アスファルトを叩き割るような、凄まじいゲリラ豪雨だった。
分厚いガラス窓を容赦なく打ちつける激しい雨音は、外の世界のあらゆるノイズを掻き消した。行き交う車の走行音も、人々の焦燥に満ちた足音も、すべてを等しく塗り潰し、届かない。
今日、このアトリエを訪れる客はいない。
薄暗い空間に満ちているのは、湿気を帯びた古い木材の匂いと、雨の日特有の重く沈んだ空気。そこに、いつもの現像液の酸性の匂いがねっとりと絡みついている。
私は古いソファで両膝を抱え、水底に沈んだ箱のように密閉された空間で、ただ静かに彼の背中を見つめていた。
激しい雨音の壁に守られ、社会から完全に切り離されたこの場所は、私にとって唯一安息が約束されたシェルターだった。
カウンターの向こう側では、アンバーの卓上ランプに照らされた成瀬が、一台のカメラを手入れしていた。
いつも客の古いフィルムカメラを修理している彼だが、今日手元に置かれているのは、酷く傷のついた、無骨で重厚な一眼レフカメラだった。奥の棚のその奥から引っ張り出してきたのか、レンズの縁には薄く埃がこびりついている。
彼は精密なピンセットではなく柔らかい布を持ち、その傷だらけの黒いボディを静かに、ただ黙々と磨き続けていた。
その手つきがあまりにも慈しみに満ちていて、私はふと、吸い寄せられるように口を開いていた。
「……それは、お客さんのですか?」
雨音に吸い込まれそうな私の声に、成瀬は手を止めることなく、ただ平坦な声で答えた。
「いや」
布を動かす、青白く冷たい指先。
「……昔、僕が使っていたやつ。もう何年もシャッターを切ってないけど」
私は小さく息を呑んだ。彼が自分自身の持ち物について口にしたのを、初めて聞いた気がした。
「……どうして、使わなくなったんですか」
踏み込んではいけない境界線だとわかっていた。けれど、雨音が私の躊躇いを麻痺させていた。
成瀬は、磨き終わったレンズを布越しにそっと撫で、銀縁眼鏡の奥の、深いプールの底のような瞳を私に向けた。
「昔は、外で写真を撮ってたんだ」
その声は、今日の天気の話でもするような、ひどく乾いて温度のない響きだった。
「でも、ある日突然、ファインダー越しの光が眩しすぎて……何も見えなくなった」
「光が……」
「期待されるのが、重くてね」
彼は短く息を吐き、カウンターの上の古いライターを弄った。
「……だから、逃げてきたんだよ。この暗がりに」
カチリ、とライターの石が擦れる音が、私の鼓膜を撃ち抜いた。
――逃げてきた。
彼自身の口からこぼれ落ちたその単語が、私の胸の奥深くに、甘く、どす黒い染みを広げていく。
いつも完璧な大人の輪郭を保ち、どんな出来事にも動じない、私にとっての絶対的な神様。その彼が、かつては外の光に焼き焦がされ、私と同じように社会のプレッシャーから逃げ出した「ドロップアウトした人間」だったという事実。
憧れていた人の「挫折」と「弱さ」を知って、幻滅するどころか、私の内側からは胸が焼けるような歓喜が込み上げてきた。
――なんだ、彼も私と同じ、欠陥品なんだ。
外の眩しさに耐えきれず、正しい歩幅で歩けなくなった逃亡者。だから彼は、平日の昼間に逃げ込んでくる私を否定しなかったのだ。
私がここで腐っていくのを許容してくれたのは、彼自身がとうの昔に、この暗闇で腐り果てていたから。
その事実が、私に強烈な安心感を与えた。私はただ彼に一方的に庇護されているだけの惨めな子供ではなく、彼の致命的な傷を知り、その痛みを分かち合える「唯一の理解者」なのだ。
私の歪んだ自己評価が、都合よく、そして甘美にすり替わっていく。他人の古傷を暴き、自分と同じ泥の中に引きずり下ろしたような、酷く醜悪でどす黒い優越感。
けれど、その毒のような喜びが、私をかつてないほど強く彼に惹きつけていた。
私はソファからゆっくりと立ち上がり、アトリエの隅にある小さなキッチンへと向かった。
いつも彼に冷たい麦茶を出されるがままだった私が、初めて、自らの意思で彼のために動いた。小さなケトルでお湯を沸かし、戸棚にあったインスタントの粉をマグカップに淹れる。
立ち上る湯気と、コーヒーの焦げたような苦い香りが、雨の匂いに混ざり合う。
私は二つのマグカップを両手に持ち、カウンターの彼のもとへ歩み寄った。
コトリ、と彼の傍らに温かいカップを置く。
成瀬は手元のカメラから視線を外し、湯気を立てる黒い液体と、私を交互に見た。
「……サンキュ」
ただそれだけの、短い言葉。
それでも、彼が私の差し出したものを受け取ってくれたという事実が、私の胸をどうしようもなく甘く締め付けた。
窓を打ちつける雨音は、一向に弱まる気配がない。
私は自分のマグカップを両手で包み込みながら、その温もりを持て余すように、彼の伏せられた横顔を見つめた。
外で降る雨が、どうかこのままずっとやまないでほしいと願った。
この薄暗い水底で、お互いの癒えない古傷を舐め合いながら、ずっと二人きりで息を潜めていたかった。
――彼を救えるのは、同じ傷を持つ私だけだ。
そんな見当違いで酷く甘い錯覚が、私の両足を、後戻りできない底なしの泥沼へと完全に引きずり込んでいった。
この痛くない密室で、私たちは一緒に息を止めている。
麻酔の濃度は、もう後戻りできないところまで高まっていた。
分厚いガラス窓を容赦なく打ちつける激しい雨音は、外の世界のあらゆるノイズを掻き消した。行き交う車の走行音も、人々の焦燥に満ちた足音も、すべてを等しく塗り潰し、届かない。
今日、このアトリエを訪れる客はいない。
薄暗い空間に満ちているのは、湿気を帯びた古い木材の匂いと、雨の日特有の重く沈んだ空気。そこに、いつもの現像液の酸性の匂いがねっとりと絡みついている。
私は古いソファで両膝を抱え、水底に沈んだ箱のように密閉された空間で、ただ静かに彼の背中を見つめていた。
激しい雨音の壁に守られ、社会から完全に切り離されたこの場所は、私にとって唯一安息が約束されたシェルターだった。
カウンターの向こう側では、アンバーの卓上ランプに照らされた成瀬が、一台のカメラを手入れしていた。
いつも客の古いフィルムカメラを修理している彼だが、今日手元に置かれているのは、酷く傷のついた、無骨で重厚な一眼レフカメラだった。奥の棚のその奥から引っ張り出してきたのか、レンズの縁には薄く埃がこびりついている。
彼は精密なピンセットではなく柔らかい布を持ち、その傷だらけの黒いボディを静かに、ただ黙々と磨き続けていた。
その手つきがあまりにも慈しみに満ちていて、私はふと、吸い寄せられるように口を開いていた。
「……それは、お客さんのですか?」
雨音に吸い込まれそうな私の声に、成瀬は手を止めることなく、ただ平坦な声で答えた。
「いや」
布を動かす、青白く冷たい指先。
「……昔、僕が使っていたやつ。もう何年もシャッターを切ってないけど」
私は小さく息を呑んだ。彼が自分自身の持ち物について口にしたのを、初めて聞いた気がした。
「……どうして、使わなくなったんですか」
踏み込んではいけない境界線だとわかっていた。けれど、雨音が私の躊躇いを麻痺させていた。
成瀬は、磨き終わったレンズを布越しにそっと撫で、銀縁眼鏡の奥の、深いプールの底のような瞳を私に向けた。
「昔は、外で写真を撮ってたんだ」
その声は、今日の天気の話でもするような、ひどく乾いて温度のない響きだった。
「でも、ある日突然、ファインダー越しの光が眩しすぎて……何も見えなくなった」
「光が……」
「期待されるのが、重くてね」
彼は短く息を吐き、カウンターの上の古いライターを弄った。
「……だから、逃げてきたんだよ。この暗がりに」
カチリ、とライターの石が擦れる音が、私の鼓膜を撃ち抜いた。
――逃げてきた。
彼自身の口からこぼれ落ちたその単語が、私の胸の奥深くに、甘く、どす黒い染みを広げていく。
いつも完璧な大人の輪郭を保ち、どんな出来事にも動じない、私にとっての絶対的な神様。その彼が、かつては外の光に焼き焦がされ、私と同じように社会のプレッシャーから逃げ出した「ドロップアウトした人間」だったという事実。
憧れていた人の「挫折」と「弱さ」を知って、幻滅するどころか、私の内側からは胸が焼けるような歓喜が込み上げてきた。
――なんだ、彼も私と同じ、欠陥品なんだ。
外の眩しさに耐えきれず、正しい歩幅で歩けなくなった逃亡者。だから彼は、平日の昼間に逃げ込んでくる私を否定しなかったのだ。
私がここで腐っていくのを許容してくれたのは、彼自身がとうの昔に、この暗闇で腐り果てていたから。
その事実が、私に強烈な安心感を与えた。私はただ彼に一方的に庇護されているだけの惨めな子供ではなく、彼の致命的な傷を知り、その痛みを分かち合える「唯一の理解者」なのだ。
私の歪んだ自己評価が、都合よく、そして甘美にすり替わっていく。他人の古傷を暴き、自分と同じ泥の中に引きずり下ろしたような、酷く醜悪でどす黒い優越感。
けれど、その毒のような喜びが、私をかつてないほど強く彼に惹きつけていた。
私はソファからゆっくりと立ち上がり、アトリエの隅にある小さなキッチンへと向かった。
いつも彼に冷たい麦茶を出されるがままだった私が、初めて、自らの意思で彼のために動いた。小さなケトルでお湯を沸かし、戸棚にあったインスタントの粉をマグカップに淹れる。
立ち上る湯気と、コーヒーの焦げたような苦い香りが、雨の匂いに混ざり合う。
私は二つのマグカップを両手に持ち、カウンターの彼のもとへ歩み寄った。
コトリ、と彼の傍らに温かいカップを置く。
成瀬は手元のカメラから視線を外し、湯気を立てる黒い液体と、私を交互に見た。
「……サンキュ」
ただそれだけの、短い言葉。
それでも、彼が私の差し出したものを受け取ってくれたという事実が、私の胸をどうしようもなく甘く締め付けた。
窓を打ちつける雨音は、一向に弱まる気配がない。
私は自分のマグカップを両手で包み込みながら、その温もりを持て余すように、彼の伏せられた横顔を見つめた。
外で降る雨が、どうかこのままずっとやまないでほしいと願った。
この薄暗い水底で、お互いの癒えない古傷を舐め合いながら、ずっと二人きりで息を潜めていたかった。
――彼を救えるのは、同じ傷を持つ私だけだ。
そんな見当違いで酷く甘い錯覚が、私の両足を、後戻りできない底なしの泥沼へと完全に引きずり込んでいった。
この痛くない密室で、私たちは一緒に息を止めている。
麻酔の濃度は、もう後戻りできないところまで高まっていた。

