押し返された不自然な姿勢のまま、私はピクリとも動くことができなかった。
さっきまで私を優しく包み込んでいたはずのアトリエの静寂が、今は耳をつんざくような耳障りなノイズに変わっている。チクタク、チクタクという時計の音が、私の心臓を直接針で刺しているようだった。
悲しいとか、悔しいとか、そんな感情すら湧いてこなかった。ただ「事態を理解できない」という極度のパニックが脳の処理能力を超え、瞬きをするたびに大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちていく。
私がこんなに無様に涙を流して震えているというのに、目の前に立つ成瀬は、一切の動揺を見せなかった。微かな哀れみすら浮かべず、ただ冷ややかに佇み、私という滑稽な子供を観察している。
やがて成瀬は、私の肩から完全にその冷たい手を離した。
そして、ゆっくりと踵を返し、カウンターの内側へと戻っていく。
特等席からただの観客席へと突き落とされた私を置き去りにして、彼はいつもと同じようにポケットから煙草を取り出し、ライターで火をつけた。
カチリ、という硬い音が響く。
彼は紫煙を細く吐き出しながら、ひどく静かな、乾いた声で口を開いた。
「……君は、ひどい勘違いをしてるよ」
「勘違い……?」
私の喉から、空気が漏れるような情けない音が鳴った。
「私、勘違いなんか……っ。本気で、ここにいたいって、全部捨てて……!」
「本気で人生を捨てる覚悟をした? ……馬鹿言わないで」
ピシャリと、平坦な声が私のすがりつくような言葉を遮った。
「それはただの甘えだ。君は自分が外の世界で傷つくのが怖くて、僕という都合のいい隠れ蓑に逃げ込んだだけだろ」
「ちが……」
「違わない」
漂ってきた煙草の煙が、私の目と鼻をツンと刺した。いつもは甘く感じていたバニラの香りが、今日だけはひどく冷たく、無機質な匂いに思えた。
核心を突かれ、私は息を呑んだまま声を出せなくなった。
成瀬は銀縁眼鏡の奥の、凍てついた瞳で私を射抜き、一切の同情を交えず、淡々と、私の胸の奥深くに決定的な楔を打ち込んだ。
「ここはね、麻酔と同じなんだよ、結衣ちゃん」
温度のない声が、静かにアトリエに響き渡る。
「外の世界が痛くてたまらない時に、一時的に痛みを忘れて眠るための場所だ。……君の傷を治す場所じゃない」
「……いやっ」
「麻酔を打ち続ければ、痛みは消える。でも、傷口は治らないまま腐って、最後には死ぬんだよ」
成瀬は短く息を吐き、カウンターの上の灰皿に視線を落とした。
「君はまだ若い。ちゃんと痛い思いをして、明るい場所で傷を治しなさい」
その言葉を聞いた瞬間だった。
私にかけられていた心地よい魔法が、音を立てて完全に砕け散ったのは。
鼻腔を満たしていた現像液の匂いが、急に「カビ臭く、停滞した部屋の酸鼻な臭い」として鼻をついた。ロマンチックで特別な空間だと思っていたアンバーの照明は、ただの古ぼけた電球の黄ばんだ光に過ぎない。
魔法が解け、現実の解像度が上がった私の目に映ったのは「深いプールの底」などではない。
ただ社会から逃げ出した大人が、埃を被りながら息を潜めているだけの、みすぼらしくて狭い「箱」だった。
彼にとって、私は「同じ傷を分かち合える特別な女」でもなんでもなかった。ただ、傷ついて泣き叫んでいた子供に同情し、一時的に痛まないように麻酔を打ってくれていただけなのだ。
そして、その麻酔が致死量を超える前に、彼は正しい大人として、私を切り捨てた。
私が命がけで縋り付こうとした共依存という名の究極の愛は、彼の目には、ただの「痛々しい自己陶酔の甘え」としてしか映っていなかったのだ。
あまりにも惨めで、残酷な現実。
自分の輪郭がボロボロと崩れ落ちていくのがわかった。
「……帰りなよ。君の居場所は、ここじゃない」
成瀬が、静かに言った。
決定的な拒絶。
私にはもう、言い訳をすることも、泣き喚く気力すら残っていなかった。全身の骨が抜かれたように重い足を引きずり、私はゆっくりと背を向けた。
アトリエの、重い木の扉に向かって、一歩ずつ歩く。
ドアノブの冷たい真鍮に手をかけた、その時だった。
背中越しに、彼のとどめの一言が響いた。
「二度と、ここには来ないで」
振り返ることは、できなかった。
私は弾かれたように扉を押し開けた。
次の瞬間、私の全身を、容赦のない真昼の太陽が白く、突き刺すように包み込んだ。
眩しすぎる外の光の中に、私はただ一人、突き落とされた。麻酔の切れた身体で、社会という激痛の海へ。
さっきまで私を優しく包み込んでいたはずのアトリエの静寂が、今は耳をつんざくような耳障りなノイズに変わっている。チクタク、チクタクという時計の音が、私の心臓を直接針で刺しているようだった。
悲しいとか、悔しいとか、そんな感情すら湧いてこなかった。ただ「事態を理解できない」という極度のパニックが脳の処理能力を超え、瞬きをするたびに大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちていく。
私がこんなに無様に涙を流して震えているというのに、目の前に立つ成瀬は、一切の動揺を見せなかった。微かな哀れみすら浮かべず、ただ冷ややかに佇み、私という滑稽な子供を観察している。
やがて成瀬は、私の肩から完全にその冷たい手を離した。
そして、ゆっくりと踵を返し、カウンターの内側へと戻っていく。
特等席からただの観客席へと突き落とされた私を置き去りにして、彼はいつもと同じようにポケットから煙草を取り出し、ライターで火をつけた。
カチリ、という硬い音が響く。
彼は紫煙を細く吐き出しながら、ひどく静かな、乾いた声で口を開いた。
「……君は、ひどい勘違いをしてるよ」
「勘違い……?」
私の喉から、空気が漏れるような情けない音が鳴った。
「私、勘違いなんか……っ。本気で、ここにいたいって、全部捨てて……!」
「本気で人生を捨てる覚悟をした? ……馬鹿言わないで」
ピシャリと、平坦な声が私のすがりつくような言葉を遮った。
「それはただの甘えだ。君は自分が外の世界で傷つくのが怖くて、僕という都合のいい隠れ蓑に逃げ込んだだけだろ」
「ちが……」
「違わない」
漂ってきた煙草の煙が、私の目と鼻をツンと刺した。いつもは甘く感じていたバニラの香りが、今日だけはひどく冷たく、無機質な匂いに思えた。
核心を突かれ、私は息を呑んだまま声を出せなくなった。
成瀬は銀縁眼鏡の奥の、凍てついた瞳で私を射抜き、一切の同情を交えず、淡々と、私の胸の奥深くに決定的な楔を打ち込んだ。
「ここはね、麻酔と同じなんだよ、結衣ちゃん」
温度のない声が、静かにアトリエに響き渡る。
「外の世界が痛くてたまらない時に、一時的に痛みを忘れて眠るための場所だ。……君の傷を治す場所じゃない」
「……いやっ」
「麻酔を打ち続ければ、痛みは消える。でも、傷口は治らないまま腐って、最後には死ぬんだよ」
成瀬は短く息を吐き、カウンターの上の灰皿に視線を落とした。
「君はまだ若い。ちゃんと痛い思いをして、明るい場所で傷を治しなさい」
その言葉を聞いた瞬間だった。
私にかけられていた心地よい魔法が、音を立てて完全に砕け散ったのは。
鼻腔を満たしていた現像液の匂いが、急に「カビ臭く、停滞した部屋の酸鼻な臭い」として鼻をついた。ロマンチックで特別な空間だと思っていたアンバーの照明は、ただの古ぼけた電球の黄ばんだ光に過ぎない。
魔法が解け、現実の解像度が上がった私の目に映ったのは「深いプールの底」などではない。
ただ社会から逃げ出した大人が、埃を被りながら息を潜めているだけの、みすぼらしくて狭い「箱」だった。
彼にとって、私は「同じ傷を分かち合える特別な女」でもなんでもなかった。ただ、傷ついて泣き叫んでいた子供に同情し、一時的に痛まないように麻酔を打ってくれていただけなのだ。
そして、その麻酔が致死量を超える前に、彼は正しい大人として、私を切り捨てた。
私が命がけで縋り付こうとした共依存という名の究極の愛は、彼の目には、ただの「痛々しい自己陶酔の甘え」としてしか映っていなかったのだ。
あまりにも惨めで、残酷な現実。
自分の輪郭がボロボロと崩れ落ちていくのがわかった。
「……帰りなよ。君の居場所は、ここじゃない」
成瀬が、静かに言った。
決定的な拒絶。
私にはもう、言い訳をすることも、泣き喚く気力すら残っていなかった。全身の骨が抜かれたように重い足を引きずり、私はゆっくりと背を向けた。
アトリエの、重い木の扉に向かって、一歩ずつ歩く。
ドアノブの冷たい真鍮に手をかけた、その時だった。
背中越しに、彼のとどめの一言が響いた。
「二度と、ここには来ないで」
振り返ることは、できなかった。
私は弾かれたように扉を押し開けた。
次の瞬間、私の全身を、容赦のない真昼の太陽が白く、突き刺すように包み込んだ。
眩しすぎる外の光の中に、私はただ一人、突き落とされた。麻酔の切れた身体で、社会という激痛の海へ。

