アスファルトを激しく打ち据える夕立の音が、分厚いコンクリートの壁を隔てて、くぐもったノイズのように響いていた。
外の世界では今頃、突然の雨に降られた人々が駅へと走り、傘の波が足早に交差しているはずだ。就職活動の面接に遅れまいと、水たまりを避けてスーツの裾を気にする学生もいるだろう。
けれど、この琥珀色の空間には、その焦燥もノイズも一切届かない。
チクタク、と古い壁掛け時計の秒針が、雨音の裏側で静かなリズムを刻んでいる。
私はカウンターに頬杖をつき、その静かな音の海にただ身を委ねていた。ここには、私を急かす大人も、同世代の眩しい歩幅もない。ただ、停滞した甘い煙草の匂いだけが、私の肺を満たしてくれている。
カウンターの向こう側では、アンバーの卓上ランプに照らされた成瀬が、古い機械式カメラの修理を行っていた。
私の視線は、無意識のうちに彼の手元へと縫い付けられている。
薄暗がりの中で、彼の伏せられた長い睫毛が、青白い頬に濃い影を落としていた。銀縁眼鏡の奥底にある瞳は、深い森の湖のように光を吸い込み、どんな感情の揺れも反射しない。
何よりも私を狂わせたのは、その無駄のない動きをする指先だった。
血管の透けて見える、青白くて冷たそうな長い指。ピンセットの先で、命を吹き込んでいくように、極小の歯車を摘み上げ、定位置へと収めていく。その滑らかで精密な所作は、見つめているだけで私の呼吸を浅くさせた。
トクン、トクンと、自分の心音だけが鼓膜の奥で奇妙に大きく響く。
その時だった。
ピンセットの先から滑り落ちた銀色の小さなネジが、カウンターの傾斜を転がり、こちら側へと落ちてきそうになった。
「あ、危ない」
私は咄嗟に手を伸ばし、カウンターの縁でその小さな部品を手のひらで受け止めた。
成瀬の手が、ピタリと止まる。
「……ありがと。助かった」
低い、凪いだ声。
彼はゆっくりとこちらへ手を伸ばし、私の手のひらに乗った小さなネジを、二本の指でそっと摘み上げた。
――その瞬間。
彼の指の腹が、私の手のひらの中央を、ほんの数ミリだけ掠めた。
ビクンと、肩が跳ねた。
冷たい。
外の湿気と若さゆえの焦りで微かに汗ばんでいた私の熱を、一瞬で奪い去るような、氷のような冷たさ。それは、長く暗室の薬品の中に浸っていたせいなのか、あるいは彼の内側にある「何か」が完全に冷え切っているからなのか。
心臓が跳ね上がり、喉の奥がカラカラに乾く。
けれど、私のそんな動揺など微塵も気付いていないかのように、成瀬の表情は一切変わらなかった。彼は摘み上げたネジを基盤に戻すと、再び何事もなかったかのように作業を再開した。
外の世界の熱を持て余している私と、この暗闇の中で完全に温度を失っている彼。その残酷なまでの体温の差が、私たちの間に決して交わることのない深い溝があることを突きつけてくる。
動悸を抑えながら、私は再び彼の手元を見つめた。
ふと、気がつく。彼が古いカメラの部品を扱う手つきは、異常なほどに優しい。
それは単なる精密機械を扱う手つきではなく、まるで、もう二度と元には戻らない壊れ物を、それでも愛おしむように撫でるような、そんな手つきだった。
この人は過去に、何を失ってこの暗がりに逃げてきたんだろうか。
どんな眩しい光に灼かれて、この匂いの立ち込める安息地へ身を隠したのだろう。
聞きたい。彼の冷たい瞳の奥に触れてみたい。
けれど、口を開きかけた私の唇は、声になる前に塞がれた。
もし彼の過去を聞いてしまえば、この甘い密室に「現実の風」が吹き込んでしまう。彼がただの「傷ついた一人の男」になってしまえば、私を助けてくれた神様ではなくなってしまう。それは、この心地よい麻酔が解けることを意味していた。
だから、私は決して聞かない。彼も、私に何も聞かないように。
いつの間にか、外のアスファルトを叩く雨音は、遠く微かなものへと変わっていた。
私は、先ほど彼の指先が触れた手のひらを、そっと強く握り込んだ。
肌の表面には、まだ彼の冷たい感触と、微かな薬品の匂いが残っている。
私は、自分が社会のレールから逃げ出した惨めな敗北者だという現実から目を背けるために、新しい言い訳を見つけていた。
――違う。私は逃げているんじゃない。
ただ、この人に恋をしているから、ここに通っているんだ。
その甘く浅はかな勘違いが、猛毒のように私の全身へと回り始めていることに、私はもう気付かないふりをした。
ただ、彼の落とす紫色の煙の軌跡を、濡れた瞳で見つめ続けていた。
外の世界では今頃、突然の雨に降られた人々が駅へと走り、傘の波が足早に交差しているはずだ。就職活動の面接に遅れまいと、水たまりを避けてスーツの裾を気にする学生もいるだろう。
けれど、この琥珀色の空間には、その焦燥もノイズも一切届かない。
チクタク、と古い壁掛け時計の秒針が、雨音の裏側で静かなリズムを刻んでいる。
私はカウンターに頬杖をつき、その静かな音の海にただ身を委ねていた。ここには、私を急かす大人も、同世代の眩しい歩幅もない。ただ、停滞した甘い煙草の匂いだけが、私の肺を満たしてくれている。
カウンターの向こう側では、アンバーの卓上ランプに照らされた成瀬が、古い機械式カメラの修理を行っていた。
私の視線は、無意識のうちに彼の手元へと縫い付けられている。
薄暗がりの中で、彼の伏せられた長い睫毛が、青白い頬に濃い影を落としていた。銀縁眼鏡の奥底にある瞳は、深い森の湖のように光を吸い込み、どんな感情の揺れも反射しない。
何よりも私を狂わせたのは、その無駄のない動きをする指先だった。
血管の透けて見える、青白くて冷たそうな長い指。ピンセットの先で、命を吹き込んでいくように、極小の歯車を摘み上げ、定位置へと収めていく。その滑らかで精密な所作は、見つめているだけで私の呼吸を浅くさせた。
トクン、トクンと、自分の心音だけが鼓膜の奥で奇妙に大きく響く。
その時だった。
ピンセットの先から滑り落ちた銀色の小さなネジが、カウンターの傾斜を転がり、こちら側へと落ちてきそうになった。
「あ、危ない」
私は咄嗟に手を伸ばし、カウンターの縁でその小さな部品を手のひらで受け止めた。
成瀬の手が、ピタリと止まる。
「……ありがと。助かった」
低い、凪いだ声。
彼はゆっくりとこちらへ手を伸ばし、私の手のひらに乗った小さなネジを、二本の指でそっと摘み上げた。
――その瞬間。
彼の指の腹が、私の手のひらの中央を、ほんの数ミリだけ掠めた。
ビクンと、肩が跳ねた。
冷たい。
外の湿気と若さゆえの焦りで微かに汗ばんでいた私の熱を、一瞬で奪い去るような、氷のような冷たさ。それは、長く暗室の薬品の中に浸っていたせいなのか、あるいは彼の内側にある「何か」が完全に冷え切っているからなのか。
心臓が跳ね上がり、喉の奥がカラカラに乾く。
けれど、私のそんな動揺など微塵も気付いていないかのように、成瀬の表情は一切変わらなかった。彼は摘み上げたネジを基盤に戻すと、再び何事もなかったかのように作業を再開した。
外の世界の熱を持て余している私と、この暗闇の中で完全に温度を失っている彼。その残酷なまでの体温の差が、私たちの間に決して交わることのない深い溝があることを突きつけてくる。
動悸を抑えながら、私は再び彼の手元を見つめた。
ふと、気がつく。彼が古いカメラの部品を扱う手つきは、異常なほどに優しい。
それは単なる精密機械を扱う手つきではなく、まるで、もう二度と元には戻らない壊れ物を、それでも愛おしむように撫でるような、そんな手つきだった。
この人は過去に、何を失ってこの暗がりに逃げてきたんだろうか。
どんな眩しい光に灼かれて、この匂いの立ち込める安息地へ身を隠したのだろう。
聞きたい。彼の冷たい瞳の奥に触れてみたい。
けれど、口を開きかけた私の唇は、声になる前に塞がれた。
もし彼の過去を聞いてしまえば、この甘い密室に「現実の風」が吹き込んでしまう。彼がただの「傷ついた一人の男」になってしまえば、私を助けてくれた神様ではなくなってしまう。それは、この心地よい麻酔が解けることを意味していた。
だから、私は決して聞かない。彼も、私に何も聞かないように。
いつの間にか、外のアスファルトを叩く雨音は、遠く微かなものへと変わっていた。
私は、先ほど彼の指先が触れた手のひらを、そっと強く握り込んだ。
肌の表面には、まだ彼の冷たい感触と、微かな薬品の匂いが残っている。
私は、自分が社会のレールから逃げ出した惨めな敗北者だという現実から目を背けるために、新しい言い訳を見つけていた。
――違う。私は逃げているんじゃない。
ただ、この人に恋をしているから、ここに通っているんだ。
その甘く浅はかな勘違いが、猛毒のように私の全身へと回り始めていることに、私はもう気付かないふりをした。
ただ、彼の落とす紫色の煙の軌跡を、濡れた瞳で見つめ続けていた。

