甘い麻酔みたいな恋だった

 薄っぺらいカーテンの隙間から、白く暴力的な朝日が容赦なく顔に突き刺さった。
 ゆっくりと重い瞼を開ける。泣き腫らした目は酷く熱を持ち、頭の芯が割れるように痛かった。
 体を起こすと、生活感にまみれた埃っぽい空気が肺に入り込んでくる。ここには、現像液の酸っぱさも、彼が吸うバニラのような煙草の甘い匂いもない。
 麻酔が、完全に切れていた。
 アトリエという唯一の逃避場所を失ったことで、私がこれまで先送りにしてきた「現実」の重圧が、一気に全身にのしかかってきた。家賃、未納の学費、親の怒り、そして、誰からも必要とされていない惨めな自分。
 息を吸うだけで、肺が引き裂かれるように痛い。これが、麻酔なしで直視する現実の激痛なのだ。
 私はよろけながら立ち上がり、ある恐ろしい事実に気づいて血の気を失った。
「……スーツ」
 昨日の朝、私は彼への「愛の証明」だと酔いしれ、すべてをゴミ捨て場に放り投げてしまったのだ。私が社会に戻るための、唯一の命綱を。

 私は寝巻きのまま、裸足にサンダルをつっかけてアパートの階段を転がるように駆け降りた。
 ゴミ捨て場には、まだ回収されていない半透明のポリ袋が山積みになっていた。カラスに荒らされた形跡があり、周囲にはひどい悪臭が漂っている。
「あった……っ」
 息を切らしながらゴミの山を掻き分ける。下敷きになっていた自分の袋を見つけ出し、震える手で乱暴に引きずり出した。
 袋の中には、他のゴミから染み出した生ゴミの汁や、泥水がこびりついていた。私はなりふり構わず袋を破り、中に突っ込まれていた黒いリクルートスーツと、シワだらけになった白いシャツを引っ張り出した。
 泥と謎の汁で汚れたスーツを、私は縋り付くように胸に抱きしめた。
 ――なんて、惨めで滑稽なんだろう。
 私はこれを捨てることで、悲劇のヒロインになったつもりでいたのだ。彼という暗闇に身を投じる自分に酔いしれ、すべてを投げ打つことが美しい愛なのだと勘違いしていた。
 その成れの果てが、ゴミ捨て場で泥まみれのスーツを抱きしめて泣きじゃくる、ただの無様な女の姿だ。
「ああ……っ、うあぁぁ……!」
 ヒロインの面影など微塵もない、醜い嗚咽が朝の住宅街に響いた。私は生ゴミの臭いにまみれながら、自分のしでかしたことの愚かさとみっともなさに、声を出して泣き崩れた。

 部屋に戻り、泥だらけのスーツとシャツを洗濯機に放り込んだ。
 ぐるぐると回る水流を見つめながら、私はスマートフォンを手に取った。画面には、母親からの未読LINEが何件も溜まっている。
 大きく息を吸い込み、発信ボタンを押した。
 数回のコールの後、電話口から母親の安堵と激しい怒りが入り交じった声が鼓膜を打った。
『結衣!? 今まで何してたの! 何度連絡しても出ないし!』
 『大学の通知ってどういうことなの! お父さんもカンカンで……!』
 飛んでくる言葉は、どれもぐうの音も出ない正論だった。かつての私なら、この正論のシャワーに耐えきれず、適当な嘘をついてすぐに電話を切っていただろう。
 けれど、今の私は言い訳を一切しなかった。
「……ごめんなさい。全部、私が悪かった」
 ポロポロと涙をこぼしながら、私は頭を下げ続けた。
 「お金のこと、なんとかするから。……お願い、少しだけ待って」
 母親の怒声は、私の耳と心を容赦なく抉った。痛くて、苦しくて、逃げ出したくなる。
 でも、私はスマートフォンの電源を切らなかった。
『君はまだ若い。ちゃんと痛い思いをして、明るい場所で傷を治しなさい』
 彼が私に突きつけた、残酷で、あまりにも誠実な「大人からの引導」が耳の奥で響いていた。
 この痛みを遮断してはいけない。私は今、自分の足で立ち上がるために、麻酔なしで傷口を縫い合わせているのだから。

 数日後。
 私は大学の教務課へ向かうため、駅前の喧騒の中を歩いていた。
 九月も半ばを過ぎたというのに、太陽の光は容赦なくアスファルトを焼き、周囲の音はメガホンのように耳に響く。
 その時だった。すれ違ったサラリーマンのスーツから、ふいに「あの匂い」が漂ってきた。
 バニラのように甘く、ねっとりとした煙草の匂い。
 ピタリと、私の足が止まった。
 その瞬間、私の脳内を強烈なフラッシュバックが襲った。
 ――アトリエに逃げ帰りたい。
 ――あの冷たい空気の中で、彼に「仕方ないね」と頭を撫でてほしい。
 恐ろしいほどの禁断症状が、全身の毛穴から吹き出す。呼吸が急に浅くなり、視界がチカチカと明滅する。気がつけば、私の足は大学とは逆の、あの商店街の裏路地へと向きかけていた。
 あそこに行けば、痛くない。眩しくない。全部、なかったことにできる。

「……っ」
 私はギリッと奥歯を噛み締め、両手でギュッと自分のスカートを握りしめた。
 震える足に力を込め、その場に踏みとどまる。
 行っちゃダメだ。
 あそこに行けば、私はもう二度と、自分の足で歩けなくなる。傷が腐って、本当に死んでしまう。
 痛い。光が白飛びするほど眩しくて、現実が押し潰されそうに重くて。
 そして何より、もう二度と彼に会えないことが、死ぬほど痛い。
 でも。
 この「痛み」は、私が今、自分の足で立って、ちゃんとここで『生きている』という何よりの証明なのだ。
 痛いから、治さなきゃいけない。眩しいから、前を見なきゃいけない。
 私は幻の甘い匂いを振り切るように、荒い息を吐き出した。汗ばむ手をハンカチで乱暴に拭い、前を向く。
 容赦なく照りつける太陽の下を、私は再び、不格好な歩幅で歩き始めた。