甘い麻酔みたいな恋だった

 数週間ぶりの大学は、私の記憶の中にあるものよりも、ずっと静かで穏やかだった。
 教務課の窓口で、親から振り込まれた学費の納付手続きを終える。窓口の職員は、私を咎めることもなく、ただ事務的に「確認しました」と告げただけだった。
 ゼミ室へと向かう廊下を歩きながら、私は恐る恐る顔を上げた。
 窓から差し込む秋の光と、すれ違う学生たちの笑い声。以前の私なら、それらは私を責め立てるレーザー光線であり、耳を塞ぎたくなるような大音量のノイズだった。
 けれど、今は少しだけ違って見えた。
 彼らは、私を攻撃するために笑っているのではない。ただそれぞれの「今」を、懸命に生きているだけなのだ。怯えずにフィルターを外して見れば、太陽の光はただの自然現象であり、私を焼き殺すような牙など持っていなかった。

「あ、結衣!」
 不意に背後から声をかけられ、ビクッと肩が跳ねた。
 振り返ると、そこにいたのは、以前私が冷たく突き放してしまった友人だった。彼女は私を避けるでもなく、怒っている様子もなく、小走りで駆け寄ってきた。
「久しぶりじゃん。体調、もう大丈夫なの?」
「え……あ、うん。ごめんね、ずっと休んじゃって」
「ううん、気にしないで。はい、これ」
 彼女は、持っていたクリアファイルを私に差し出した。中には、私が欠席していた間のゼミのレジュメがきれいにまとめられている。
「範囲のところ、コピーしといたよ。最近顔色悪かったから、心配してたんだからね」
 戸惑う私の手に、彼女はファイルを押し付けた。プリントの端には、見慣れた丸文字の付箋が貼られていた。
『無理しないでね! また落ち着いたらランチ行こ』
 その小さな手書きの文字を見た瞬間、じわっと視界が滲んだ。
 彼女は聖人でもなんでもない。ただの、少しお節介で、普通の優しい同級生だ。でも、その「特別ではない普通さ」が、今の私にはたまらなく沁みた。
 私は一人で勝手に絶望し、社会から消えようとしていた。けれど、彼女たちは私が消えないように、こうして当たり前の日常の側に私を繋ぎ止めようとしてくれていたのだ。
「……ありがとう。本当に、ありがとう」
 震える声で告げると、彼女は「大袈裟だなあ」とあっけらかんと笑った。

 その日の夕方、アパートに帰ると、部屋には母が来ていた。
 テーブルには、実家から持ってきたらしい手作りの惣菜のタッパーや、日用品が山積みになっている。玄関に立つ私を見るなり、母は険しい顔で歩み寄ってきた。
「あんた、どれだけ痩せて……っ」
 また怒られる。そう思って身構えた私の背中を、母のふっくらとした大きな手が、ドンと強く叩いた。そしてそのまま、不器用な手つきで私の背中をさすり始めた。
「本当に、もう……。馬鹿なことばっかりして」
 母の声は、ひどく震えていた。
「いいから、しばらくは親に甘えなさい。お父さんも、電話越しじゃあんなに怒ってたけど、本当は心配で夜も眠れてないんだから」
 その言葉を聞いた瞬間、私の中で張り詰めていた糸が、プツンと音を立てて切れた。
「お母さん……っ、ごめんなさい、ごめんなさい……!」
 私は母の胸に顔を押し付け、子供のように声を上げて泣いた。母の体温は熱く、私を包み込む腕には強い力があった。
 かつての私は、この親からの愛情を「期待という重圧」だと思い込み、逃げ出していた。
 でも違う。これは、何があっても私を見捨てないという「命綱」だったのだ。
 成瀬さんがくれた「甘やかし」には、何の責任も伴っていなかった。だからこそ心地よかったけれど、そこには熱も、未来もなかった。
 今、私を抱きしめてくれているこの重くて不器用な愛情こそが、私を現実世界に繋ぎ止める、本物の体温なのだ。

 泣き疲れて顔を上げると、窓の外は夕暮れに染まっていた。
 白飛びして目に刺さるようだった無機質な光は、今は夕焼けの柔らかなオレンジ色に変わり、私の冷えた肌をじんわりと温めてくれている。
 一人で立ち直らなければならない、なんて強迫観念は、もう捨てよう。
 成瀬さんは、私を誰の手も届かない暗闇に閉じ込めてくれた。それは、誰の助けも借りられない孤独と引き換えの安らぎだった。
 でも、今の私は知っている。
 差し伸べられる手を取ることは、決して負けじゃない。本当の強さとは、自分の弱さを認め、誰かに委ねる勇気を持つことなのだと。

 夜。
 私は、窓から差し込む月明かりを見ながら、部屋の空気を深く吸い込む。もう、現像液の酸っぱい匂いも、甘い煙草の匂いもしない。ただ、母が持ってきてくれた肉じゃがの、生活感のある匂いが微かに漂っているだけだ。
 もう、あの暗がりへ逃げ込むことはないだろう。
 私は今、痛くて、眩しくて、でもひどく温かい世界に生きている。
 周囲の不器用な優しさに感謝しながら、私は明日の朝を待つために、静かに目を閉じた。