甘い麻酔みたいな恋だった

 アトリエの窓を覆うブラインドの隙間から、傾きかけた西日が細い刃のように差し込んでいた。
 古い革張りのソファに深く身を沈め、私は何気なくスマートフォンの画面を指で弾いていた。無意識の巡回。ただの暇つぶしだったはずのその動作が、私の呼吸を唐突に止めた。
 液晶画面に浮かび上がった、色鮮やかな写真。同じゼミに所属する友人の、晴れやかな笑顔。
 そして、それに添えられた短いテキスト。
 『第一志望、内定もらえました。春から社会人がんばる』
 文末で躍る桜のアイコンが、薄暗いアトリエの中でひと際青白く発光し、私の網膜を深く抉った。
 ――ドクン。
 心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。胃の奥底に冷たい鉛の塊が落ちていくような感覚。画面から放たれる圧倒的な「光」が、私の全身を容赦なく照らし出す。
 彼女は、正しいレールから降りなかったのだ。眩しい未来に向かって、しかるべき歩幅で、しかるべき場所へと到達した。
 私だけが、人生の正解から弾き出され、この薄暗がりの中で泥に塗れて蹲っている。
 ドクン、ドクン、ドクン。
 早鐘のように打つ心拍に急き立てられるように、私の呼吸が浅く、速くなる。スマホを握る指先が、微かな痙攣を起こしていた。
 さっきまで私の全身を優しく包み込んでいたはずの琥珀色の空気が、急に反転した。
 鼻腔を満たしていた甘い匂いが、突如として「ただのカビ臭く、埃っぽい、停滞した部屋の悪臭」へと変貌する。壁一面に並ぶ古いカメラが、無駄な時間を浪費している私を冷ややかに見下ろしているように思えた。
 外から聞こえる遠い車の走行音が、耳障りなサイレンとなって鼓膜を打つ。
 ――早く戻れ。お前はここで何をしているんだ。早く立ち上がって、走り出せ。
 見えない暴力が私を責め立てる。ここにいてはいけない。今すぐ立ち上がって、あの眩しい世界へ戻らなければ、私は本当に社会から消去されてしまう。
 強迫観念に急き立てられ、ソファから腰を浮かせかけた、その時だった。

 スッと、上から伸びてきた影が、私の視界を塞いだ。
「あっ……」
 声にならない吐息が漏れる。
 私の手の中から、熱を持ったスマートフォンが滑り落ちるように抜き取られた。
 背後から音もなく近づいてきた成瀬だった。彼は私の頭越しに画面の青白い光を一瞥すると、一切の表情を変えることなく、電源ボタンを押し込んだ。
 ブンッ。
 暴力的な光が、いとも容易く消滅する。
 成瀬はそのまま、黒い長方形の板と化したそれを、カウンターの裏側――私の手が決して届かない場所へと、無造作に放り投げた。
「……見たくないものは、まだ見なくていい」
 頭上から降ってきたのは、ひどく凪いだ、温度のない声だった。
「でも、私……」
 震える唇から、反論とも言い訳ともつかない言葉が零れ落ちる。彼を見上げる私の声は、ひどく惨めで、泣き出しそうに震えていた。
 成瀬は銀縁眼鏡の奥の、深いプールの底のような瞳で私を静かに見下ろした。
「……痛い顔してる」
 彼はそう言って、小さく息を吐いた。
「ここには、君を痛くするものは持ち込まないで」

 彼は私から視線を外すと、窓際へと歩み寄り、西日を通していたブラインドを完全に降ろした。
 ガシャリ、という冷たい金属音とともに、現実世界の光が完全に遮断される。アトリエは再び、アンバーの照明だけが灯る、永遠の夜のような空間へと回帰した。
 成瀬はカウンターの奥へ戻り、古いレコードプレーヤーに針を落とす。
 ブツッ、というノイズの後に、気怠いジャズの旋律が流れ出し、外のノイズを完全に塗りつぶしていった。
 そして彼は、いつものように胸ポケットから煙草を取り出し、静かに火を点ける。
 シュボッ、というくぐもった音に続いて、甘く重いバニラのような煙草の香りが、現像液の酸性の匂いと混ざり合いながら空間を満たしていった。
 紫色の煙が私を包み込んだ瞬間、さっきまでの、あの切り裂かれるような激痛が、嘘のようにスーッと引いていくのを感じた。
 強張っていた筋肉が弛み、浅かった呼吸が深くなる。
 再び、強力な麻酔が私の全身に回り始めたのだ。

 私は、古いソファの背もたれに深く身を沈めた。
 ――本当の優しさを持つ大人なら、ここで私を叱るべきなのだ。
 「こんなところで腐っていないで、現実と向き合いなさい」と、私の腕を引いて、あの眩しい外の世界へと引きずり出すのが、正しい大人の役割であるはずだ。
 でも、彼はそうしない。
 彼は私の目を塞ぎ、耳を塞ぎ、痛みの原因を排除して、この暗闇の中で一緒に腐ることを許容してくれる。
 大丈夫だとも、君ならできるとも言わない。ただ、痛々しい現実を遮断して、痛みを麻痺させてくれるだけ。
 頭の片隅で、警鐘が鳴っていた。
 この優しさが、私を根本から壊していく『猛毒』だということは、とうに気付いている。ここに居続ければ、私の傷口は決して治ることなく、ただ痛みを感じないまま腐り落ちていくだけだ。
 それでも。
 私は彼の細い背中から立ち上る紫色の煙を見つめながら、自らその毒をあおるように、甘い空気を深く肺へと吸い込んだ。

 この人がくれる毒なら、私は喜んで飲み干したい。
 完全に麻痺してしまった思考の隅で、私は歪んだ幸福感に身を委ね、静かに目を閉じた。
 痛くない世界。ここには、私を傷つけるものは何一つないのだ。