夕暮れのオフィス街を歩いていた時だった。すれ違った見知らぬ男の背中から、ふと、風に乗ってその匂いがした。
甘いメンソールの煙草に、酸鼻な薬品が混ざったような、深く澱んだ匂い。
アスファルトを叩いていた私のパンプスの音が、ピタリと止まる。呼吸の仕方を忘れたように、喉の奥がヒュッと鳴った。
胸の奥に深く刺さったままの古い棘が、鈍い熱を持って疼き出す。今の私は、アイロンの効いたブラウスを着て、自分の稼いだ金で家賃を払い、他人の前でそつなく笑える「ちゃんとした大人」の輪郭を保っているというのに。
夕陽の朱色に染まるビル群を見上げながら、私は小さく息を吐いた。
――あの場所は、私を救ってくれたんじゃない。ただ、上手に眠らせてくれただけだったんだ。それはまるで。
麻酔みたいな、恋だった。
〇
容赦のない真夏の太陽が、視界のすべてを白く焼き尽くしていた。
手元のスマートフォンの液晶画面に踊る、『誠に残念ながら』から始まる定型文。何度目かの不合格通知。画面の反射が目に突き刺さり、私は足元の歪んだ自分の影へと視線を落とした。
リクルートスーツの背中に、じっとりと冷や汗を含んだブラウスがへばりついている。息を吸い込むと、熱を帯びて焦げたようなアスファルトの匂いと、都市の澱んだ排気ガスが肺を焼いた。
行き交う人々の革靴の音。誰かの甲高い笑い声。遠くを走る電車の金属音。それらすべての生活音が、メガホンで増幅されたノイズのように私の鼓膜を容赦なく殴りつける。
空は白飛びしていて、青さすら感じられない。周りの学生たちは皆、前を向いて歩幅を揃え、光の中を躊躇いなく進んでいく。私だけが、重い泥の底に両足を絡め取られ、ただ無様に息を乱している。
世界が明るすぎる。正しすぎる。
眩暈がした。この暴力的な光の雨から逃れなければ、文字通り自分が溶けて消えてしまう。そう本能が警鐘を鳴らしていた。
気付けば、私は大通りの喧騒から転げ落ちるように、薄暗い路地裏へと足を踏み入れていた。
ビルの隙間に生じた、日陰の澱んだ匂い。苔と湿気に覆われた壁を伝いながら歩を進めると、蔦の絡まった古い雑居ビルの入り口に辿り着いた。錆びついた真鍮のプレートに、『アトリエ成瀬』という文字が辛うじて読み取れる。
吸い寄せられるように、ひんやりとしたコンクリートの階段に足を掛けた。カビと埃の混ざった古い空気が鼻腔を撫でる。一段、また一段と上るたび、背後から追ってきていた蝉の鳴き声が、遠い異国の出来事のように薄れていった。
重い鉄の扉を押し開ける。
途端に、外の激しいノイズが遮断された。
琥珀色の間接照明が、部屋の輪郭を曖昧に溶かしている。壁一面に並ぶ鈍色の古いカメラ。埃の舞う軌跡すら見えるほどに、ここは時間が停滞していた。
そして、鼻を突く強烈な匂い。現像液の放つ、酸っぱく鼻の奥をツンと刺す薬品の匂いと、それに絡みつくような甘い煙草の香り。
「……いらっしゃい」
部屋の奥、暗室の赤いランプに照らされたカウンターの向こうで、声がした。
銀縁眼鏡をかけた細身の男が、手元の小さな歯車から目を離さずに立っていた。皺の寄った白いシャツ。感情の起伏を一切感じさせない、ひどく凪いだ声色。
私が泣きじゃくるように息を乱し、泥のような就活スーツを引きずって立ち尽くしていても、男は顔を上げなかった。ただ、精密な金属部品を弄るその細い指先だけが、微かな音を立てて動いている。
「何があった」とも、「どうした」とも、彼は聞かなかった。
男は静かに手元の作業を止めると、カウンターの下からガラスのコップを取り出した。
カラン。
氷がグラスの壁面を叩く、透明で硬い音。その小さな音が、静寂のアトリエに響き渡る。
「……外、暑かったでしょ」
ただそれだけを言って、彼は琥珀色の麦茶が満たされたグラスを、私の目の前に滑らせた。
私は震える指でグラスに触れる。結露した水滴の冷たさが、火照った指先からゆっくりと伝わってくる。男――成瀬が煙草を吸い込む微かな衣擦れの音と、静かな吐息。
奇妙だった。不快なはずの酸鼻な薬品の匂いが、肺の奥底に届くたび、早鐘のように打っていた私の心拍数をゆっくりと鎮めていく。
外の光に焼き切られそうになっていた神経が、琥珀色の空気に包まれて、じんわりと麻痺していくのがわかった。
「……また、来てもいいですか」
干からびた喉から、掠れた声がこぼれ落ちる。
成瀬は、眼鏡の奥の温度のない瞳で私を数秒だけ見据え、ふいと視線をカメラの部品へと戻した。
「……好きにすれば」
その声には、同情も、優しさも、何の熱も含まれていなかった。ただの無関心。けれど、今の私にとってはその何も無い冷たさこそが、何よりも代えがたい救いだった。
外の扉の向こうでは、まだ太陽が世界を白く焼き尽くしているはずだ。
それでも、私はグラスの水滴を指でなぞりながら、深く息を吸い込んだ。肺を満たす現像液と煙草の甘い匂い。
明日から頑張るための休息じゃない。頑張ることをやめるための、心地よい眠りだった。
私は、この暗闇の中で目を閉じることを選んだ。
甘いメンソールの煙草に、酸鼻な薬品が混ざったような、深く澱んだ匂い。
アスファルトを叩いていた私のパンプスの音が、ピタリと止まる。呼吸の仕方を忘れたように、喉の奥がヒュッと鳴った。
胸の奥に深く刺さったままの古い棘が、鈍い熱を持って疼き出す。今の私は、アイロンの効いたブラウスを着て、自分の稼いだ金で家賃を払い、他人の前でそつなく笑える「ちゃんとした大人」の輪郭を保っているというのに。
夕陽の朱色に染まるビル群を見上げながら、私は小さく息を吐いた。
――あの場所は、私を救ってくれたんじゃない。ただ、上手に眠らせてくれただけだったんだ。それはまるで。
麻酔みたいな、恋だった。
〇
容赦のない真夏の太陽が、視界のすべてを白く焼き尽くしていた。
手元のスマートフォンの液晶画面に踊る、『誠に残念ながら』から始まる定型文。何度目かの不合格通知。画面の反射が目に突き刺さり、私は足元の歪んだ自分の影へと視線を落とした。
リクルートスーツの背中に、じっとりと冷や汗を含んだブラウスがへばりついている。息を吸い込むと、熱を帯びて焦げたようなアスファルトの匂いと、都市の澱んだ排気ガスが肺を焼いた。
行き交う人々の革靴の音。誰かの甲高い笑い声。遠くを走る電車の金属音。それらすべての生活音が、メガホンで増幅されたノイズのように私の鼓膜を容赦なく殴りつける。
空は白飛びしていて、青さすら感じられない。周りの学生たちは皆、前を向いて歩幅を揃え、光の中を躊躇いなく進んでいく。私だけが、重い泥の底に両足を絡め取られ、ただ無様に息を乱している。
世界が明るすぎる。正しすぎる。
眩暈がした。この暴力的な光の雨から逃れなければ、文字通り自分が溶けて消えてしまう。そう本能が警鐘を鳴らしていた。
気付けば、私は大通りの喧騒から転げ落ちるように、薄暗い路地裏へと足を踏み入れていた。
ビルの隙間に生じた、日陰の澱んだ匂い。苔と湿気に覆われた壁を伝いながら歩を進めると、蔦の絡まった古い雑居ビルの入り口に辿り着いた。錆びついた真鍮のプレートに、『アトリエ成瀬』という文字が辛うじて読み取れる。
吸い寄せられるように、ひんやりとしたコンクリートの階段に足を掛けた。カビと埃の混ざった古い空気が鼻腔を撫でる。一段、また一段と上るたび、背後から追ってきていた蝉の鳴き声が、遠い異国の出来事のように薄れていった。
重い鉄の扉を押し開ける。
途端に、外の激しいノイズが遮断された。
琥珀色の間接照明が、部屋の輪郭を曖昧に溶かしている。壁一面に並ぶ鈍色の古いカメラ。埃の舞う軌跡すら見えるほどに、ここは時間が停滞していた。
そして、鼻を突く強烈な匂い。現像液の放つ、酸っぱく鼻の奥をツンと刺す薬品の匂いと、それに絡みつくような甘い煙草の香り。
「……いらっしゃい」
部屋の奥、暗室の赤いランプに照らされたカウンターの向こうで、声がした。
銀縁眼鏡をかけた細身の男が、手元の小さな歯車から目を離さずに立っていた。皺の寄った白いシャツ。感情の起伏を一切感じさせない、ひどく凪いだ声色。
私が泣きじゃくるように息を乱し、泥のような就活スーツを引きずって立ち尽くしていても、男は顔を上げなかった。ただ、精密な金属部品を弄るその細い指先だけが、微かな音を立てて動いている。
「何があった」とも、「どうした」とも、彼は聞かなかった。
男は静かに手元の作業を止めると、カウンターの下からガラスのコップを取り出した。
カラン。
氷がグラスの壁面を叩く、透明で硬い音。その小さな音が、静寂のアトリエに響き渡る。
「……外、暑かったでしょ」
ただそれだけを言って、彼は琥珀色の麦茶が満たされたグラスを、私の目の前に滑らせた。
私は震える指でグラスに触れる。結露した水滴の冷たさが、火照った指先からゆっくりと伝わってくる。男――成瀬が煙草を吸い込む微かな衣擦れの音と、静かな吐息。
奇妙だった。不快なはずの酸鼻な薬品の匂いが、肺の奥底に届くたび、早鐘のように打っていた私の心拍数をゆっくりと鎮めていく。
外の光に焼き切られそうになっていた神経が、琥珀色の空気に包まれて、じんわりと麻痺していくのがわかった。
「……また、来てもいいですか」
干からびた喉から、掠れた声がこぼれ落ちる。
成瀬は、眼鏡の奥の温度のない瞳で私を数秒だけ見据え、ふいと視線をカメラの部品へと戻した。
「……好きにすれば」
その声には、同情も、優しさも、何の熱も含まれていなかった。ただの無関心。けれど、今の私にとってはその何も無い冷たさこそが、何よりも代えがたい救いだった。
外の扉の向こうでは、まだ太陽が世界を白く焼き尽くしているはずだ。
それでも、私はグラスの水滴を指でなぞりながら、深く息を吸い込んだ。肺を満たす現像液と煙草の甘い匂い。
明日から頑張るための休息じゃない。頑張ることをやめるための、心地よい眠りだった。
私は、この暗闇の中で目を閉じることを選んだ。

