甘い麻酔みたいな恋だった

 平日の午前十時。空には雲一つなく、お手本のような快晴だった。
 照りつける太陽が、アスファルトを白く焼き焦がしている。黒いリクルートスーツに身を包んだ私の体は、まるで熱を逃がさない密閉容器のようだった。ポリエステルのブラウスの下で、じっとりと粘り気のある汗が背骨を伝い落ちる。
 駅前のロータリーで、鞄の中のスマートフォンが短く震えた。
『今日の面接、頑張ってね。終わったら連絡して』
 液晶画面に浮かび上がった母親からのメッセージ。白飛びするほど眩しい太陽の下で、その文字は私の眼球を刺すように鋭く光っていた。
 息を止めて、汗ばんだ親指でキーボードを叩く。
『うん、今駅に向かってる。頑張るね』
 送信ボタンを押した瞬間、肋骨の裏側で、硬く乾いた嫌な音が鳴った。
 初めて親についた、取り返しのつかない嘘。みぞおちの辺りがギュッと締め付けられ、胃の粘膜が焼け焦げるような感覚に襲われる。それなのに、足元からふわりと重力が消えたような、奇妙で浮薄感が全身を包み込んだ。
 私は今、自らの手で、社会へと続く正しいレールから足を踏み外したのだ。

 駅の改札へと吸い込まれていく同世代の就活生や、足早に歩くビジネスマンたち。彼らの、迷いのない革靴やパンプスの音が、正しいリズムで朝の空気を叩いている。
 私はその波に逆らうように、踵を返した。
 カン、カンと、すり減ったヒールが不規則な音を立てる。向かうのは、駅とは真逆の方向。日陰の多い、うらぶれた商店街の裏路地だ。
 背後から照りつける太陽光が、私の嘘を暴こうとするかのようにジリジリと首筋を焼く。すれ違う人々の視線が、平日の朝に逆走する黒スーツの私を非難しているように感じられた。
 痛い。眩しい。早く、あの暗がりへ。
 私は逃げるように歩幅を広げ、ほとんど小走りになって路地裏の影へと滑り込んだ。

 蔦の絡まった雑居ビル。その冷たいコンクリートの階段を駆け上がり、すがりつくように重い木製の扉を押し開ける。
 ――その瞬間だった。
 ひんやりと停滞した古い空気とともに、あの強烈な匂いが全身を包み込んだ。
 鼻腔の奥をツンと刺す、現像液の酸性の匂い。そこに、火をつけたばかりのバニラのように甘く重い煙草の煙が、ねっとりと絡みついている。
 一般的には顔をしかめるようなその臭いを胸の奥深くまで吸い込んだ。途端、強張っていた私の肩から、スッと力が抜けた。
 ドクドクと耳障りな音を立てていた心拍数が、魔法をかけられたように静まっていく。指先の震えが止まる。
 「面接に行かなかった焦り」も「母親を裏切った罪悪感」も、この琥珀色の空間では、まるで遠い異国のニュースのように現実味を失ってしまった。
 この混ざり合った異臭は、私を現実から強制的に遮断する、「麻酔のスイッチ」だった。

「……いらっしゃい」
 カウンターの奥、赤い安全灯の隣で、成瀬が静かに声を落とした。
 彼は手元のルーペから目を離さず、平日の朝に就活スーツで現れた私を見ても、眉一つ動かさなかった。
「……スーツ、暑くない?」
「……暑いです。すごく」
 私の掠れた声を聞いて、成瀬は初めて顔を上げた。銀縁眼鏡の奥の、凪いだ瞳。彼は短く息を吐いて煙草の煙を散らすと、部屋の隅にある古い扇風機のスイッチを入れた。
 ジーという機械音とともに、首を振る扇風機が、私の方へと微かな風を運んでくる。
「第一ボタン、外しなよ。……誰も見ないから」
 彼は「面接はどうしたの」とは、一言も聞かなかった。
 私がどこから逃げてきて、どんな嘘をついてここに立っているのか、すべて見透かしているはずなのに。彼は決して、その傷口を白日の下に晒そうとはしない。
 その「何も聞かない」という静謐な無関心が、今の私にとっては、首を絞めるほどの甘い肯定だった。いいんだよ、嘘をついても。逃げても。彼の静かな呼吸音が、そう囁いているように聞こえた。

 私はふらつく足取りで部屋の隅にある古い革張りのソファに倒れ込み、スーツの上着を乱暴に脱ぎ捨てた。
 扇風機のぬるい風が、汗ばんだブラウスを冷やしていく。
 ソファの背もたれに深く頭を預け、目を細めた。視界の先には、カウンターで再び作業に戻った成瀬の、細く頼りない背中がある。彼の指先から立ち上る、紫色の煙の軌跡。
 私は、その甘い煙の匂いを、もう一度深く肺の底へと吸い込んだ。

 ――お母さん、ごめんなさい。私は今日、面接には行かない。

 正しい大人になるための白い切符を、私は今、自らの手で破り捨てた。
 その代わりに手に入れたのは、この息が詰まるほど甘く、ひんやりとした泥水だ。私は今、自分から進んで、この麻酔の匂いがする泥水の中に首まで浸かろうとしている。
 罪悪感よりも、圧倒的な心地よさが勝ってしまった。
 もう、あの暴力的な光の中には戻れない。
 私は、彼が吐き出す煙の輪を見つめながら、ゆっくりと重い瞼を閉じた。