甘い麻酔みたいな恋だった

 大学を卒業し、社会人として働き始めてから、すでに数年の月日が流れていた。
 慌ただしくも充実した、ある平日の夕暮れ。オフィスビルを出た私は、駅へと向かう波のような人混みの中に紛れて歩いていた。
 かつては鉛のように重く、私を地面に引きずり込もうとしているように感じた革のバッグも、今は身体の一部のようにすっかり馴染んでいる。足元のアスファルトばかりを見つめ、何かに怯えるように歩いていた視線は、今はまっすぐに前を行き交う人々の波を捉えていた。
 一日を終えた疲労感は確かに背中にのしかかっている。けれど、今の私にとってその心地よい重さは、自分がちゃんと「社会と繋がっている証」だった。
 首筋を、少し冷たくなった秋の風が撫でていく。街角の看板やビルの窓に、色とりどりのネオンが灯り始めた。
 以前の私なら、鼓膜を破る激しいノイズにしか聞こえなかった街の喧騒。行き交う人々の笑い声、車の走行音、客引きの声。それらはすべて、今を生きる私を活気づけてくれる、色彩豊かなBGMとして耳に届いていた。

 ふいに、帰宅途中に立ち寄った古いアーケード街の入り口で、私の足がピタリと止まった。
 雑踏の空気の層を縫うようにして、「あの匂い」がふわりと鼻先をかすめたのだ。
 バニラのようなひどく甘い煙草と、鼻の奥をツンと刺す古い薬品が混ざったような、停滞した匂い。
 心臓が、トクンと小さく波打った。
 けれど、かつてのように「あそこへ逃げ帰りたい」と震えるようなパニックや、狂おしい依存の渇望は湧いてこない。胸の奥に広がったのは、ずっと会っていない古い親友の噂話を耳にした時のような、遠くて、どこか懐かしい痛みだった。
 私は、すれ違う人波の中に匂いの主を探すことはしなかった。
 ただ一度だけ目を閉じ、その空気を胸の奥深くへと吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。

 脳裏に蘇るのは、カビ臭い階段と、錆びた真鍮のプレートが掛かった重い木の扉。そして、琥珀色の照明の中で煙草をくゆらせる、青白い顔をした彼。
 成瀬さんに冷たく突き放され、あのアトリエから放逐されたあの日、私は世界が終わったかのように泣き叫び、死ぬほど傷ついた。
 けれど、時が経った今なら、確信を持ってそう思える。あの暗闇があったからこそ、私は一番最悪だった時期を、なんとか生き延びることができたのだと。
 あの場所は確かに、私の人生の時間を止め、感覚を麻痺させる猛毒だった。
 でも、あの冷たい「麻酔」がなければ、私は現実の痛みそのものに耐えきれず、完全に焼き切れてこの世界から消え去っていたかもしれない。
『ここは、君の傷を治す場所じゃない』
 彼が私を突き放したのは、私をただの鬱陶しい子供として見捨てたからじゃない。私を、明るい光の下へ帰すための、大人としての彼なりの最後の手向けだったのだ。

 街角のショーウィンドウに目を向ける。
 そこに映っていたのは、もうサイズの合わない就活スーツに身を包んで怯えていた少女ではない。自分の足で立ち、自分の人生を受け止める覚悟を持った、一人の大人の女性だった。
 成瀬さんは今も、あの薄暗いアトリエで、誰にも邪魔されることなく静かに煙草を吸っているだろうか。それとも、かつての私のように傷ついて迷い込んできた別の「迷子」に、一時的な麻酔を打ってあげているのだろうか。
 私はもう、彼の隣を欲しがらない。
 彼と私は、最初から全く違う世界の住人だったのだ。
 ただ、私を一度だけ救ってくれた、あの底知れず孤独な「逃亡者」が、どうか今も彼なりの静寂と穏やかな暗闇の中にありますようにと、私は心の中で一度だけ祈った。

 ショーウィンドウから視線を外し、空を見上げる。
 雲が切れた群青色の夕闇の中に、ひときわ明るく輝く一番星が見えた。
 その時、バッグの中でスマートフォンが短く震えた。画面を見ると、学生時代の友人から『今度の日曜、久しぶりにみんなで飲みに行こうよ!』という陽気なメッセージが届いている。
 私は自然とこぼれた笑顔のまま、『行く! 楽しみにしてるね』と短い返信を打った。

 世界は相変わらず白飛びするほど眩しくて、時々、あまりの痛さに目が眩みそうになる。
 理不尽なことも、傷つくことも、逃げ出したくなる夜も、数え切れないほどある。
 けれど、もう私は、あの甘い匂いのする暗闇に逃げ込む必要はない。
 この痛みを抱えたまま。傷跡の残るこの不格好な足で、私はこの光の中を歩いていく。

 スマートフォンをバッグにしまい、私は大きく息を吸い込んだ。
 一歩、また一歩。
 力強くアスファルトを踏みしめる私の背中を、夜の街の無数の明かりが、静かに祝福するように照らしていた。