チクタク、チクタク。
永遠にも似た沈黙の中で、私は彼の少し開いた薄い唇と、銀縁眼鏡の奥の瞳だけを見つめていた。
彼は何も言わない。「馬鹿なことはやめろ」と叱ることも、「困る」と突き放すこともない。ただ静かに、私の言葉の波紋を受け止めている。
――ああ、やっぱり。
私の脳髄を、痺れるような甘い陶酔が駆け巡った。
この沈黙は、肯定だ。彼もまた、私と同じようにこの暗闇の底で、誰かと息を潜めて生きていくことを望んでいたのだ。
もう後戻りできないという社会的な死への恐怖すらも、今は極上のスパイスとなって私の背中を押す。
私は、カウンターの横を回り込み、彼が立つ内側――決して客が立ち入ることのない、彼だけの世界へと、何の躊躇いもなく足を踏み入れた。
一歩、距離を詰める。
彼の洗いざらしのシャツが微かに擦れる音が、異常なほど鮮明に耳に届いた。
息が、混ざり合う。
私は彼の胸元に顔を近づけ、そこから立ち上る現像液の酸っぱさと、バニラのような甘い煙草の匂いを、肺が張り裂けるほど深く吸い込んだ。
この匂いの中で、私は永遠の眠りにつくのだ。
目を閉じ、熱を持った自分の身体をすべて彼に委ねるように、少しだけ背伸びをした。
ドクン、ドクン、ドクン。
心臓が、肋骨を内側から叩き割るほどの激しい音を立てて脈打っている。全身の血液が沸騰し、皮膚が焼け焦げそうに熱かった。
私の荒い呼吸が、彼の冷たい頬に触れる。
あと数センチ。
これは、恋人同士の甘い口づけなどではない。社会から完全に逃げ出し、彼という「暗闇」の底へ身を投じるための、重く歪んだ契約の儀式。
私の震える唇が、彼の薄い唇に重なろうとした、その瞬間。
――ドン。
不意に、私の両肩に重い圧力がかかった。
「え……」
乱暴ではない。突き飛ばされたわけでもない。
けれど、それは決して抗うことのできない、静かで、強い力だった。
目を開けると、私の視界には成瀬の顔があった。すぐ目の前にある。しかし、私の唇は虚しく空を切っていた。
成瀬の大きな両手が、私の細い両肩をがっちりと掴み、私の身体を押し留めていたのだ。
彼の腕の長さ分。
たったそれだけの距離が、私と彼の間に、越えられない「境界線」として引かれていた。
私がどれだけ熱に浮かされ、全身の体重をかけて寄りかかろうとしても、彼の太い腕は微動だにしない。大人の男性の、圧倒的な骨格と筋力。そして、一切の揺らぎもない理性の壁。
彼にとっては、本気を出すまでもない。私の狂気に満ちた覚悟など、ただこうして腕を伸ばすだけで、いとも簡単に制止できてしまうのだ。
「どうして……っ」
押し返されたままの不自然な姿勢で、私の喉から情けない声が漏れた。
「私、全部捨ててきたのに。もうどこにも、戻らないのに……っ」
すがりつこうとして伸ばした私の両手は、彼のシャツの胸ぐらを手繰り寄せることすらできず、ただ宙を掻いた。
私の肩を掴む彼の青白い手は、ただただ冷たく、重い。
パニックに陥りながら彼を見上げた私は、そこで、息の根を止められるような絶望感に直面した。
彼の瞳だ。
私が「すべてを飲み込んでくれる深いプール」だと信じて疑わなかった、あの暗闇。
しかし、至近距離で見つめたその瞳は、私を迎え入れてなどいなかった。
そこにあったのは、ただの「鏡」だった。
熱病に浮かされ、破滅を愛だと勘違いしている滑稽な子供。私自身の惨めな姿を、ただ冷徹に映し出しているだけの、氷の鏡。
欲情も、同情も、私と一緒に泥沼に沈む覚悟など、微塵も存在していなかった。
彼は最初からずっと、私と同じ水底になどいなかったのだ。安全な岸辺から、泥にまみれて溺れていく私を、ただ静かに観察していただけだった。
「……結衣ちゃん」
成瀬が、静かに私の名前を呼んだ。
そして、私の肩を掴んでいた両手を、ゆっくりと、しかし、しっかりとした動作で離した。
その手が離れた瞬間。
私の身体から、これまで感じていた異常な熱が、一気に奪い去られていった。まるで冷水を浴びせられたように、全身の血の気が引き、歯の根が合わなくなるほどの悪寒が走る。
突き飛ばされたわけじゃない。叩かれたわけでもない。
ただ、彼の腕の長さ分、静かに押し返されただけだ。
それなのに、全身の骨が粉々に砕け散ったように痛かった。痛くて、痛くて、立っていることすらできない。
私は、大学も、就活用のカバンも、未来も、正しい大人になるための切符も、すべてあのゴミ捨て場に置いてきた。
退路を断ち、文字通りすべてを捨てて、彼という暗闇に飛び込んだのだ。
しかし、私が落ちるための暗闇は、最初からどこにも存在しなかった。
帰るべき眩しい場所はもうない。
そして、逃げ込むはずだったこの薄暗いアトリエも、私を拒絶した。
宙吊りになったまま、私はただ震えることしかできない。
足元の床が崩落し、私は音を立てて、本当の「どこでもない場所」へと真っ逆さまに落ちていった。
周囲の琥珀色の空気が、急速に温度を失い、私を窒息させようとしていた。
永遠にも似た沈黙の中で、私は彼の少し開いた薄い唇と、銀縁眼鏡の奥の瞳だけを見つめていた。
彼は何も言わない。「馬鹿なことはやめろ」と叱ることも、「困る」と突き放すこともない。ただ静かに、私の言葉の波紋を受け止めている。
――ああ、やっぱり。
私の脳髄を、痺れるような甘い陶酔が駆け巡った。
この沈黙は、肯定だ。彼もまた、私と同じようにこの暗闇の底で、誰かと息を潜めて生きていくことを望んでいたのだ。
もう後戻りできないという社会的な死への恐怖すらも、今は極上のスパイスとなって私の背中を押す。
私は、カウンターの横を回り込み、彼が立つ内側――決して客が立ち入ることのない、彼だけの世界へと、何の躊躇いもなく足を踏み入れた。
一歩、距離を詰める。
彼の洗いざらしのシャツが微かに擦れる音が、異常なほど鮮明に耳に届いた。
息が、混ざり合う。
私は彼の胸元に顔を近づけ、そこから立ち上る現像液の酸っぱさと、バニラのような甘い煙草の匂いを、肺が張り裂けるほど深く吸い込んだ。
この匂いの中で、私は永遠の眠りにつくのだ。
目を閉じ、熱を持った自分の身体をすべて彼に委ねるように、少しだけ背伸びをした。
ドクン、ドクン、ドクン。
心臓が、肋骨を内側から叩き割るほどの激しい音を立てて脈打っている。全身の血液が沸騰し、皮膚が焼け焦げそうに熱かった。
私の荒い呼吸が、彼の冷たい頬に触れる。
あと数センチ。
これは、恋人同士の甘い口づけなどではない。社会から完全に逃げ出し、彼という「暗闇」の底へ身を投じるための、重く歪んだ契約の儀式。
私の震える唇が、彼の薄い唇に重なろうとした、その瞬間。
――ドン。
不意に、私の両肩に重い圧力がかかった。
「え……」
乱暴ではない。突き飛ばされたわけでもない。
けれど、それは決して抗うことのできない、静かで、強い力だった。
目を開けると、私の視界には成瀬の顔があった。すぐ目の前にある。しかし、私の唇は虚しく空を切っていた。
成瀬の大きな両手が、私の細い両肩をがっちりと掴み、私の身体を押し留めていたのだ。
彼の腕の長さ分。
たったそれだけの距離が、私と彼の間に、越えられない「境界線」として引かれていた。
私がどれだけ熱に浮かされ、全身の体重をかけて寄りかかろうとしても、彼の太い腕は微動だにしない。大人の男性の、圧倒的な骨格と筋力。そして、一切の揺らぎもない理性の壁。
彼にとっては、本気を出すまでもない。私の狂気に満ちた覚悟など、ただこうして腕を伸ばすだけで、いとも簡単に制止できてしまうのだ。
「どうして……っ」
押し返されたままの不自然な姿勢で、私の喉から情けない声が漏れた。
「私、全部捨ててきたのに。もうどこにも、戻らないのに……っ」
すがりつこうとして伸ばした私の両手は、彼のシャツの胸ぐらを手繰り寄せることすらできず、ただ宙を掻いた。
私の肩を掴む彼の青白い手は、ただただ冷たく、重い。
パニックに陥りながら彼を見上げた私は、そこで、息の根を止められるような絶望感に直面した。
彼の瞳だ。
私が「すべてを飲み込んでくれる深いプール」だと信じて疑わなかった、あの暗闇。
しかし、至近距離で見つめたその瞳は、私を迎え入れてなどいなかった。
そこにあったのは、ただの「鏡」だった。
熱病に浮かされ、破滅を愛だと勘違いしている滑稽な子供。私自身の惨めな姿を、ただ冷徹に映し出しているだけの、氷の鏡。
欲情も、同情も、私と一緒に泥沼に沈む覚悟など、微塵も存在していなかった。
彼は最初からずっと、私と同じ水底になどいなかったのだ。安全な岸辺から、泥にまみれて溺れていく私を、ただ静かに観察していただけだった。
「……結衣ちゃん」
成瀬が、静かに私の名前を呼んだ。
そして、私の肩を掴んでいた両手を、ゆっくりと、しかし、しっかりとした動作で離した。
その手が離れた瞬間。
私の身体から、これまで感じていた異常な熱が、一気に奪い去られていった。まるで冷水を浴びせられたように、全身の血の気が引き、歯の根が合わなくなるほどの悪寒が走る。
突き飛ばされたわけじゃない。叩かれたわけでもない。
ただ、彼の腕の長さ分、静かに押し返されただけだ。
それなのに、全身の骨が粉々に砕け散ったように痛かった。痛くて、痛くて、立っていることすらできない。
私は、大学も、就活用のカバンも、未来も、正しい大人になるための切符も、すべてあのゴミ捨て場に置いてきた。
退路を断ち、文字通りすべてを捨てて、彼という暗闇に飛び込んだのだ。
しかし、私が落ちるための暗闇は、最初からどこにも存在しなかった。
帰るべき眩しい場所はもうない。
そして、逃げ込むはずだったこの薄暗いアトリエも、私を拒絶した。
宙吊りになったまま、私はただ震えることしかできない。
足元の床が崩落し、私は音を立てて、本当の「どこでもない場所」へと真っ逆さまに落ちていった。
周囲の琥珀色の空気が、急速に温度を失い、私を窒息させようとしていた。

