夏色フラグメント

 日差しは、夏の成分をまだ潤沢に残しているかのように眩しかった。
 十月初めの水曜日、渋谷で地下鉄を降りた僕は、ホームの人混みを抜け、いくつかの階段を駆け上がり、地上へ出た瞬間その光を浴びたのだ。そこには「残暑」を感じさせるような不快さは無く、むしろ、しばらく留まっていたいと思える心地よさがあった。
 けれど、今はそれどころではない。
 二時からの打ち合わせまであと五分足らずだ。歩いて十五分はかかる編集スタジオへ急いで向かわないといけない。
 走りながらスマホの画面に目をやると、何件かの電話の着信履歴に気づいた。メールも一件届いている。どれも今から会うプロデューサーからだった。
『松田さん、スミマセン。監督の前の打ち合わせが押してるみたいで、四時からにしてもらってよいでしょうか──』
 僕は拍子抜けしながら立ち止まり、『了解です』と返信した。広告代理店で十年もCMプランナーをしていると、急な予定変更には慣れ切っていて、腹を立てることもなかった。 
 とはいえ、空いた時間をどこかで潰さなければならない。
 近場のスターバックスで絵コンテでも描くことにした僕は、青信号になったスクランブル交差点をとぼとぼと歩き出した。
 駅周辺の店はどこも混んでいて、やり過ごしているうちに、宮下パークの屋上にあるスタバーに辿り着いた。こちらも店内は一杯で、仕方なく僕はカフェラテをテイクアウトして、屋上公園の片隅にあるベンチに座った。テーブルが無くとも膝の上で絵コンテは描ける。企画の質はともかく、十年の間に電車の中でも絵コンテを量産する技だけは身についている(端から見たら「売れない漫画家さん」なのかもしれないけれど)。
 カフェラテのカップをベンチの傍らに置き、鞄からA4サイズのクリアファイルを取り出す。一週間後に競合プレゼンを控えている飲料メーカーのCMコンペのオリエンテーションシートだ。ファイルの中には既に絵コンテにした企画案も数枚入っている。実際にクライアントにプレゼンするのは5案程度だけれど、その5案を決めるために少なくと50案は考えなければならない。今、同時並行で動いている企画案件は、この飲料メーカーの他に、保険会社、化粧品メーカー、通信会社、薬品会社などのテレビCMがあった。今日の二時間遅れで始まる打ち合わせは、先日企画が決まったばかりのお菓子メーカーのCMで、自分が描いた企画コンテの意図などを制作会社のプロデューサーやディレクターに説明する場だった。これら以外にも、既に撮影を終え、編集作業に入ってる案件がいくつかあり、僕の脳内は、多種多様な業界の商品やサービスの情報と、思いつきのようなアイディアが四六時中駆け巡っている状態だった。おそらくこの業界で働くCMプランナーの多くは似た者同士で、寝ている間も企画を考え、朝起きたときに夢の中で浮かんだ素晴らしいアイデアに出会えることを願い事ながら寝落ちするのではないか、と僕は常々思っていた。

 そんな野戦病院みたいな頭の中で、いつもとは違う何かが微かにカタカタと動いている気配があった。それは僕が地上に出て日差しを浴び、この屋上公園のベンチに座るまでの間ずっと続いていたような気がした。
 周囲を見渡すと、一組の高校生のカップルが、いつの間にか向かい側の石段に並んで座っているのに気づいた。二人とも、静かにお揃いのカバーの本を読んでいる。
 その様子を見ているうちに、先ほどからカタついていた何かが、僕の頭の中で「カタン」と大きく揺れ動いた。

 
         ◇


「頭の中には記憶の引き出しみたいなものが幾つもあると思うんだけど……」
 台本の読み合わせをしている最中に、藤原奈央が唐突に、台本にないセリフをしゃべりだした。
「え、それアドリブ?」
 僕は台本から目を離し、彼女を見る。
「違うよ松田君。セリフじゃなくて、ふと思ったの。それってどんな感じなのかなって」
「どんな感じって?」
「たとえば洋服ダンスの引き出しみたいな感じなのか、勉強机の引き出しみたいな感じなのか、それとも銀行の貸金庫みたいな感じなのか……」
「貸金庫は見たことないな」
 とりあえず僕は会話に付き合った。
「私、お婆ちゃんに連れてってもらったことがあるの。金属製だけどすごく薄っぺらい引き出し。たぶん国語辞書とかがギリギリ入るか入らないくらい」
「この台本なら何冊か入る?」
 僕は紐で閉じられたA4サイズの手製の台本を手のひらに乗せた。表紙には「三年F組 西山祭参加作品『風の通り道のある教室で』」と書かれている。
「うーん。二冊でいっぱいかな。佐々木君の書く台本分厚すぎるんだよね」
 藤原奈央が人差し指を軸にして台本を回している。
 佐々木は僕らと同じF組のクラスメイトで学年で一、二を争う秀才だ。西山高校では毎年九月初めに文化祭が行われ、三年生は自主映画を制作することになっていた。準備は四月のクラス替えと同時に始まり、他薦多数で監督兼脚本担当に選ばれた佐々木は、最初こそ難色を示していたが、引き受けるからには半端なモノは作れないとばかりに制作に没頭していった。もともと芸術の世界への興味と才能も持ち合わせていた彼は、つまりは秀才であると同時にダヴィンチみたいな天才と言えた。そして天才ゆえにその思考は凡人には理解しがたく、必然的に凡人に解説する台本のト書きは事細かく、一見すると台本というより小説だった。
「おまけに、しょっちゅう書き直すし……」
 藤原奈央が台本をぱらぱらとめくり、ぼやく。
 確かに七月になった今の時点でも、佐々木の中で物語は確定していないようだった。おかげで、恋人同士という設定で主要な登場人物になっている藤原奈央と僕は、台本が変更される度に、ふたりで屋上に来ては読み合わせをするということを繰り返していた。

「それで話は戻るけど、松田君の記憶の引き出しはどんな感じ?」
「どんなって、あまり引き出しみたいなイメージで考えたことないけど……」
「そうなんだ。私だけか。そんなふうに思っているの」
 藤原奈央は少し寂しそうな顔をした。
「あ、でも、無印の半透明のケースみたいな引き出しが頭の中に広がっているのは、何か充実した感じがあっていいかも」
「そう思う?松田君も」
 ショートヘアの藤原奈央の顔がぱっと明るくなる。
「じゃあ、今日の読み合わせの記憶はどの辺の引き出しにしまっておく?」
「うーん、下から二番目くらいかな」
「なーんだ、松田君、私のこと嫌いなんだ」
 藤原奈央がけらけらと笑う。
 僕は、ふと思う。
 今の二人のやり取りが台本にもあったらな、と。
     

         ◇


 そもそも、なぜ佐々木は僕を彼氏役に選んだのだろう。
 藤原奈央が主役であることには全く異論がない。実際、彼女はどこかの芸能事務所にスカウトされてもよいくらい華があったし、性格も朗らかで、クラスの人気者だった。けれど僕の方は彼女みたいなオーラは微塵も無く、(従ってそうする必要などないのだが)自分からもクラスメイトから距離をとって目立たぬようにしていた。
 そうするのには理由があった。子供の頃から、僕はどこかこの世界に「居心地の悪さ」のようなものを感じていて、別の世界から間違って迷い込んだ人以外の何かが、人の姿を借りているみたいな気分で生きていたのだ。そう思い込んでしまった原因は、よくわからない。愛情表現に乏しい、さばさばとした両親の元で育ったせいかもしれないし、ネットなどで見聞きした何かの「お話」に感化されただけなのかもしれない。あるいは、自分に限らず、大なり小なりこの年頃には有りがちな感覚なのかもしれない。ともかく何であれ、そのせいで僕は学校でもどこか浮いていて、「友達」と言える存在はほとんどいなかった。
 佐々木とは二年の時から同じクラスだったけれれど、会話らしい会話をした記憶がない。
 六月の中頃、放課後の教室で「この役をお願いしたいんだけれど」と台本を渡されたとき、さすがに「何で僕?」と尋ねた。すると佐々木は「松田君が一番合ってると思ったから。よろしくね!」とだけ言って教室を出て行った。僕は断るタイミングもなく彼氏役に抜擢されてしまったのだ。
 友達さえまともに作れないでいた僕は、当然のごとく付き合っている彼女などいなかった。バレンタインデーに告白してくれた人はこれまでに何人かいたけれど、僕自身に恋愛感情らしきものが芽生えることは一度もなかった。そして、それは彼氏役を演じることになった藤原奈央に対しても同じはずだった──。


         ◇

 
 最初に佐々木から渡された台本に書かれていたのは、ミステリー研究会に所属する高校生男女のコンビが、日常の小さな謎を解決していくラブコメ風の物語だった。探偵役が藤原奈央、その助手役が僕。いくつかの謎を解き明かすうちに、いつの間にか二人は付き合うようになるのだ。
 謎解きのトリックはよく練られていて、改めて佐々木は天才だなと僕は思った。でも佐々木は恋愛要素も疎かにしていなくて、台本には、女子高生探偵の恋心がきめ細かく綴られていた。
 そんな台本を何度も読んでいるうちに、僕は少しずつ、自分以外の誰かの感情というものに興味を持ちはじめた。そして「自分以外の誰かへ向けた自分自身の感情」を意識するようになった。そうすることで、ずっとこの世界を取り巻いていた、例の違和感さえも少しずつ薄れていくのがわかった。
 それはきっと、映画の役を離れ、初めて僕が抱いた、「恋愛感情」に違いなかった。
 彼女と屋上で台本の読み合わせをする日々は、夏の日差しを浴びてキラキラと輝いていた──。


         ◇


 「佐々木君って、誰か付き合っている人とかいるのかな」
 夏休みに入ったばかりの頃、いつもの屋上で、藤原さんがさらりと僕に尋ねてきた。
「どうだろう……」
 僕は台本に視線を残したまま答えた。
「きっと、いるよね、彼女。佐々木君、結構カッコイイし」
 そう言って藤原さんは天を仰いだ。真夏の空に怪獣みたいな真っ白な入道雲がもこもこと湧き上がっている。
 頭の良さばかりが目立っていたから、あまり考えたことがなかったけれど、確かに佐々木は韓流スターみたいで、見た目も十二分に良かった。もし監督じゃなかったら、藤原さんの相手役は僕なんかよりよっぽど佐々木の方がお似合いだった。
「でも、二年の時から同じクラスだけれど、彼女っぽい子といるのは見たことないよ」
 僕は自分の知っている範囲で彼女に事実を伝える。
「そうなんだ……」
 藤原さんの表情は、逆光に包まれていてよくわからない。でも、いつもより抑えたその口調から、僕は彼女の感情の「揺れ」を察知してしまったような気がした。そして、その揺れの正体が、自分にとって好ましくないものであることも悟らざるを得なかった。


         ◇


 八月になり、ようやく本格的な撮影が始まることになった。だが先月末に、突然、佐々木によって書き直された台本は、元の物語から大きく改稿されていた。ラブコメの要素は一切なくなり、僕と藤原さんは、犯罪加害者の息子と被害者の娘という役回りで、過酷な宿命の中、それぞれがどう立ち振る舞うかが描かれた重厚な社会派ドラマに変貌を遂げていた。まったくの別物と言ってもよい内容に、クラスメイトらは混乱し、議論は紛糾した。けれども文化祭まで既に一ヶ月を切っていて、作品の全容を把握する佐々木の指示通りに進めるしかなかった。
 
「たぶん、自分の納得出来るモノを追求していくうちに、どんどん変わっていっちゃったんだよ」
 藤原さんは、佐々木の横暴にも理解を示した。彼女は、改稿された物語の中でも、恋人の父親が自分の父親を殺した犯人だと知った後、離れていこうとする恋人を引き留め、理解し、信じ、共に生きることを選択する。
 僕は、そんな藤原さんの素と役の両方に秘めた「想い」の強さに心を傷め、一方で同じ歳でありながら、自分とは次元の違う問題意識をこの世界に持ち合わせている佐々木との、精神的な格差に打ちのめされていた。
 ともかく僕は、与えられた役回りだけは果たすべく、ふらふらになりながらロケ現場に向かい、佐々木の言うとおりに加害者の息子を演じ続けたのだ。


         ◇


『風のない世界に生まれて』というタイトルに生まれ変わった三年F組の映像作品は、どうにか完成に漕ぎつけ、九月最初の土曜日に、無事、西山祭での上映を終えた。
 反応は今ひとつだった。他のクラスがわかりやすいエンタメ作品を上映していく中で、F組の映画の題材があまりにも重すぎて、難解だった。
 批判の声は当然のごとく、監督を務めた佐々木に集中した。本人も作品の出来に納得のいっていない部分が多々あったようで、週明けからは、体調不良を理由に学校を休むようになった。

 そんな中、作品への評価とは別に、校内では佐々木に関してある噂が広まり始めていた。
 それは彼が同性愛者だというものだ。情報の出所は定かではないが、大方、映画制作の際に揉めたクラスメイトの誰かが流しているのではないかと僕は勘ぐった。噂の根拠としているのは、佐々木があれほどのイケメンにもかかわらず、彼女らしき影がまったく無く、女の子と二人きりでいる所さえ見たことがないというものだった。それに関しては、僕も別の意味で以前藤原さんに伝えたことがあり、否定はできなかった。けれども、だからといって、彼を同性愛者だと決めつけるのは乱暴すぎると思った。
 ただ、そう思いつつも事実と仮説が合わさると、その可能性に思いを巡らせることは止められない。 
 仮に、もしそうであったとしても、それがどうしたというのだ。別に何も問題はないじゃないか。
 と、そう考えた矢先に思い至ったのは、藤原さんのことだった。
 彼女に限っていえば、この噂の真偽は大問題に違いなかった。 
 
 
         ◇
  

 九月の中旬を過ぎても、佐々木が学校に現れる兆しはなかった。西山祭が終わると、三年生は徐々に大学受験モードに切り替わり、佐々木の噂の件も、有耶無耶のまま立ち消えになりつつあった。
 けれども、僕はまだその噂にひっかかっていた。それは藤原さんに関わる問題であり、突き詰めれば、いまだ彼女への想いを断ち切れないでいる自分自身に関わる問題だった。
 僕は思い切って藤原さんに「佐々木の見舞いに行かないか」と提案してみた。行ってどうなるものか、まるでわからなかったけれど、今の宙ぶらりんの状況が続くのも辛かった。
 けれども、予期せぬ言葉が藤原さんから返ってきた。
「私、行ってみたよ。佐々木君のお家まで。お見舞い。でも、会うの断られちゃったの」
「そうなんだ……」
 僕は「どうしてだろう」とは彼女に言えなかった。それ以上このやり取りを続けるのは、彼女を苦しめるだけだと思った。


         ◇

 
 数日後、授業が終わると、僕は意を決して、一人で佐々木の見舞いに向かった。断られるのは覚悟の上だった。むしろ断られた方がほっとして、心の整理がつくかもしれないとも思った。
 私鉄沿線の高級住宅街で知られる駅から十五分ほど歩いた所に佐々木の家はあった。天才に相応しい洋風の豪邸だった。
 玄関のインターホンを押すと、何秒かの沈黙の後、意外にも佐々木本人が出た。
「あ、松田です。えーと、お見舞いというか……」
 僕があたふたしていると「どうぞ」と抑揚のない声が聞こえ、白い鉄製の門扉が自動で開いた。中に入り玄関扉の前まで続く石段を上がると、ジャージ姿の佐々木が現れた。少し顔が痩せたように見えたが、立ち姿はしゃんとしていて、動作もスムーズだった。
 広々としたダイニングには八人掛けのテーブルとキッチンがあり、その向こうにさらに広々としたリビングが続き、巨大なソファが置かれていた。
「どこでも座っていいよ」
 と言って佐々木は、キッチンでお湯を沸かし始めた。僕は恐る恐る食卓の隅っこの椅子に座った。
「一人?」
「うん、親は今、出掛けてる」
 佐々木は答えながら、ガラス製のポットとカップを運んできた。慣れた手つきでポットの中の紅茶らしきものをカップに注ぐと、「どうぞ」と言って僕の前に置いた。
「ありがとう」
 さっそく一口飲む。香りも含めてたいそう高級な品なのであろうことは、庶民の僕にもわかった。
「それで、ご用件は?」
 佐々木が自分のカップの香りをかぎながら、静かに聞いてくる。
「ご、ご用件?」
 僕は不意をつかれて、再び狼狽する。
「何か用があるから、わざわざ来たんだろ?」
 佐々木が怪訝そうな表情で僕を見る。
「ああ、体調の方はどうなの?だいぶ欠席が続いているけど」
「体調は大丈夫だよ。どちらかというと、こっちの方の問題だから」
 胸の辺りを佐々木は親指で指差した。
「そっか……」
 と僕はうなづく。次の言葉を必死で探すも、ただの見舞いじゃないと見透かされていると思うとなかなか出てこなかった。僕は取り繕うのをやめ、聞くべきことを聞くことにした。
「藤原さんとはどうして会わなかったの?」
「……」
「見舞いに来てくれたんだよね」
「……」
「君のこと、彼女が一番心配していると思うよ」
 黙っている佐々木に、僕は畳みかけた。
 佐々木が持っていたカップをそっと受け皿に置き、ようやく口を開いた。
「君は、ほんとに藤原さんのことが好きなんだね」
 僕は動揺して、紅茶をこぼしそうになった。
「僕は、別に……」
 おそらく真っ赤になっているであろう僕を、佐々木はどこか困ったような表情で見ていた。
「それに……たぶん藤原さんは、君のことが好きなんだ」
 そう言ってしまってすぐに、僕は言わなければよかったと後悔した。

「……だから、ボクは彼女に会わなかったんだ……」
 佐々木が、呟くように言った。
「どういうこと?」
 僕は佐々木の呟きを聞き逃さなかった。
「だから、ボクは彼女の想いには応えられないんだ!」
 佐々木が珍しく語気を強めた。

 その後、一時間ほど経って佐々木の母親が帰ってくるまでの間、僕と佐々木に会話らしい会話はなかった。  
 帰り際に門まで見送りに来た佐々木が、ようやく僕に話しかけた。
「前に、どうして君を彼氏役に選んだのかって聞いたことがあったよね」
「うん」
「どうしてかわかる?」
「たしか、一番役に合ってるからって言ってたよね」 
 僕は、三ヶ月前のことを思い出して答えた。「うん。そうだね……」
 佐々木は何か言葉を続けたそうだったけれど、「じゃあ、ここで」とだけ言うと、振り向いて片手を挙げながら家に戻っていった。
 どこか寂しげな背中を、僕はその場に立ち尽くし、ずっと見ていた──。


         ◇


 目を開けると、先ほど、向かいの石段に座っていた高校生カップルの姿はなかった。代わりに、同じ制服を着た幾つかのグループが、おしくらまんじゅうをしたりして、はしゃいでいる。

 僕はしばらくベンチに座ったまま、うとうとしていたようだ。浅い眠りの中で、忘れかけていた高校時代の記憶が、映画を観るように流れていた。それらは夢とは違って、どれも現実の世界で起きた事だ。
 高校を卒業してからの藤原さんや佐々木が、どのような人生を送っているのかはわからない。大学時代は、時折、どこで何をしているのか考えることもあったけれど、その後、就職活動や社会人としての生活に忙殺されるうちに、二人のことは、意識の奥へ奥へと追いやられていった。きっと二人から見た自分も、同じようにそれぞれの日常に搔き消され、忘れられているに違いなかった。

「松田君の記憶の引き出しはどんな感じ?」 
 藤原さんの声がリフレインする。
 僕は再び目を閉じ、微かな光が漏れ入る瞳の奥を彷徨う。
 半透明の引き出しが立ち並んでいる。
 その片隅に、ほのかに青味を帯びた透明なアクセサリーケースのようなものがある。
 小さな引き出しを開けてみる。
 真夏の空の深い青、風に揺れるコバルトブルーの水面、夏の大三角形が広がる藍色の夜空……。さまざまな夏色に輝く、何かの欠片のようなものがちりばめられている。
 僕はそのひとつをそっと手に取った。
 その瞬間、途方もなく切ない感情が胸一杯に広がっていった。
 それは、砕け散った『想い』の欠片だと僕は思った。
 砕け散るのは「勇気を出してぶつけた想い」だけじゃない。「告白出来ずじまいの秘めた想い」もまた、同じように砕けてゆく。
 青春時代の引き出しは、そんな想いの欠片たちが集まる場所なのだ。
 そして、とりわけ美しく輝くその場所は、儚くも永遠の存在だ。
 この先も、いつかまた、それは何かの拍子に現れ、僕らの日々を少しだけきらめかせてくれるだろう──。

 きっと。
 僕はそう信じて、空を仰いだ。

 屋上から見上げた青空は、あの夏の日の空まで続いていた。 





〈了〉