八月も終わろうとしているのに、夜の空気はねっとりと肌にまとわりつくような熱を孕んでいた。
アトリエの隅で唸りを上げている古いエアコンはすっかり効きが悪くなっており、薄暗い琥珀色の空間には、微かに寝苦しいような熱気が澱んでいる。
私はカウンターの隅で、氷が半分溶けかかった麦茶のグラスを両手で包み込んでいた。グラスの表面から滴る結露が、じっとりと私の指先を濡らす。
今日の私は、いつも着ている野暮ったいシャツではなく、少しだけ背伸びをした黒いノースリーブのワンピースを着ていた。露出した肩や二の腕に、アトリエの生温かい空気が直接触れる。
――少しでも彼に、「女」として意識してほしい。
そんな浅はかながら切実な自意識が、私の体温を無駄に跳ね上げていた。肌に滲む微かな汗と、ドクン、ドクンと煩く鳴り続ける自分の心拍を持て余す。
対照的に、カウンターの奥でフィルムの整理をしている成瀬は、暑がるそぶりすら見せなかった。洗いざらしのシャツの襟元からは汗一つ見えず、その青白い肌は、真冬の湖面のように静まり返っている。
彼と私とでは、そもそも生きている季節が違うのではないか。そんな錯覚に陥るほどの、明確な温度差があった。
「……少し、休む」
不意に、成瀬が手元のフィルムを置き、静かに息を吐いた。
彼はカウンターの奥から歩み出ると、部屋の隅にある古い革張りのソファに深くもたれかかった。そして、少し疲れたような手つきで銀縁の眼鏡を外し、ゆっくりと目を閉じた。
私は、グラスを握る手を止めた。
眼鏡を外した彼の顔を、これほど無防備な状態で見るのは初めてだった。
普段の、何もかもを見透かしているような「大人の男」の仮面が剥がれ落ちたその顔は、少し幼く、そしてひどく無防備に見えた。
アンバーの照明が、彼の伏せられた長い睫毛の影を、青白い頬にくっきりと落としている。少しだけ開いた薄い唇からは、微かな寝息が漏れていた。
――見つめてはいけない。
頭の片隅で警鐘が鳴ったが、私の視線はもう、彼から引き剥がすことができなかった。強力な磁場に囚われたように、私はスツールから滑り降り、音を立てないように彼が眠るソファへと近づいていく。
一歩、また一歩。
息がかかるほどの至近距離まで近づき、私はソファの前にしゃがみ込んだ。
彼の整った寝顔が、私の視界のすべてを埋め尽くす。
いつも彼から漂ってくる、煙草と微かな柔軟剤の匂い。それが、今日はひどく甘く、ねっとりとした官能的な匂いとして私の鼻腔を犯していく。
この冷たそうな頬に、触れてみたい。
あの薄い唇を塞いで、この狂おしいほどの熱を押し付けたい。
いつも私を涼しい顔であしらう彼を、私と同じように体温を跳ね上げさせて、息を乱させてやりたい。
ドロドロとした黒い衝動が、私の理性をいとも簡単に溶かしていく。私は無意識のうちに、震える右手をゆっくりと持ち上げていた。
指先が、彼の頬に落ちる前髪に触れようとした。あと数センチ。あと数ミリ。
――その瞬間。
私の手首が、空中でピタリと止められた。
「……っ」
息が止まる。
私の指が彼の肌に触れるほんの数ミリ手前で、成瀬はゆっくりと目を開けていた。そして、下から伸びてきた彼の大きな手が、私の手首を空中でしっかりと掴んでいたのだ。
心臓が、肋骨を突き破りそうなほど激しく跳ね上がった。見られた。触れようとしたことを、知られた。
極度の緊張と羞恥で、私の全身の血液が一気に沸騰する。
しかし、私を見下ろす成瀬の瞳には、欲情も、動揺も、軽蔑すらも、一切存在していなかった。
そこにあったのは、ただひどく凪いだ、温度のない暗い水底だけ。
彼は私の手首を掴んだまま、静かに口を開いた。
「……汗ばんでるよ。外、そんなに暑かった?」
頭を、鈍器で殴られたような衝撃だった。
「ちが、私は……」
言い返す言葉が見つからなかった。彼にとって、至近距離で手を伸ばしてきた私の行動は、「女からの誘惑」ですらなく、ただ「暑さで体温が上がり、汗をかいている小動物の奇行」に過ぎなかったのだ。
成瀬は私が何かを言う前に、私の手首を優しく、けれど絶対に逆らえない強い力で押し戻した。
そして、傍らに置いてあった銀縁の眼鏡をかけ直す。
「冷たい麦茶、おかわり淹れるよ」
彼が立ち上がり、私に背を向けた瞬間、彼は再び「決して手出しできない大人」へと戻ってしまった。
私は、ソファの前にしゃがみ込んだまま、空中に残された自分の右手を見つめていた。
私の心臓は、今も破裂しそうなほど痛い音を立てているというのに。先ほど私の手首を掴んだ彼の手からは、脈の乱れなど微塵も感じられなかった。
私にとって彼は、人生のレールを狂わせ、正常な呼吸すら奪い去った、全てを溶かし尽くす「灼熱」だ。
それなのに、彼にとっての私は、火傷すらしない、ただの「微熱」でしかない。
安全な場所で庇護してやるべき、哀れな迷子の子供。性的な対象にすらならない、無害な存在。
その残酷な事実が、私のなけなしの自尊心を木端微塵に砕き、同時に、決して満たされることのない黒い渇望を肥大化させていく。
――彼を、めちゃくちゃにしたい。
その涼しい顔を歪ませて、彼の安全で冷たい世界を根底から壊せるような「女」になりたい。
届かないとわかっているからこそ、私の内側で蠢く「触れたい」「壊したい」という欲望は、熱を帯びた泥のようにドロドロと深くなっていった。
アトリエの隅で唸りを上げている古いエアコンはすっかり効きが悪くなっており、薄暗い琥珀色の空間には、微かに寝苦しいような熱気が澱んでいる。
私はカウンターの隅で、氷が半分溶けかかった麦茶のグラスを両手で包み込んでいた。グラスの表面から滴る結露が、じっとりと私の指先を濡らす。
今日の私は、いつも着ている野暮ったいシャツではなく、少しだけ背伸びをした黒いノースリーブのワンピースを着ていた。露出した肩や二の腕に、アトリエの生温かい空気が直接触れる。
――少しでも彼に、「女」として意識してほしい。
そんな浅はかながら切実な自意識が、私の体温を無駄に跳ね上げていた。肌に滲む微かな汗と、ドクン、ドクンと煩く鳴り続ける自分の心拍を持て余す。
対照的に、カウンターの奥でフィルムの整理をしている成瀬は、暑がるそぶりすら見せなかった。洗いざらしのシャツの襟元からは汗一つ見えず、その青白い肌は、真冬の湖面のように静まり返っている。
彼と私とでは、そもそも生きている季節が違うのではないか。そんな錯覚に陥るほどの、明確な温度差があった。
「……少し、休む」
不意に、成瀬が手元のフィルムを置き、静かに息を吐いた。
彼はカウンターの奥から歩み出ると、部屋の隅にある古い革張りのソファに深くもたれかかった。そして、少し疲れたような手つきで銀縁の眼鏡を外し、ゆっくりと目を閉じた。
私は、グラスを握る手を止めた。
眼鏡を外した彼の顔を、これほど無防備な状態で見るのは初めてだった。
普段の、何もかもを見透かしているような「大人の男」の仮面が剥がれ落ちたその顔は、少し幼く、そしてひどく無防備に見えた。
アンバーの照明が、彼の伏せられた長い睫毛の影を、青白い頬にくっきりと落としている。少しだけ開いた薄い唇からは、微かな寝息が漏れていた。
――見つめてはいけない。
頭の片隅で警鐘が鳴ったが、私の視線はもう、彼から引き剥がすことができなかった。強力な磁場に囚われたように、私はスツールから滑り降り、音を立てないように彼が眠るソファへと近づいていく。
一歩、また一歩。
息がかかるほどの至近距離まで近づき、私はソファの前にしゃがみ込んだ。
彼の整った寝顔が、私の視界のすべてを埋め尽くす。
いつも彼から漂ってくる、煙草と微かな柔軟剤の匂い。それが、今日はひどく甘く、ねっとりとした官能的な匂いとして私の鼻腔を犯していく。
この冷たそうな頬に、触れてみたい。
あの薄い唇を塞いで、この狂おしいほどの熱を押し付けたい。
いつも私を涼しい顔であしらう彼を、私と同じように体温を跳ね上げさせて、息を乱させてやりたい。
ドロドロとした黒い衝動が、私の理性をいとも簡単に溶かしていく。私は無意識のうちに、震える右手をゆっくりと持ち上げていた。
指先が、彼の頬に落ちる前髪に触れようとした。あと数センチ。あと数ミリ。
――その瞬間。
私の手首が、空中でピタリと止められた。
「……っ」
息が止まる。
私の指が彼の肌に触れるほんの数ミリ手前で、成瀬はゆっくりと目を開けていた。そして、下から伸びてきた彼の大きな手が、私の手首を空中でしっかりと掴んでいたのだ。
心臓が、肋骨を突き破りそうなほど激しく跳ね上がった。見られた。触れようとしたことを、知られた。
極度の緊張と羞恥で、私の全身の血液が一気に沸騰する。
しかし、私を見下ろす成瀬の瞳には、欲情も、動揺も、軽蔑すらも、一切存在していなかった。
そこにあったのは、ただひどく凪いだ、温度のない暗い水底だけ。
彼は私の手首を掴んだまま、静かに口を開いた。
「……汗ばんでるよ。外、そんなに暑かった?」
頭を、鈍器で殴られたような衝撃だった。
「ちが、私は……」
言い返す言葉が見つからなかった。彼にとって、至近距離で手を伸ばしてきた私の行動は、「女からの誘惑」ですらなく、ただ「暑さで体温が上がり、汗をかいている小動物の奇行」に過ぎなかったのだ。
成瀬は私が何かを言う前に、私の手首を優しく、けれど絶対に逆らえない強い力で押し戻した。
そして、傍らに置いてあった銀縁の眼鏡をかけ直す。
「冷たい麦茶、おかわり淹れるよ」
彼が立ち上がり、私に背を向けた瞬間、彼は再び「決して手出しできない大人」へと戻ってしまった。
私は、ソファの前にしゃがみ込んだまま、空中に残された自分の右手を見つめていた。
私の心臓は、今も破裂しそうなほど痛い音を立てているというのに。先ほど私の手首を掴んだ彼の手からは、脈の乱れなど微塵も感じられなかった。
私にとって彼は、人生のレールを狂わせ、正常な呼吸すら奪い去った、全てを溶かし尽くす「灼熱」だ。
それなのに、彼にとっての私は、火傷すらしない、ただの「微熱」でしかない。
安全な場所で庇護してやるべき、哀れな迷子の子供。性的な対象にすらならない、無害な存在。
その残酷な事実が、私のなけなしの自尊心を木端微塵に砕き、同時に、決して満たされることのない黒い渇望を肥大化させていく。
――彼を、めちゃくちゃにしたい。
その涼しい顔を歪ませて、彼の安全で冷たい世界を根底から壊せるような「女」になりたい。
届かないとわかっているからこそ、私の内側で蠢く「触れたい」「壊したい」という欲望は、熱を帯びた泥のようにドロドロと深くなっていった。

