雲ひとつない快晴の朝だった。
容赦なく降り注ぐ太陽の光が、アスファルトを白く焼き焦がしている。
私はアパートのゴミ捨て場に立ち、両手に提げた巨大な半透明のポリ袋を、乱暴に放り投げた。
ガサリ、と重い音を立てて積み上げられたゴミの山の上に、私の「未来」が転がる。
袋から透けて見えるのは、何度もクリーニングに出して着崩した黒いリクルートスーツと、襟元の擦り切れた白いシャツ。そして、分厚い大学の指定テキストや、就職活動用の黒いカバンだ。
それは、私が「正しい大人」になるための切符であり、社会という眩しい舞台に立つための衣装だった。
それを今、私は自らの手で廃棄したのだ。
――ああ、これで。もう太陽の下を歩かなくていいんだ。
胸の奥底から、泡立つような解放感が込み上げてきた。
本来なら、すべてを失った絶望で泣き叫ぶべき場面なのだろう。けれど、私の心を満たしていたのは、破滅的な安堵感と、背徳的な甘い陶酔だった。
正しい歩幅で歩けと急かされることも、他人の成功を羨んで胃を痛めることも、もう二度とない。私は自ら、社会的な死を選び取ったのだ。
ゴミ袋の中でシワだらけになった白いシャツを冷ややかに見下ろし、私はくるりと踵を返した。
もう、迷いはなかった。
昼下がりのアトリエは、今日も変わらず琥珀色の静寂に包まれていた。
私は、今までで一番ラフで、色味のない服を着ていた。薄暗いアトリエの壁の色に溶け込むような、くすんだグレーのワンピース。外の世界の光を一切反射しないその服は、今の私の心そのものだった。
錆びた真鍮のプレートが掛かる重い扉を押し開ける。
ひんやりとした空気とともに、現像液の酸っぱい匂いと、甘く重い煙草の匂いが私を包み込んだ。
深く息を吸い込む。
今日の私にとって、この匂いは「一時的な避難所」のものではない。これから永遠に、私が息を潜めて生きていく「自分の部屋」の匂いだ。
絶望のどん底に落ちたはずなのに、私の足取りは奇妙なほど軽く、頬は微熱を帯びたように熱かった。
私はいつも座る革張りのソファには向かわず、まっすぐにカウンターへと歩み寄った。
カウンターの奥では、成瀬がアンバーの照明の下で、古いレンズの埃を払っていた。
彼は私に気づくと、いつも通り「いらっしゃい」とも「こんにちは」とも言わず、ただ静かに視線を向けた。
私は彼を、その冷たく青白い顔を、真っ直ぐに見つめ返した。
「……大学、辞めることにしました」
私の口からこぼれたのは、震えのない、ひどく澄んだ声だった。
成瀬の手元が、ほんの少しだけ止まる。
そのわずかな反応が嬉しくて、私は熱に浮かされたように一気にまくしたてた。
「就活も、やめました。もう、あの眩しい外の世界には戻りません。全部捨ててきました。だから……私を、ここに置いてください」
息が上がる。けれど、心地よかった。
「お給料はいりません。掃除でもなんでもします。ここでずっと、成瀬さんと一緒に……暗いところにいたいです」
言ってしまった。
それは、社会というレールから完全にドロップアウトした敗北者の、惨めな命乞い。
けれど、今の私には、それが彼に対する「究極の愛の告白」に思えていた。
自分の人生も、未来も、すべてを投げ打って彼の暗闇に同化すること。それこそが、同じ傷を持ち、光を恐れる私たちが結びつくための、唯一の正しい形なのだと。
深い沈黙が、アトリエに落ちた。
チクタク、チクタク。
壁掛け時計の秒針の音だけが、不気味に、そしてひどくゆっくりと空間を支配していく。遠くから微かに聞こえる車の走行音が、まるで別世界のエフェクトのように遠のいていく。
成瀬はすぐには答えなかった。
彼は手に持っていたレンズとクロスをカウンターにゆっくりと置き、静かに顔を上げた。
銀縁眼鏡の奥の瞳が、私を射抜く。
――ああ。
私は、その瞳に見入られ、呼吸を忘れた。
どんな感情も反射しない、光をすべて吸い込むような暗い瞳。すべてを飲み込んでくれそうな、底知れない深いプールの底。
私がどんなに汚くても、どんなに壊れていても、この果てしない暗闇なら、すべてを優しく隠してくれる。この瞳の底まで沈んでいくことこそが、私に許された唯一の幸福なのだ。
「私、もうどこにも行かないから」
私は熱に浮かされた表情で、さらに一歩、カウンターへと身を乗り出した。
すべてを捨てた私の覚悟を、彼ならきっと受け入れてくれる。
彼自身もまた、光に灼かれて逃げてきた逃亡者なのだから。同じ水底で生きるパートナーとして、私を歓迎してくれるに決まっている。
私の「社会的な自殺宣言」は、彼にとっても最高の愛情表現のはずだ。
成瀬はしばらくの間、狂気を孕んだ私の目をただじっと見つめ返していた。その沈黙が、彼が私の覚悟の深さに感動している時間だと、私は信じて疑わなかった。
やがて彼は、ふっと短く息を吐き、青白い指先で眼鏡のブリッジを押し上げた。
私は、彼が受け入れてくれる言葉を待つ代わりに、その冷たい指先に触れようと、身を起こした。
この暗闇の底で、私たちは永遠に一つになるのだ。
そう、私は疑いもせず、彼との最後の距離をじりっと詰めた。
容赦なく降り注ぐ太陽の光が、アスファルトを白く焼き焦がしている。
私はアパートのゴミ捨て場に立ち、両手に提げた巨大な半透明のポリ袋を、乱暴に放り投げた。
ガサリ、と重い音を立てて積み上げられたゴミの山の上に、私の「未来」が転がる。
袋から透けて見えるのは、何度もクリーニングに出して着崩した黒いリクルートスーツと、襟元の擦り切れた白いシャツ。そして、分厚い大学の指定テキストや、就職活動用の黒いカバンだ。
それは、私が「正しい大人」になるための切符であり、社会という眩しい舞台に立つための衣装だった。
それを今、私は自らの手で廃棄したのだ。
――ああ、これで。もう太陽の下を歩かなくていいんだ。
胸の奥底から、泡立つような解放感が込み上げてきた。
本来なら、すべてを失った絶望で泣き叫ぶべき場面なのだろう。けれど、私の心を満たしていたのは、破滅的な安堵感と、背徳的な甘い陶酔だった。
正しい歩幅で歩けと急かされることも、他人の成功を羨んで胃を痛めることも、もう二度とない。私は自ら、社会的な死を選び取ったのだ。
ゴミ袋の中でシワだらけになった白いシャツを冷ややかに見下ろし、私はくるりと踵を返した。
もう、迷いはなかった。
昼下がりのアトリエは、今日も変わらず琥珀色の静寂に包まれていた。
私は、今までで一番ラフで、色味のない服を着ていた。薄暗いアトリエの壁の色に溶け込むような、くすんだグレーのワンピース。外の世界の光を一切反射しないその服は、今の私の心そのものだった。
錆びた真鍮のプレートが掛かる重い扉を押し開ける。
ひんやりとした空気とともに、現像液の酸っぱい匂いと、甘く重い煙草の匂いが私を包み込んだ。
深く息を吸い込む。
今日の私にとって、この匂いは「一時的な避難所」のものではない。これから永遠に、私が息を潜めて生きていく「自分の部屋」の匂いだ。
絶望のどん底に落ちたはずなのに、私の足取りは奇妙なほど軽く、頬は微熱を帯びたように熱かった。
私はいつも座る革張りのソファには向かわず、まっすぐにカウンターへと歩み寄った。
カウンターの奥では、成瀬がアンバーの照明の下で、古いレンズの埃を払っていた。
彼は私に気づくと、いつも通り「いらっしゃい」とも「こんにちは」とも言わず、ただ静かに視線を向けた。
私は彼を、その冷たく青白い顔を、真っ直ぐに見つめ返した。
「……大学、辞めることにしました」
私の口からこぼれたのは、震えのない、ひどく澄んだ声だった。
成瀬の手元が、ほんの少しだけ止まる。
そのわずかな反応が嬉しくて、私は熱に浮かされたように一気にまくしたてた。
「就活も、やめました。もう、あの眩しい外の世界には戻りません。全部捨ててきました。だから……私を、ここに置いてください」
息が上がる。けれど、心地よかった。
「お給料はいりません。掃除でもなんでもします。ここでずっと、成瀬さんと一緒に……暗いところにいたいです」
言ってしまった。
それは、社会というレールから完全にドロップアウトした敗北者の、惨めな命乞い。
けれど、今の私には、それが彼に対する「究極の愛の告白」に思えていた。
自分の人生も、未来も、すべてを投げ打って彼の暗闇に同化すること。それこそが、同じ傷を持ち、光を恐れる私たちが結びつくための、唯一の正しい形なのだと。
深い沈黙が、アトリエに落ちた。
チクタク、チクタク。
壁掛け時計の秒針の音だけが、不気味に、そしてひどくゆっくりと空間を支配していく。遠くから微かに聞こえる車の走行音が、まるで別世界のエフェクトのように遠のいていく。
成瀬はすぐには答えなかった。
彼は手に持っていたレンズとクロスをカウンターにゆっくりと置き、静かに顔を上げた。
銀縁眼鏡の奥の瞳が、私を射抜く。
――ああ。
私は、その瞳に見入られ、呼吸を忘れた。
どんな感情も反射しない、光をすべて吸い込むような暗い瞳。すべてを飲み込んでくれそうな、底知れない深いプールの底。
私がどんなに汚くても、どんなに壊れていても、この果てしない暗闇なら、すべてを優しく隠してくれる。この瞳の底まで沈んでいくことこそが、私に許された唯一の幸福なのだ。
「私、もうどこにも行かないから」
私は熱に浮かされた表情で、さらに一歩、カウンターへと身を乗り出した。
すべてを捨てた私の覚悟を、彼ならきっと受け入れてくれる。
彼自身もまた、光に灼かれて逃げてきた逃亡者なのだから。同じ水底で生きるパートナーとして、私を歓迎してくれるに決まっている。
私の「社会的な自殺宣言」は、彼にとっても最高の愛情表現のはずだ。
成瀬はしばらくの間、狂気を孕んだ私の目をただじっと見つめ返していた。その沈黙が、彼が私の覚悟の深さに感動している時間だと、私は信じて疑わなかった。
やがて彼は、ふっと短く息を吐き、青白い指先で眼鏡のブリッジを押し上げた。
私は、彼が受け入れてくれる言葉を待つ代わりに、その冷たい指先に触れようと、身を起こした。
この暗闇の底で、私たちは永遠に一つになるのだ。
そう、私は疑いもせず、彼との最後の距離をじりっと詰めた。

