「体調を崩した子供」だけであり、私の抱える本当の絶望には、微塵も気づいていない。
そのすれ違う優しさが、ひどくもどかしく、そして残酷だった。
私は、微かに震える息を吐きながら、自分の頬に添えられた彼の冷たい手のひらに、ゆっくりと顔をすり寄せた。
猫のように目を閉じ、彼の体温のない肌の感触に全神経を集中させる。
――親に泣きついて謝り、お金を払ってもらって、またあの吐き気のするような就活に戻る?
無理だ。
もうあの、白飛びするほど眩しい外の世界には、一秒たりとも耐えられない。正しい言葉も、前向きな同級生も、私を狂わせるだけだ。
だったら。
いっそ、全部捨ててしまえばいい。
大学生という安全な肩書きも、親からの期待も、帰るべき家も。すべて手放して、この暗室の完全な住人になってしまえばいい。
彼が私を「女」として愛してくれなくても構わない。家具の一部でも、飼い殺しのペットでもいい。社会から完全に消滅してしまえば、もう『留年』や『残高』といった現実の通知に怯える必要はなくなるのだから。
恐怖のあまり正常な判断力を失った私の脳髄に、そんな狂った結論が甘い蜜のように滴り落ちた。
社会的な死。それは決して絶望ではなく、彼と同じ闇の底へ完全に沈んでいくための、唯一の切符なのだ。
私は彼の手のひらに頬を押し付けたまま、誰にも見えないように、薄く歪んだ笑みを浮かべた。
退路は、自らの手で断つ。
もう、あの白い世界へは戻らない。
アトリエへ向かうため、重い足取りでアパートの階段を降りた私は、一階の郵便受けに無造作に突っ込まれていた分厚い封筒に目を留めた。
眩暈がするほど真っ白な封筒。その表面には、大学の教務課の印字があった。
嫌な予感がして、その場で震える指で封を切る。中から出てきたのは、これまた残酷なほど白い数枚の紙だった。
『後期学費の未納通知』
『このままでは留年が確定します』
無機質な明朝体の黒い文字が、刃物のように私の眼球を突き刺した。
その直後、鞄の中でスマートフォンが短く震えた。液晶画面を埋め尽くしたのは、母親から届いたLINEの白い吹き出しだった。
『仕送りのこと、お父さんが怒ってる。大学から何か手紙来てない? 連絡しなさい』
呼吸が、ヒュッと止まった。
私を執拗に追い詰める、目に痛い「白」の連続。ずっと見ないふりをして逃げ続けてきたツケが、目に見える『タイムリミット』として、ついに私の首に冷たい指をかけた瞬間だった。
私は逃げるようにアパートを飛び出し、近くのコンビニへと駆け込んだ。
無機質な電子音が響く店内。ATMの前に立ち、すがるような思いでキャッシュカードを吸い込み口へと押し込む。
画面が切り替わり、青白い光が私の顔を不気味に照らし出した。
そこに表示された残高は、『2,102円』。
足元がぐらりと揺れた。胃の奥底から、酸っぱい吐き気が込み上げてくる。
来月の家賃なんて、到底払えない。携帯の料金も、光熱費も。それどころか、あと数日もすれば、あのアトリエに通うための電車賃すら底をつく。
私はもうすぐ、社会のシステムから完全に弾き出される。お金という命綱を絶たれ、誰からも必要とされない存在として、路上に放り出されるのだ。
青白い画面の前で、私は声を殺してうずくまりそうになるのを必死に堪えた。
どうやって電車に乗り、どうやって商店街の裏路地まで辿り着いたのか、記憶がひどく曖昧だった。
気がつけば、私はあの錆びた真鍮のプレートの前に立っていた。
息を切らし、全身に冷や汗をかきながら、体当たりするように重い木製の扉を押し開ける。
ひんやりと停滞した空気。鼻腔を突く現像液の酸っぱさと、成瀬が吸うバニラのような煙草の甘い匂い。
いつもなら、この匂いを肺の奥深くまで吸い込んだ瞬間、私の狂った心拍数はスッと静まり、すべての痛みから解放されるはずだった。
けれど。
今日は、違った。
息を吸っても吸っても、酸素が頭に回らない。脳裏に『留年』『未納』『残高』という黒い文字が、チカチカと明滅してこびりついて離れないのだ。
浅い呼吸が止まらない。手足の指先が、死体のように氷のように冷え切っていく。
致死量の麻酔をもってしても、現実の激痛が軽々と超えてしまった。もう、この甘い匂いだけでは、私に巻きついた死への恐怖を誤魔化すことはできなかった。
「……結衣ちゃん?」
不意に、アンバーの照明の向こうから声が降ってきた。
カウンターで読書をしていた成瀬が、私の異変に気づき、本を置いて歩み寄ってくる。
「顔色、ひどいよ」
彼はそう言って、少し眉をひそめながら私の顔を覗き込んだ。そして、その青白く冷たい指先を、熱を持った私の頬にそっと這わせた。
ヒヤリとした心地よい温度。
――ああ、助けて。
私はその手にすがりつき、泣き叫びそうになった。私、もうすぐ家を追い出される。大学も退学になる。お金もない。助けて、私をここから連れ出して。
喉の奥まで出かかった悲鳴を、私は血が滲むほど唇を噛んで飲み込んだ。
言えない。
ここで生々しいお金の話や、大学の通知の存在を口にしてしまえば、彼との間にある「心地よい魔法」が完全に解けてしまう。
現実を持ち込めば、この琥珀色の暗室もまた「現実の続き」に成り下がってしまうのだ。彼にとって私は、ただの『金に困った面倒な女』に転落し、この安全な場所から拒絶されるかもしれない。
成瀬の瞳は、優しく私を心配してくれている。けれど、彼が見ているのは「体調を崩した子供」だけであり、私の抱える本当の絶望には、微塵も気づいていない。
そのすれ違う優しさが、ひどくもどかしく、そして残酷だった。
私は、微かに震える息を吐きながら、自分の頬に添えられた彼の冷たい手のひらに、ゆっくりと顔をすり寄せた。
猫のように目を閉じ、彼の体温のない肌の感触に全神経を集中させる。
――親に泣きついて謝り、お金を払ってもらって、またあの吐き気のするような就活に戻る?
無理だ。
もうあの、白飛びするほど眩しい外の世界には、一秒たりとも耐えられない。正しい言葉も、前向きな同級生も、私を狂わせるだけだ。
だったら。
いっそ、全部捨ててしまえばいい。
大学生という安全な肩書きも、親からの期待も、帰るべき家も。すべて手放して、この暗室の完全な住人になってしまえばいい。
彼が私を「女」として愛してくれなくても構わない。家具の一部でも、飼い殺しのペットでもいい。社会から完全に消滅してしまえば、もう『留年』や『残高』といった現実の通知に怯える必要はなくなるのだから。
恐怖のあまり正常な判断力を失った私の脳髄に、そんな狂った結論が甘い蜜のように滴り落ちた。
社会的な死。それは決して絶望ではなく、彼と同じ闇の底へ完全に沈んでいくための、唯一の切符なのだ。
私は彼の手のひらに頬を押し付けたまま、誰にも見えないように、薄く歪んだ笑みを浮かべた。
退路は、自らの手で断つ。
もう、あの白い世界へは戻らない。

