医師が病室を出て行った後も、そこには重い沈黙だけが支配していた。
時折聞こえる母親の嗚咽が、やけに大きく響く。父親はただ黙って、固く握りしめた拳で自分の膝を叩いていた。武田監督は窓の外の暗闇を、険しい顔で見つめている。
「悠人……」
里桜が、何かを言おうとして俺の顔を覗き込んだ。
「……うるさい」
俺の口から漏れたのは、そんな掠れた拒絶の言葉だった。
「みんな、出ていってくれ。一人にしてくれ」
「悠人、そんなこと言わずに……」
「いいから、出ていけって言ってるんだ!」
俺は、ほとんど叫ぶように言った。
その声に、全員の肩がびくりと震える。母親が泣き崩れ、父親がそれを支えるようにして、監督と共に静かに病室を出ていった。里桜だけが最後まで心配そうにこちらを見ていたが、俺が彼女の視線を睨み返すと、悲しげに瞳を伏せ、静かにドアを閉めた。
一人になった病室は、まるで深海のように静かだった。
俺は、ゆっくりと自分の右足に視線を落とす。分厚いギプスで固められた、白い塊。もはやそれは、俺の足ではなかった。俺の未来を奪った、忌々しい異物だ。
保証はない……
保証はない……
保証は、ない……
…………
医師の言葉が、呪いのように頭の中で反響する。
プロへの道も、全国大会も、全て失った。あのスカウトは、今日の俺の無様なプレーと、この再起不能かもしれない大怪我を見て、とっくに俺のことなど見限ったに違いない。
込み上げてくるのは、悲しみよりも、やり場のない怒りだった。
神谷への怒り。監督への怒り。チームメイトへの怒り。そして、最高の舞台で最悪の結末を迎えた、不運な自分への、どうしようもない怒り。
俺は、ベッドの脇にあったサイドテーブルを、力の限り殴りつけた。ガシャン、と大きな音を立てて、上にあった水の入ったコップが床に落ちて砕け散る。
だが、そんなことをしても、胸の内の激情は少しも収まらなかった。
それからの日々は、地獄だった。
手術は無事に終わった。だが、麻酔が切れると同時に、右膝に灼けるような痛みが襲いかかってきた。痛み止めの点滴を打たれても、鈍い疼きは消えない。熱が出て、眠れない夜が続いた。
見舞いに来るチームメイトたちにも、俺は心を閉ざした。
「ユウト、大丈夫か?」
心配そうに声をかけてくる健二郎に、俺は吐き捨てるように言った。
「見てわかんねえのかよ。それとも、俺がいなくてせいせいしたか?」
「てめっ……! 人が心配してやってんのに、なんだその言い方は!」
「同情ならいらねえよ。さっさと帰れ」
健二郎は怒りに顔を真っ赤にして病室を出ていき、アキが申し訳なさそうに頭を下げてそれを追っていった。航だけが、最後まで何も言わず、ただ俺のベッドの脇の椅子に腰を下ろし、窓の外を見ていた。その沈黙が、今の俺には何よりも重かった。
毎日、甲斐甲斐しく世話をしようとやってくる里桜に対しても、俺は最も残酷な態度を取った。
「お前も、もう来んなよ」
「……どうして? 私、マネージャーだし……」
「マネージャーごっこはもう終わりだ。俺はもう選手じゃねえんだからな」
「そんなこと……!」
「それに、お前みたいな軽い動機で部活やってるヤツに、俺の気持ちがわかるか! 恋がしたい? ふざけるな。俺は、人生懸けてたんだよ!」
里桜は、唇を噛み締め、瞳に涙を溜めて、それでも何かを言おうとしていた。だが、俺が完全に彼女に背を向けると、やがて、小さな嗚咽と共に、病室を出ていく足音が聞こえた。
ドアが閉まる音を聞きながら、俺は胸の奥がチクリと痛むのを感じた。だが、その痛みにも、気づかないふりをした。
俺のいるこの病室は、まるでガラスでできた箱のようだった。外の様子は見えるのに、誰の声も、温もりも、ここには届かない。
俺は、たった一人で、この透明な絶望の中に閉じ込められていた。
* * *
手術から一週間が経った。
右足の灼けるような痛みは少しずつ鈍い疼きに変わっていったが、心の痛みは、日増しに深く、鋭くなっていくようだった。
俺は、ほとんどの時間を、カーテンを閉め切った薄暗い病室で、ただ天井の染みを数えるようにして過ごしていた。食事は半分も喉を通らず、テレビをつければサッカーのニュースが流れてきて、すぐに消す。スマートフォンを開けば、仲間たちのSNSが目に入り、やり場のない嫉妬と劣等感で息が詰まりそうになる。
俺が突き放して以来、里桜は病室に顔を見せなくなった。
当たり前だ。あんなひどい言葉を投げつけられて、それでも毎日笑顔でやってくるほど、お人よしな女じゃない。分かっている。俺自身が、そう望んだのだから。
胸の中に「言い過ぎた」という小さな棘が刺さっていることには、気づかないふりをした。
今さら、どうすることもできない。あいつが来ないのなら、それだけのことだ。
だが、静かになった病室で一人きりになると、その棘が、じくりと疼きだす。
今頃、あいつはどうしているだろうか。部活で、また亜矢とくだらないことで笑い合っているだろうか。俺のことなど、もう、頭の片隅にもないのだろうか。
おかしいな、と思った。
健二郎が来なくても、航が来なくても、こんな気持ちにはならなかった。
なのに、あいつのことだけが頭から離れない。
俺を怒鳴りつけ、ミサンガを押しつけ、スパイクを丁寧に磨いていた、あの生意気な顔。
なんで今さら、そんなことを思い出すんだ。
理由は、分からなかった。
ただ、この静かすぎる病室が、あいつが来なくなってから、どこか余計に静かになった気がした。
そんなある日の午後だった。
コン、コン、と控えめなノックの音がした。
(……里桜か?)
心のどこかでそんな淡い期待を抱いてしまった自分に、すぐに舌打ちする。来るはずがない。
看護師か、あるいは母親だろうと思い、「……どうぞ」とベッドの中から気怠く返事をする。
だが、静かに開いたドアの向こうに立っていたのは——神谷涼介だった。
「……何の用だ」
俺は、ベッドから身を起こし、最大限の敵意を込めて低い声で言った。
「見舞いのつもりか? 俺をこんなにした張本人がどの面下げて来やがった。笑いに来たのか?」
憎しみが、腹の底から煮えたぎるようだった。
だが、神谷は俺の刺々しい言葉にも表情一つ変えず、静かに病室に入ってくると、ドアを閉め、俺のベッドの脇に真っ直ぐに立った。そして、深く深く頭を下げた。
「……すみませんでした」
それは、静かだが、心の底から絞り出したような声だった。
「あのプレーに、悪意はなかった。だが、お前に取り返しのつかない怪我を負わせたのは、事実だ。どんなに謝っても許されることじゃないと分かっている。本当にすみませんでした」
俺は、言葉を失った。
神谷は、ゆっくりと顔を上げた。その目は、同情や憐れみとは無縁の、あの試合の時と同じ、まっすぐなライバルの目をしていた。
「だが、俺は謝るためだけに来たんじゃない」
「……あ?」
「お前に、報告があって来た」
そう言って、神谷は学生鞄から、一通の封筒を取り出した。そこには、俺が夢にまで見た、あの「ベイサイド横浜」のロゴが入っていた。
「……スカウトから、来シーズンの特別指定選手登録に向けて、オファーをもらった」
その言葉に、俺は息をのんだ。内定ではない。だが、それはプロへの道を、ほぼ手中に収めたことを意味していた。
「……そうか。おめでとう」
なんとか、それだけを絞り出す。胸の奥が、ずきりと痛んだ。本来なら、俺がそこにいたかもしれない場所に、今、こいつが立っているのか。
「スカウトが、俺を評価した理由を教えてくれた」
神谷は、俺から目を逸らさずに、続けた。
「『あの石川悠人を、高校レベルではありえないほど、完璧に抑え込んだDF』だから、だそうだ」
「……そうかよ。良かったな。俺を踏み台にして、プロへの道を掴めて」
俺は、吐き捨てるように言った。
「良くない……全然、良くはないぞ」
初めて、神谷が声を荒らげた。
「俺は、お前のいないピッチで得た評価など、何の価値もないと思っている」
神谷は、固く拳を握りしめていた。その指先が、白くなるほどに。
「俺は、お前から逃げない。お前を壊したDFという十字架を、一生背負ってサッカーを続ける。だから」
神谷は、一呼吸おいて、俺の目を射抜くように言った。
「お前も、この怪我から逃げるな」
「……なんだと?」
「リハビリは、地獄だと聞く。以前のように動けるようになるかも、分からないんだろう。だが、それでもだ。俺は、もう一度お前と戦いたい。万全のお前と、言い訳のきかないピッチの上で、人生を懸けて勝負がしたい。俺は、まだお前に勝っていない」
神谷は、そこで一瞬言葉を切った。
その目が、ほんの一瞬だけ、揺れた。
「…………正直に言う」
声が、少しだけ、低くなった。
「お前を怪我させてから、一時期、サッカーが怖くなった。ピッチに入る前、あのプレーを、何度も、何度も、頭の中で繰り返した。もっと別のやり方があったんじゃないか、と」
俺は、何も言えなかった。
「それでも今まで続けてこれたのは、お前がまだいるからだ。お前と、ちゃんとした形で決着をつけていないから」
神谷は、一度だけ、深く息を吸った。
そして、挑戦的な光を目に宿して、こう言った。
「俺は待っている、石川悠人。お前がいないピッチは、つまらない」
それだけ言うと、神谷は再び深く一礼し、踵を返して病室を出ていった。
バタン、とドアが閉まる音だけが、やけに大きく響いた。
俺は呆然と、彼が立っていた空間を見つめていた。
なんだ、あいつは。
馬鹿にしてるのか。俺を、追い詰めるためだけに来たのか。
そう思うのに、胸の奥で渦巻いていたどす黒い怒りが、いつの間にか掻き消されていることに、俺は気づいていた。
――待っている。
俺は、しばらくの間、ただ天井を見つめていた。
消毒液の匂い。点滴のチューブが、腕の中にじわりと冷たい。カーテンの隙間から差し込む、廊下の蛍光灯の冷たい光。何一つ変わらない、病室の夜。
なのに、神谷が去った後の空気は、あいつが来る前とは、どこか違って感じられた。
(待っている、か)
俺は、その言葉を、頭の中で、もう一度転がしてみた。
苛立ちが、湧いてくるはずだった。あいつは何様だ、と。プロへの切符を手に入れた人間が、怪我で這いつくばっている俺に向かって、何を偉そうに、と。
だが不思議と、怒りは来なかった。
代わりに浮かんできたのは、神谷の、あの目だった。
試合中、俺を完璧に封じ込めたあの目。同情も、憐れみも、一切ない。ただ、ライバルとして、俺を見ていた目。
(……馬鹿にしてる)
俺は、そう打ち消した。
だが、その打ち消しが、どこか空虚に響いた。
俺は、右手をゆっくりと持ち上げ、左手首に視線を落とした。里桜が結んだミサンガは、入院中も外さないままだった。青と白の糸が、薄暗い病室の灯りの中で、くすんで見える。不格好な編み目。それでも、解く気にはなれなかった。
(なんで、俺はこんなものをまだつけてるんだ)
チームのため、と里桜は言った。
だがそのチームは、もう俺なしで戦っている。
神谷はプロへの道を歩き始めた。
俺だけが、この白い部屋に、取り残されたまま、動けずにいる。
胸の奥に、ぽっかりと穴が開いたような感覚があった。
もっと静かな、青い炎のようなものが、腹の底でじっと燃えていた。
ピッチに立てない俺は、何者なんだろう。
石川悠人からサッカーを取り上げたら、何が残るんだろう。
その問いは、入院してから何度も頭をよぎっていた。だがこれまでは怒りや苛立ちが、その問いをかき消してくれていた。
今夜は、消えてくれなかった。
俺は、ゆっくりと目を閉じた。
暗闇の中に、これまでの光景が、順番に浮かんでは消えていった。
決勝戦のあの場面。岩崎のクロス。落下点へ飛び込んだ俺の足。そして、神谷のスライディングと、交錯した瞬間の、あの鈍い音。
ゴツッ。
その音が、頭の中で反響するたび、右膝の奥が、じくりと疼いた。
俺は、あの瞬間に何を思っていたんだろう。
スカウトに認めてもらいたかった。神谷を超えたかった。チームなんか関係なく、俺一人で証明したかった。
結果、俺は何も証明できなかった。
証明できたのは、俺の限界だけだ。
(……でも)
ふと、別の光景が浮かんだ。
準決勝後、ケンジが怒鳴り込んできた場面。監督に黙って睨み返した場面。里桜がミサンガを結んでくれた夜の、震える指先の温かさ。
そして、あの決勝戦の土壇場で、俺に向かってロングボールを蹴り出した、健二郎の、祈りを込めたような顔。
あいつは、それでも俺を信じて、ボールを蹴ってくれた。
俺は、そのボールを、受け取れなかった。
(……チームを、信じてなかったのは、俺だ)
その言葉が、静かに、胸の底に沈んでいった。
怪我のせいにしたかった。神谷のせいにしたかった。監督のせいにしたかった。
だが本当のことを言えば、俺は最初から、誰のことも信じていなかった。
父さんのことも。チームのことも。
そして、一番信じていなかったのは、きっと、俺自身のことだ。
俺は、ピッチの上でしか、自分の価値を証明できないと思い込んでいた。だから、右足がなくなった今、俺には何もないと感じている。
(…………待っているぞ)
神谷の声が、また頭の中で響いた。
あいつは、俺の右足を待っているんじゃない。
石川悠人という人間を、待っている。
その違いが、今夜初めて、俺の胸に、針のようにちくりと刺さった。
その夜、俺はまた熱を出した。
朦朧とする意識の中、俺は、遠い昔の、忘れていたはずの記憶の夢を見た。
時折聞こえる母親の嗚咽が、やけに大きく響く。父親はただ黙って、固く握りしめた拳で自分の膝を叩いていた。武田監督は窓の外の暗闇を、険しい顔で見つめている。
「悠人……」
里桜が、何かを言おうとして俺の顔を覗き込んだ。
「……うるさい」
俺の口から漏れたのは、そんな掠れた拒絶の言葉だった。
「みんな、出ていってくれ。一人にしてくれ」
「悠人、そんなこと言わずに……」
「いいから、出ていけって言ってるんだ!」
俺は、ほとんど叫ぶように言った。
その声に、全員の肩がびくりと震える。母親が泣き崩れ、父親がそれを支えるようにして、監督と共に静かに病室を出ていった。里桜だけが最後まで心配そうにこちらを見ていたが、俺が彼女の視線を睨み返すと、悲しげに瞳を伏せ、静かにドアを閉めた。
一人になった病室は、まるで深海のように静かだった。
俺は、ゆっくりと自分の右足に視線を落とす。分厚いギプスで固められた、白い塊。もはやそれは、俺の足ではなかった。俺の未来を奪った、忌々しい異物だ。
保証はない……
保証はない……
保証は、ない……
…………
医師の言葉が、呪いのように頭の中で反響する。
プロへの道も、全国大会も、全て失った。あのスカウトは、今日の俺の無様なプレーと、この再起不能かもしれない大怪我を見て、とっくに俺のことなど見限ったに違いない。
込み上げてくるのは、悲しみよりも、やり場のない怒りだった。
神谷への怒り。監督への怒り。チームメイトへの怒り。そして、最高の舞台で最悪の結末を迎えた、不運な自分への、どうしようもない怒り。
俺は、ベッドの脇にあったサイドテーブルを、力の限り殴りつけた。ガシャン、と大きな音を立てて、上にあった水の入ったコップが床に落ちて砕け散る。
だが、そんなことをしても、胸の内の激情は少しも収まらなかった。
それからの日々は、地獄だった。
手術は無事に終わった。だが、麻酔が切れると同時に、右膝に灼けるような痛みが襲いかかってきた。痛み止めの点滴を打たれても、鈍い疼きは消えない。熱が出て、眠れない夜が続いた。
見舞いに来るチームメイトたちにも、俺は心を閉ざした。
「ユウト、大丈夫か?」
心配そうに声をかけてくる健二郎に、俺は吐き捨てるように言った。
「見てわかんねえのかよ。それとも、俺がいなくてせいせいしたか?」
「てめっ……! 人が心配してやってんのに、なんだその言い方は!」
「同情ならいらねえよ。さっさと帰れ」
健二郎は怒りに顔を真っ赤にして病室を出ていき、アキが申し訳なさそうに頭を下げてそれを追っていった。航だけが、最後まで何も言わず、ただ俺のベッドの脇の椅子に腰を下ろし、窓の外を見ていた。その沈黙が、今の俺には何よりも重かった。
毎日、甲斐甲斐しく世話をしようとやってくる里桜に対しても、俺は最も残酷な態度を取った。
「お前も、もう来んなよ」
「……どうして? 私、マネージャーだし……」
「マネージャーごっこはもう終わりだ。俺はもう選手じゃねえんだからな」
「そんなこと……!」
「それに、お前みたいな軽い動機で部活やってるヤツに、俺の気持ちがわかるか! 恋がしたい? ふざけるな。俺は、人生懸けてたんだよ!」
里桜は、唇を噛み締め、瞳に涙を溜めて、それでも何かを言おうとしていた。だが、俺が完全に彼女に背を向けると、やがて、小さな嗚咽と共に、病室を出ていく足音が聞こえた。
ドアが閉まる音を聞きながら、俺は胸の奥がチクリと痛むのを感じた。だが、その痛みにも、気づかないふりをした。
俺のいるこの病室は、まるでガラスでできた箱のようだった。外の様子は見えるのに、誰の声も、温もりも、ここには届かない。
俺は、たった一人で、この透明な絶望の中に閉じ込められていた。
* * *
手術から一週間が経った。
右足の灼けるような痛みは少しずつ鈍い疼きに変わっていったが、心の痛みは、日増しに深く、鋭くなっていくようだった。
俺は、ほとんどの時間を、カーテンを閉め切った薄暗い病室で、ただ天井の染みを数えるようにして過ごしていた。食事は半分も喉を通らず、テレビをつければサッカーのニュースが流れてきて、すぐに消す。スマートフォンを開けば、仲間たちのSNSが目に入り、やり場のない嫉妬と劣等感で息が詰まりそうになる。
俺が突き放して以来、里桜は病室に顔を見せなくなった。
当たり前だ。あんなひどい言葉を投げつけられて、それでも毎日笑顔でやってくるほど、お人よしな女じゃない。分かっている。俺自身が、そう望んだのだから。
胸の中に「言い過ぎた」という小さな棘が刺さっていることには、気づかないふりをした。
今さら、どうすることもできない。あいつが来ないのなら、それだけのことだ。
だが、静かになった病室で一人きりになると、その棘が、じくりと疼きだす。
今頃、あいつはどうしているだろうか。部活で、また亜矢とくだらないことで笑い合っているだろうか。俺のことなど、もう、頭の片隅にもないのだろうか。
おかしいな、と思った。
健二郎が来なくても、航が来なくても、こんな気持ちにはならなかった。
なのに、あいつのことだけが頭から離れない。
俺を怒鳴りつけ、ミサンガを押しつけ、スパイクを丁寧に磨いていた、あの生意気な顔。
なんで今さら、そんなことを思い出すんだ。
理由は、分からなかった。
ただ、この静かすぎる病室が、あいつが来なくなってから、どこか余計に静かになった気がした。
そんなある日の午後だった。
コン、コン、と控えめなノックの音がした。
(……里桜か?)
心のどこかでそんな淡い期待を抱いてしまった自分に、すぐに舌打ちする。来るはずがない。
看護師か、あるいは母親だろうと思い、「……どうぞ」とベッドの中から気怠く返事をする。
だが、静かに開いたドアの向こうに立っていたのは——神谷涼介だった。
「……何の用だ」
俺は、ベッドから身を起こし、最大限の敵意を込めて低い声で言った。
「見舞いのつもりか? 俺をこんなにした張本人がどの面下げて来やがった。笑いに来たのか?」
憎しみが、腹の底から煮えたぎるようだった。
だが、神谷は俺の刺々しい言葉にも表情一つ変えず、静かに病室に入ってくると、ドアを閉め、俺のベッドの脇に真っ直ぐに立った。そして、深く深く頭を下げた。
「……すみませんでした」
それは、静かだが、心の底から絞り出したような声だった。
「あのプレーに、悪意はなかった。だが、お前に取り返しのつかない怪我を負わせたのは、事実だ。どんなに謝っても許されることじゃないと分かっている。本当にすみませんでした」
俺は、言葉を失った。
神谷は、ゆっくりと顔を上げた。その目は、同情や憐れみとは無縁の、あの試合の時と同じ、まっすぐなライバルの目をしていた。
「だが、俺は謝るためだけに来たんじゃない」
「……あ?」
「お前に、報告があって来た」
そう言って、神谷は学生鞄から、一通の封筒を取り出した。そこには、俺が夢にまで見た、あの「ベイサイド横浜」のロゴが入っていた。
「……スカウトから、来シーズンの特別指定選手登録に向けて、オファーをもらった」
その言葉に、俺は息をのんだ。内定ではない。だが、それはプロへの道を、ほぼ手中に収めたことを意味していた。
「……そうか。おめでとう」
なんとか、それだけを絞り出す。胸の奥が、ずきりと痛んだ。本来なら、俺がそこにいたかもしれない場所に、今、こいつが立っているのか。
「スカウトが、俺を評価した理由を教えてくれた」
神谷は、俺から目を逸らさずに、続けた。
「『あの石川悠人を、高校レベルではありえないほど、完璧に抑え込んだDF』だから、だそうだ」
「……そうかよ。良かったな。俺を踏み台にして、プロへの道を掴めて」
俺は、吐き捨てるように言った。
「良くない……全然、良くはないぞ」
初めて、神谷が声を荒らげた。
「俺は、お前のいないピッチで得た評価など、何の価値もないと思っている」
神谷は、固く拳を握りしめていた。その指先が、白くなるほどに。
「俺は、お前から逃げない。お前を壊したDFという十字架を、一生背負ってサッカーを続ける。だから」
神谷は、一呼吸おいて、俺の目を射抜くように言った。
「お前も、この怪我から逃げるな」
「……なんだと?」
「リハビリは、地獄だと聞く。以前のように動けるようになるかも、分からないんだろう。だが、それでもだ。俺は、もう一度お前と戦いたい。万全のお前と、言い訳のきかないピッチの上で、人生を懸けて勝負がしたい。俺は、まだお前に勝っていない」
神谷は、そこで一瞬言葉を切った。
その目が、ほんの一瞬だけ、揺れた。
「…………正直に言う」
声が、少しだけ、低くなった。
「お前を怪我させてから、一時期、サッカーが怖くなった。ピッチに入る前、あのプレーを、何度も、何度も、頭の中で繰り返した。もっと別のやり方があったんじゃないか、と」
俺は、何も言えなかった。
「それでも今まで続けてこれたのは、お前がまだいるからだ。お前と、ちゃんとした形で決着をつけていないから」
神谷は、一度だけ、深く息を吸った。
そして、挑戦的な光を目に宿して、こう言った。
「俺は待っている、石川悠人。お前がいないピッチは、つまらない」
それだけ言うと、神谷は再び深く一礼し、踵を返して病室を出ていった。
バタン、とドアが閉まる音だけが、やけに大きく響いた。
俺は呆然と、彼が立っていた空間を見つめていた。
なんだ、あいつは。
馬鹿にしてるのか。俺を、追い詰めるためだけに来たのか。
そう思うのに、胸の奥で渦巻いていたどす黒い怒りが、いつの間にか掻き消されていることに、俺は気づいていた。
――待っている。
俺は、しばらくの間、ただ天井を見つめていた。
消毒液の匂い。点滴のチューブが、腕の中にじわりと冷たい。カーテンの隙間から差し込む、廊下の蛍光灯の冷たい光。何一つ変わらない、病室の夜。
なのに、神谷が去った後の空気は、あいつが来る前とは、どこか違って感じられた。
(待っている、か)
俺は、その言葉を、頭の中で、もう一度転がしてみた。
苛立ちが、湧いてくるはずだった。あいつは何様だ、と。プロへの切符を手に入れた人間が、怪我で這いつくばっている俺に向かって、何を偉そうに、と。
だが不思議と、怒りは来なかった。
代わりに浮かんできたのは、神谷の、あの目だった。
試合中、俺を完璧に封じ込めたあの目。同情も、憐れみも、一切ない。ただ、ライバルとして、俺を見ていた目。
(……馬鹿にしてる)
俺は、そう打ち消した。
だが、その打ち消しが、どこか空虚に響いた。
俺は、右手をゆっくりと持ち上げ、左手首に視線を落とした。里桜が結んだミサンガは、入院中も外さないままだった。青と白の糸が、薄暗い病室の灯りの中で、くすんで見える。不格好な編み目。それでも、解く気にはなれなかった。
(なんで、俺はこんなものをまだつけてるんだ)
チームのため、と里桜は言った。
だがそのチームは、もう俺なしで戦っている。
神谷はプロへの道を歩き始めた。
俺だけが、この白い部屋に、取り残されたまま、動けずにいる。
胸の奥に、ぽっかりと穴が開いたような感覚があった。
もっと静かな、青い炎のようなものが、腹の底でじっと燃えていた。
ピッチに立てない俺は、何者なんだろう。
石川悠人からサッカーを取り上げたら、何が残るんだろう。
その問いは、入院してから何度も頭をよぎっていた。だがこれまでは怒りや苛立ちが、その問いをかき消してくれていた。
今夜は、消えてくれなかった。
俺は、ゆっくりと目を閉じた。
暗闇の中に、これまでの光景が、順番に浮かんでは消えていった。
決勝戦のあの場面。岩崎のクロス。落下点へ飛び込んだ俺の足。そして、神谷のスライディングと、交錯した瞬間の、あの鈍い音。
ゴツッ。
その音が、頭の中で反響するたび、右膝の奥が、じくりと疼いた。
俺は、あの瞬間に何を思っていたんだろう。
スカウトに認めてもらいたかった。神谷を超えたかった。チームなんか関係なく、俺一人で証明したかった。
結果、俺は何も証明できなかった。
証明できたのは、俺の限界だけだ。
(……でも)
ふと、別の光景が浮かんだ。
準決勝後、ケンジが怒鳴り込んできた場面。監督に黙って睨み返した場面。里桜がミサンガを結んでくれた夜の、震える指先の温かさ。
そして、あの決勝戦の土壇場で、俺に向かってロングボールを蹴り出した、健二郎の、祈りを込めたような顔。
あいつは、それでも俺を信じて、ボールを蹴ってくれた。
俺は、そのボールを、受け取れなかった。
(……チームを、信じてなかったのは、俺だ)
その言葉が、静かに、胸の底に沈んでいった。
怪我のせいにしたかった。神谷のせいにしたかった。監督のせいにしたかった。
だが本当のことを言えば、俺は最初から、誰のことも信じていなかった。
父さんのことも。チームのことも。
そして、一番信じていなかったのは、きっと、俺自身のことだ。
俺は、ピッチの上でしか、自分の価値を証明できないと思い込んでいた。だから、右足がなくなった今、俺には何もないと感じている。
(…………待っているぞ)
神谷の声が、また頭の中で響いた。
あいつは、俺の右足を待っているんじゃない。
石川悠人という人間を、待っている。
その違いが、今夜初めて、俺の胸に、針のようにちくりと刺さった。
その夜、俺はまた熱を出した。
朦朧とする意識の中、俺は、遠い昔の、忘れていたはずの記憶の夢を見た。
