一段、また一段と、ひんやりとしたコンクリートの階段を踏みしめる。
鞄の奥底で、短い震えが連続していた。薄暗い階段の踊り場で足を止め、スマートフォンの画面を引きずり出す。
『選考結果のご連絡』
『昨日の面接、どうだった?』
通知欄に並ぶ、無機質な文字列。液晶の放つ刺々しい青白い光が、薄暗がりの中で網膜を灼く。息苦しさがせり上がり、喉の奥がカラカラに乾いた。
私は画面の文字列を一つも開くことなく、電源ボタンを長押しした。
ブンッ、と短い振動を残して、小さな長方形のガラス板はただの黒い塊になる。それを鞄の一番深い場所へと沈めると、自分の人生の厄介な部分をドブ川に捨てたような、後ろ暗い安堵感が指先に残った。
重い鉄扉を開けると、そこは今日も停滞した琥珀色の空間だった。
チクタク、と古い掛け時計の秒針だけが正確なリズムを刻んでいる。
「……ちょうどいいところに来た。手伝って」
部屋のさらに奥、この前は閉ざされていた分厚い黒カーテンの隙間から、声がした。成瀬だ。
誘われるままに隙間を潜り抜けると、そこは外界から完全に隔離された、さらに狭く息苦しい密室だった。
ただ一つ、天井から吊るされた赤い照明だけが、ぼんやりと空間を舐めるように照らしている。母親の胎内のような、生温かく閉ざされた赤い光。
肩が触れ合いそうなほど近い距離。私の数センチ横に、成瀬が立っていた。洗いざらしのリネンシャツから、微かな柔軟剤の匂いと、それに絡みつくような甘い煙草の香りが漂ってくる。
「これを、端から順番に液に浸して」
目の前には、金属のバットがいくつか並べられていた。言われるがまま、私は真っ白な印画紙を、トングでそっと液体の中へと滑らせる。
チャプ、と微かな水音が、赤い密室に響く。
薬品のツンとする酸性の匂いが、数倍の濃さになって鼻腔を満たした。
バットをゆっくりと揺らす。生温かい液体の中で、真っ白だった紙に、少しずつ黒い染みが浮かび上がってくる。それはやがて像を結び、見たこともない海岸線の風景へと変わった。
今の私とは何一つ関係のない、どこかの誰かの、すでに終わった過去の瞬間。
「違う。もっとゆっくり、均等に揺らすんだ」
背後から、不意に声が降ってきた。
ハッとする間もなく、トングを握る私の右手に、成瀬の大きな手が重なる。
ビクリと肩が跳ねた。彼の指先は、氷のように冷たかった。下にある薬品の生温かさと、私の手に重なる成瀬の指の冷たさ。その強烈な温度差に、頭の芯が痺れる。
すぐ耳元で、彼が静かに息を吐く音が聞こえた。赤い光に照らされた成瀬の、長い睫毛と、銀縁眼鏡の冷たいフレーム。写真の縁をなぞる、骨ばった長い指。
視界が、極端に狭まっていく。
就活の合否も、親の期待も、社会の正しさも、この赤い光の中には入ってこられない。ただ、彼の冷たい指先の感触と、水音だけが、世界のすべてだった。
ひとしきり作業を終え、暗室の壁際で息をつく。
沈黙が、重く甘く、空間を満たしていた。
「……私、本当は今日」
ぽつりと、自分の口からこぼれた声は、ひどく掠れていた。
「本当は今日、会社の説明会に行かなきゃいけなかったんです」
言ってしまってから、後悔で唇を噛んだ。軽蔑されるかもしれない。呆れられるかもしれない。
成瀬は何も言わず、ただ胸ポケットから煙草の箱を取り出した。火はつけないまま、一本を唇に咥える。
沈黙が降りた。秒針の音だけが、私たちの間をすり抜けていく。
やがて、彼は咥えていた煙草を指に挟み直し、赤い光の中で私を見下ろした。
「――いいんじゃない。何もしない時間は、罪じゃないよ」
温度のない、凪いだ声だった。
「外の世界が眩しすぎるなら……目が慣れるまで、ここにいればいい」
その言葉は、どんな熱のこもった励ましよりも、私を深く、甘く麻痺させた。
何もしなくていい。逃げてもいい。
彼の言葉の響きが、致死量の猛毒のように血管を巡り、私のなけなしの罪悪感を綺麗に溶かしていくのを感じた。
数時間後、アトリエを出ると、外はまだ薄明るい夕暮れ時だった。
駅へと向かう大通りは、家路を急ぐスーツ姿の大人たちや、スマートフォンを見つめながら歩く学生たちで溢れかえっている。
皆、何かしらの目的に向かって、正しいレールの上を歩いている。
けれど、私の目には、そのすべてがピントの合わないぼやけた背景のようにしか映らなかった。メガホンを通したような街のノイズが、膜を一枚隔てたように遠く聞こえる。
無意識に、自分の右手の指先を鼻に近づけた。
――ツンとする、薬品の匂い。
石鹸で洗っても落ちなかったその匂いは、私と彼だけが共有している、秘密の証のようだった。
私は、改札の鏡に映った自分の顔に向けて、少しだけ誇らしげな、嘘の笑顔を作った。
もう、あの眩しい世界に戻れなくてもいいと、心のどこかで思い始めていた。
鞄の奥底で、短い震えが連続していた。薄暗い階段の踊り場で足を止め、スマートフォンの画面を引きずり出す。
『選考結果のご連絡』
『昨日の面接、どうだった?』
通知欄に並ぶ、無機質な文字列。液晶の放つ刺々しい青白い光が、薄暗がりの中で網膜を灼く。息苦しさがせり上がり、喉の奥がカラカラに乾いた。
私は画面の文字列を一つも開くことなく、電源ボタンを長押しした。
ブンッ、と短い振動を残して、小さな長方形のガラス板はただの黒い塊になる。それを鞄の一番深い場所へと沈めると、自分の人生の厄介な部分をドブ川に捨てたような、後ろ暗い安堵感が指先に残った。
重い鉄扉を開けると、そこは今日も停滞した琥珀色の空間だった。
チクタク、と古い掛け時計の秒針だけが正確なリズムを刻んでいる。
「……ちょうどいいところに来た。手伝って」
部屋のさらに奥、この前は閉ざされていた分厚い黒カーテンの隙間から、声がした。成瀬だ。
誘われるままに隙間を潜り抜けると、そこは外界から完全に隔離された、さらに狭く息苦しい密室だった。
ただ一つ、天井から吊るされた赤い照明だけが、ぼんやりと空間を舐めるように照らしている。母親の胎内のような、生温かく閉ざされた赤い光。
肩が触れ合いそうなほど近い距離。私の数センチ横に、成瀬が立っていた。洗いざらしのリネンシャツから、微かな柔軟剤の匂いと、それに絡みつくような甘い煙草の香りが漂ってくる。
「これを、端から順番に液に浸して」
目の前には、金属のバットがいくつか並べられていた。言われるがまま、私は真っ白な印画紙を、トングでそっと液体の中へと滑らせる。
チャプ、と微かな水音が、赤い密室に響く。
薬品のツンとする酸性の匂いが、数倍の濃さになって鼻腔を満たした。
バットをゆっくりと揺らす。生温かい液体の中で、真っ白だった紙に、少しずつ黒い染みが浮かび上がってくる。それはやがて像を結び、見たこともない海岸線の風景へと変わった。
今の私とは何一つ関係のない、どこかの誰かの、すでに終わった過去の瞬間。
「違う。もっとゆっくり、均等に揺らすんだ」
背後から、不意に声が降ってきた。
ハッとする間もなく、トングを握る私の右手に、成瀬の大きな手が重なる。
ビクリと肩が跳ねた。彼の指先は、氷のように冷たかった。下にある薬品の生温かさと、私の手に重なる成瀬の指の冷たさ。その強烈な温度差に、頭の芯が痺れる。
すぐ耳元で、彼が静かに息を吐く音が聞こえた。赤い光に照らされた成瀬の、長い睫毛と、銀縁眼鏡の冷たいフレーム。写真の縁をなぞる、骨ばった長い指。
視界が、極端に狭まっていく。
就活の合否も、親の期待も、社会の正しさも、この赤い光の中には入ってこられない。ただ、彼の冷たい指先の感触と、水音だけが、世界のすべてだった。
ひとしきり作業を終え、暗室の壁際で息をつく。
沈黙が、重く甘く、空間を満たしていた。
「……私、本当は今日」
ぽつりと、自分の口からこぼれた声は、ひどく掠れていた。
「本当は今日、会社の説明会に行かなきゃいけなかったんです」
言ってしまってから、後悔で唇を噛んだ。軽蔑されるかもしれない。呆れられるかもしれない。
成瀬は何も言わず、ただ胸ポケットから煙草の箱を取り出した。火はつけないまま、一本を唇に咥える。
沈黙が降りた。秒針の音だけが、私たちの間をすり抜けていく。
やがて、彼は咥えていた煙草を指に挟み直し、赤い光の中で私を見下ろした。
「――いいんじゃない。何もしない時間は、罪じゃないよ」
温度のない、凪いだ声だった。
「外の世界が眩しすぎるなら……目が慣れるまで、ここにいればいい」
その言葉は、どんな熱のこもった励ましよりも、私を深く、甘く麻痺させた。
何もしなくていい。逃げてもいい。
彼の言葉の響きが、致死量の猛毒のように血管を巡り、私のなけなしの罪悪感を綺麗に溶かしていくのを感じた。
数時間後、アトリエを出ると、外はまだ薄明るい夕暮れ時だった。
駅へと向かう大通りは、家路を急ぐスーツ姿の大人たちや、スマートフォンを見つめながら歩く学生たちで溢れかえっている。
皆、何かしらの目的に向かって、正しいレールの上を歩いている。
けれど、私の目には、そのすべてがピントの合わないぼやけた背景のようにしか映らなかった。メガホンを通したような街のノイズが、膜を一枚隔てたように遠く聞こえる。
無意識に、自分の右手の指先を鼻に近づけた。
――ツンとする、薬品の匂い。
石鹸で洗っても落ちなかったその匂いは、私と彼だけが共有している、秘密の証のようだった。
私は、改札の鏡に映った自分の顔に向けて、少しだけ誇らしげな、嘘の笑顔を作った。
もう、あの眩しい世界に戻れなくてもいいと、心のどこかで思い始めていた。

