ゼミの必修単位のため、どうしても大学に行かなければならない。その事実が、数日前から私の胃を重く冷たくさせていた。
久しぶりに足を踏み入れた真昼のキャンパスは、私にとって地獄だった。
雲一つない空から降り注ぐ太陽の光が、コンクリートの照り返しとなって鋭く目に突き刺さる。視界の端が常に白飛びしていて、ピントが合わない。行き交う学生たちの甲高い笑い声や、スニーカーがアスファルトを擦る音。それらすべての生活音が、メガホンで直接鼓膜を殴りつけられているかのように、凶悪なノイズとなって響いていた。
アトリエの、あの停滞した薄暗さと静寂にすっかり慣れきってしまった私の神経は、外の世界の刺激に対して、薄皮を剥がされたように過敏になっていた。眩しい。うるさい。息苦しい。
早く日陰に入らなければ。体が溶けてしまう。
逃げ込むように入ったゼミの教室も、私を救ってはくれなかった。
「卒論のテーマ、もう決めた?」
「来月の内定式、髪色どうする? 黒染めしなきゃだよねー」
久しぶりに顔を合わせた友人たちは、未来へ向かって進む「正しい会話」を繰り広げていた。彼女たちに悪気は一切ない。健康で、前向きで、社会のレールをしかるべき歩幅で進んでいるだけだ。
けれど、その無自覚な「眩しさ」が、今の私には致死量を超えた放射線のように思えた。
彼女たちの会話の輪の中で引きつった愛想笑いを浮かべながら、私は自分が、陸に打ち上げられて呼吸ができなくなった深海魚のように思えた。あるいは、健康な人間の群れに紛れ込んでしまった、末期の病人。
圧倒的な疎外感が、足元からじわじわと這い上がってくる。
空調の吹き出す乾いた風の音すら、耳障りで息苦しかった。
「そういえばさ」
不意に、友人の一人が私の方へと顔を向けた。
「結衣は最近、就活どうしてるの?」
――その瞬間。
私の喉の奥が、ヒュッと甲高い音を立てた。
気管が急激に収縮し、酸素の吸い方がわからなくなる。額から、じっとりと冷たい汗が噴き出した。ドクン、ドクン、と心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく打ち始め、視界の端がチカチカと白く明滅する。
怖い。ここにいてはいけない。
頭の中を支配したのは、思考ではなく、本能的な飢餓感だった。
――足りない。彼の匂いが、足りない。
「ごめん、気分が悪い」
友人たちが驚いて何か言うより早く、私は椅子を蹴立てて立ち上がり、鞄を掴んで教室を飛び出していた。
大学のキャンパスを抜け、駅へ向かい、電車に飛び乗る。
車内の蛍光灯の光すら私を責め立てているように感じられ、目をきつく閉じて震えを堪えた。最寄り駅で降りると、ヒールが脱げそうになるのも構わず、商店街の裏路地へと走った。
汗が目に入り、息が上がる。肺が焼けるように痛い。それでも足は止まらない。
這うようにして、冷たいコンクリートの階段を駆け上がる。
錆びた真鍮のプレート。重い木製の扉。
すがりつくようにその扉を押し開けた瞬間だった。
ひんやりと停滞した空気。鼻腔の奥を強烈に刺す現像液の酸っぱさと、ねっとりと甘いバニラのような煙草の匂い。
「……あ……」
私はその場にへたり込みそうになりながら、その混ざり合った異臭を、肺の底の底まで深く吸い込んだ。
カウンターの奥で本を読んでいた成瀬が、肩で激しく息をする私を見て、銀縁眼鏡の奥の瞳を少しだけ丸くした。
「……どうしたの、すごい汗」
彼は本を閉じ、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
私は答えることができなかった。ただ、彼から漂うその匂いを必死に吸い込む。
奇跡のようだった。あんなに荒ぶっていた心拍が、嘘のようにスッと静まっていく。白飛びしていた視界に色が戻り、震えていた指先から力が抜ける。
それは、恋人に会えた安堵などという可愛らしいものではない。薬が切れてパニックに陥っていた依存症患者が、致死量一杯の鎮痛薬を投与されて強引に鎮静させられたような、不健全な安堵感だった。
私はアトリエの冷たい床にへたり込んだまま、額の汗を拭うことも忘れて深く息を吐いた。
見上げた先には、アンバーの照明に照らされた成瀬の冷ややかな眼差しがある。
ああ、もう手遅れだ。
私は冷たい床の感触を確かめながら、静かに悟った。
彼が与えてくれるこの優しく甘い麻酔は、私の痛みを消し去ってくれる代わりに、外の世界で生きるための「免疫」をすべて奪い去ってしまったのだ。
もう、あの眩しい光の下では、私はまともに息を吸うことすらできない。他人の正しい言葉を聞けば呼吸が止まり、彼の匂いがなければ心拍を正常に保つこともできない。
私は完全に、社会から適応する能力を喪失してしまった。
けれど、その絶望的な事実が、私に背徳的な安心感を与えていた。
もう現実に戻れないなら、ずっとこの暗がりで、彼の足元にうずくまっていればいい。社会から欠落した欠陥品同士、この冷たい水底で、二度と浮上することなく泥に沈んでいけばいい。
「……外、暑かったでしょ」
成瀬が、いつものように感情のない声で言い、冷たい麦茶の入ったグラスを差し出す。
私はその氷のように冷たい指先に触れたくて、震える手でグラスを受け取った。
もう、彼なしでは生きていけない。
その呪いのような幸福に、私はゆっくりと目を閉じた。
久しぶりに足を踏み入れた真昼のキャンパスは、私にとって地獄だった。
雲一つない空から降り注ぐ太陽の光が、コンクリートの照り返しとなって鋭く目に突き刺さる。視界の端が常に白飛びしていて、ピントが合わない。行き交う学生たちの甲高い笑い声や、スニーカーがアスファルトを擦る音。それらすべての生活音が、メガホンで直接鼓膜を殴りつけられているかのように、凶悪なノイズとなって響いていた。
アトリエの、あの停滞した薄暗さと静寂にすっかり慣れきってしまった私の神経は、外の世界の刺激に対して、薄皮を剥がされたように過敏になっていた。眩しい。うるさい。息苦しい。
早く日陰に入らなければ。体が溶けてしまう。
逃げ込むように入ったゼミの教室も、私を救ってはくれなかった。
「卒論のテーマ、もう決めた?」
「来月の内定式、髪色どうする? 黒染めしなきゃだよねー」
久しぶりに顔を合わせた友人たちは、未来へ向かって進む「正しい会話」を繰り広げていた。彼女たちに悪気は一切ない。健康で、前向きで、社会のレールをしかるべき歩幅で進んでいるだけだ。
けれど、その無自覚な「眩しさ」が、今の私には致死量を超えた放射線のように思えた。
彼女たちの会話の輪の中で引きつった愛想笑いを浮かべながら、私は自分が、陸に打ち上げられて呼吸ができなくなった深海魚のように思えた。あるいは、健康な人間の群れに紛れ込んでしまった、末期の病人。
圧倒的な疎外感が、足元からじわじわと這い上がってくる。
空調の吹き出す乾いた風の音すら、耳障りで息苦しかった。
「そういえばさ」
不意に、友人の一人が私の方へと顔を向けた。
「結衣は最近、就活どうしてるの?」
――その瞬間。
私の喉の奥が、ヒュッと甲高い音を立てた。
気管が急激に収縮し、酸素の吸い方がわからなくなる。額から、じっとりと冷たい汗が噴き出した。ドクン、ドクン、と心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく打ち始め、視界の端がチカチカと白く明滅する。
怖い。ここにいてはいけない。
頭の中を支配したのは、思考ではなく、本能的な飢餓感だった。
――足りない。彼の匂いが、足りない。
「ごめん、気分が悪い」
友人たちが驚いて何か言うより早く、私は椅子を蹴立てて立ち上がり、鞄を掴んで教室を飛び出していた。
大学のキャンパスを抜け、駅へ向かい、電車に飛び乗る。
車内の蛍光灯の光すら私を責め立てているように感じられ、目をきつく閉じて震えを堪えた。最寄り駅で降りると、ヒールが脱げそうになるのも構わず、商店街の裏路地へと走った。
汗が目に入り、息が上がる。肺が焼けるように痛い。それでも足は止まらない。
這うようにして、冷たいコンクリートの階段を駆け上がる。
錆びた真鍮のプレート。重い木製の扉。
すがりつくようにその扉を押し開けた瞬間だった。
ひんやりと停滞した空気。鼻腔の奥を強烈に刺す現像液の酸っぱさと、ねっとりと甘いバニラのような煙草の匂い。
「……あ……」
私はその場にへたり込みそうになりながら、その混ざり合った異臭を、肺の底の底まで深く吸い込んだ。
カウンターの奥で本を読んでいた成瀬が、肩で激しく息をする私を見て、銀縁眼鏡の奥の瞳を少しだけ丸くした。
「……どうしたの、すごい汗」
彼は本を閉じ、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
私は答えることができなかった。ただ、彼から漂うその匂いを必死に吸い込む。
奇跡のようだった。あんなに荒ぶっていた心拍が、嘘のようにスッと静まっていく。白飛びしていた視界に色が戻り、震えていた指先から力が抜ける。
それは、恋人に会えた安堵などという可愛らしいものではない。薬が切れてパニックに陥っていた依存症患者が、致死量一杯の鎮痛薬を投与されて強引に鎮静させられたような、不健全な安堵感だった。
私はアトリエの冷たい床にへたり込んだまま、額の汗を拭うことも忘れて深く息を吐いた。
見上げた先には、アンバーの照明に照らされた成瀬の冷ややかな眼差しがある。
ああ、もう手遅れだ。
私は冷たい床の感触を確かめながら、静かに悟った。
彼が与えてくれるこの優しく甘い麻酔は、私の痛みを消し去ってくれる代わりに、外の世界で生きるための「免疫」をすべて奪い去ってしまったのだ。
もう、あの眩しい光の下では、私はまともに息を吸うことすらできない。他人の正しい言葉を聞けば呼吸が止まり、彼の匂いがなければ心拍を正常に保つこともできない。
私は完全に、社会から適応する能力を喪失してしまった。
けれど、その絶望的な事実が、私に背徳的な安心感を与えていた。
もう現実に戻れないなら、ずっとこの暗がりで、彼の足元にうずくまっていればいい。社会から欠落した欠陥品同士、この冷たい水底で、二度と浮上することなく泥に沈んでいけばいい。
「……外、暑かったでしょ」
成瀬が、いつものように感情のない声で言い、冷たい麦茶の入ったグラスを差し出す。
私はその氷のように冷たい指先に触れたくて、震える手でグラスを受け取った。
もう、彼なしでは生きていけない。
その呪いのような幸福に、私はゆっくりと目を閉じた。

