青い炎 〜主役を降りた天才、もう一度あのピッチへ〜

後半14分。
タッチライン際で給水ボトルを呷っている俺の耳に、ベンチから声が飛んだ。監督が、控えFWで一年生の高木翔太(たかぎしょうた)を呼び寄せ、戦術ボードを指差しながら何かを指示している。そして、第四審判が交代ボードを掲げる準備を始めていた。
そこに表示されようとしている数字が、俺の背番号「11」であることは、火を見るより明らかだった。
時間が、止まった。
プロへの道の扉が、今、目の前で閉ざされようとしている。
俺は信じられない思いで、ベンチの監督を見た。監督は険しい顔でピッチを見据えるだけで、俺の方を見ようともしない。
交代。
この、人生で最も重要な試合で、俺は、失格の烙印を押されるのか。
俺のプライドが、音を立てて砕けていくのが分かった。

「おい、石川!」
その時、スタンドの一角から、甲高い声が飛んだ。
見上げると、そこにいたのは里桜だった。
マネージャー席ではなく、なぜか観客席の手すりに身を乗り出すようにして、彼女は叫んでいた。隣では、亜矢が必死に彼女を止めようとしている。
「まだ終わってない! 下を向くな、エース!」
その声は、泣いているようにも聞こえた。
俺は左手のミサンガを右手で握りしめた。

(そうだ。まだだ……このままでは終われない……!)
交代ボードが掲げられる、その前に。
この足で、俺のゴールで、全てを覆してやる。
俺はピッチの中へと視線を戻した。その、まさに刹那だった。

健二郎が、自陣深くで相手のパスをインターセプトした。
顔を上げた彼と、一瞬だけ視線が合う。健二郎は、まるで祈りを込めるかのように、前線へとロングボールを蹴り出した。
そのボールの蹴られた先は、俺ではなかった。
左サイドを、ノーマークで駆け上がっていく快速ウィングの岩崎和也(いわさきかずや)。その足元に、完璧なボールが収まる。帝王高校のディフェンス陣が、慌ててそちらへ引き寄せられていく。
一瞬、神谷の俺へのマークが甘くなった。
今だ! 俺はゴール前、中央のスペースへと、最後の力を振り絞って走り込んだ。
左サイドをドリブルで駆け上がった岩崎が、エンドラインぎりぎりの位置で、ゴール前へとクロスを上げる。それは、俺の頭上をわずかに越え、ファーサイドへと流れていく、少し精度の低いボールだった。

だが、今の俺には、それこそが最高のボールに見えた。
キーパーも、DF(ディフェンダー)も、ニアサイドに集まっている。ファーサイドはがら空きだ。
「これを、決めるッ!!」
叫びながら、俺は落下点へと飛び込んだ。
ボールをゴールに叩き込む、ただその一点だけを目指して。

だが、俺の視界の端で、臙脂色のユニフォームが猛然と突っ込んでくるのが見えた。
神谷だ。
彼は、俺のシュートコースを消すために、身体ごと投げ出すようにスライディングしてきた。
そして、それは起こった。

俺が右足を振り抜き、ボールを捉えようとした瞬間と、神谷の足がボールをクリアしようとした瞬間が、完全に交錯した。
ゴツッ、という鈍い、骨と骨がぶつかり合う音がした。
ボールではなく、俺の右膝の、ちょうど真横に。
その瞬間、視界が真っ白に染まり、電撃が走ったかのような激痛が、右足全体を貫いた。

「ぐ…………ぁ、ああああああッ!」
声にならない絶叫が、喉から迸る。
俺の身体は、まるで糸の切れた操り人形のように、不自然な角度に折れ曲がりながら芝生の上へと叩きつけられた。
俺たちが競り合ったこぼれ球は、無情にもゴールポストを叩き、ラインの外へと転がっていく。
主審が神谷にイエローカードを出し、ホイッスルが、試合の中断を告げる。
激痛で霞む視界の中、チームメイトたちが血相を変えて駆け寄ってくるのが見えた。健二郎が、杉浦先輩が、田中先輩が、俺の名前を叫んでいる。信じられないものを見たかのように、神谷がその場に立ち尽くしている。
交代ボードを掲げようとしていた第四審判の手が止まっていた。

大丈夫だ、まだ立てる。こんな怪我、気のせいだ。
そう自分に言い聞かせ、身を起こそうとする。
だが、俺の脳から発せられた信号が右足に届くことはなかった。
まるで分厚い鉛の塊になったかのように、ぴくりとも動かなかった。膝から下の感覚が、ない。
担架がゆっくりとこちらへ運ばれてくる。
里桜の悲鳴のような声が、遠くで聞こえた気がした。
俺は、無力感と激痛の中で、意識を手放しかけていた。
砕け散ったのはガラスのプライドだけではなかった。

     *     *     *

揺れている。
規則的な振動と、遠くで鳴り響くサイレンの音。俺はゆっくりと目を開けた。
視界に映ったのは、救急車の低い天井と、隊員の顔だった。腕に刺された点滴の針がちくりと痛む。
「……っつ……」
身じろぎしようとして、右足に走る灼けるような激痛に、思わず声が漏れた。足は応急処置で固定されているが、それでも、わずかに動くだけで膝の奥が悲鳴を上げる。
「悠人! 気づいた?」
すぐ側から聞き慣れた声がした。
見ると中村里桜が泣き腫らした目で俺の顔を覗き込んでいた。その制服は芝生で汚れ、彼女の必死さを物語っている。

「……試合は……」
掠れた声で、俺は尋ねた。
「試合、どうなったんだ……?」
里桜は、ちらりと手元のスマートフォンに視線を落とした。画面には、亜矢からのメッセージが表示されていた。
ぎゅっと唇を噛み締め、俯く。
「……あのまま1対0で、負けた。みんな最後まで戦ったけど……」
そうか。負けたのか。
俺が最後のチャンスを潰し、チームの士気を奈落の底へ突き落としたせいだ。
胸にずしりと重い罪悪感がのしかかる。
だが、それよりも今は、この足の状態の方が気になった。

「俺の足、どうなんだ? ただの打撲だろ? ちょっと腫れてるだけだよな?」
俺は、必死に自分に言い聞かせるように、早口で言った。
そうだ、気のせいだ。
アイシングして、テーピングを巻けば、明日にはまたボールが蹴れる。
だが、里桜は何も答えなかった。ただ、その大きな瞳が、みるみるうちに潤んでいく。
その表情が、俺の早口な言葉を、静かに打ち消していった。

病院に着くと、俺はすぐにストレッチャーに乗せられ、救急処置室へと運ばれた。レントゲン、MRI。様々な機械が、俺の右足の状態を無機質に暴いていく。医師や看護師たちの感情のこもらない専門用語が飛び交う中、俺はただ白い天井を見つめていることしかできなかった。
現実感が、なかった。

数時間が経ち、俺は病室のベッドに移されていた。右足は分厚いギプスで固められ、自分の体ではないかのように重く、そして膝の奥から鈍い痛みが絶えず響いていた。
窓の外はもうすっかり暗くなっている。
病室のドアが静かに開いた。
入ってきたのは、武田監督と、俺の両親、そして里桜だった。
誰もが、重い表情をしている。

「ユウト、気分はどうだ」
監督の問いに、俺は何も答えられなかった。
やがて、医師が手にしたカルテを見ながら俺たちの前に立った。
「石川さん、ご家族以外の方もいらっしゃいますが、結果をお伝えしてもよろしいですか」
俺は、黙って頷いた。その場の全員が、固唾をのんで彼の言葉を待っている。
「…検査の結果が出ました」
医師は一度言葉を切り、モニターに映し出された俺の膝のMRI画像を示した。
「石川さんの診断ですが、…右膝前十字靭帯の完全断裂。そして半月板にも、部分的な損傷が見られます」

ゼンジュウジジンタイ。ダンレツ。ハンゲツバン、ソンショウ。

聞いたことはある。
サッカー選手にとって、最も致命的な怪我の一つだ。
頭が、真っ白になる。
医師が何かを説明し続けているが、その声はまるで水の中にいるかのように、くぐもって聞こえなかった。隣で母親が小さく嗚咽を漏らすのが聞こえる。
「……先生」
俺は、かろうじて声を絞り出した。
「手術すれば……また、サッカーできますよね? 前みたいに……」
それは、懇願だった。最後の希望に、必死にすがりつくような。

医師は俺の目を真っ直ぐに見つめ、静かに、そして残酷に、現実を告げた。
「手術と、長いリハビリを行えば、日常生活に支障がないレベルまで回復することは可能でしょう。ですが……」
医師は、慎重に、言葉を選んでいた。
「……ですが、以前と同じレベルでトップフォームでプレーできるようになる保証は、残念ながらありません」
その瞬間、俺の中で、何かがぷつりと切れる音がした。
保証はない。
その言葉が、ハンマーのように俺の頭を殴りつける。
その全てが、今、この一言で、塵になった。

俺は声も出せずに、ただ呆然と、目の前の虚空を見つめていた。
病室の窓ガラスに映る自分の顔が、見たこともないほど絶望に歪んでいるのを、どこか他人事のように眺めていた。