※里桜視点のお話です
帰り道の、街灯が灯る夜道。
私と亜矢は、並んで歩いていた。さっきの悠人とのやり取りのせいで、私の心臓はまだ少しだけ速く脈打っている。
「……あんたさあ」
隣を歩く亜矢が、呆れたような、でも、どこか心配そうな声で言った。
「分かんないなぁ。なんで、あそこまでするのよ。石川悠人のために」
「……別に。チームのためだって、言ったでしょ」
私は、視線を落とした。
「…………嘘だね。さっき、あいつのこと、すっごい目で見てたよ。なんか、昔のあんたみたいだった」
「昔の……?」
亜矢の言葉に、私はドキリとした。
「中学の時、思い出すよ。吹奏楽部のコンクールの前。あんた、先輩に色々言われて、それでも一人で毎日、日が暮れるまで音楽室に残って、クラリネット吹いてたじゃん。あの時の、あんたと、さっきの石川悠人の背中、そっくりだった」
亜矢の言葉が、私が必死に蓋をしていた、古傷の記憶をこじ開ける。
あれは、中学二年の、秋のことだった。
地区コンクールまで、一ヶ月を切った頃。私たちの吹奏楽部は、その年こそ金賞をと、練習に練習を重ねていた。私は第二クラリネットのパートリーダーで、自分の音には、それなりに自信があった。少なくとも、あの頃は。
「中村」
ある日の練習後、パートリーダーたちへの指示出しが終わった直後に、坂本先輩が私の名前を呼んだ。
三年生で、ソロパートを任されている第一クラリネットのパートリーダー。端的に言えば、部の中で一番うまい人。そして一番怖い人。先輩の言葉はいつも短く、正確で、言い訳を一切受け付けなかった。
「今日の合奏、ちゃんと聴いてた?」
「…………はい」
「第一との音量バランス、崩れてた。あなただけが少しだけ前に出すぎてる。気づいてた?」
楽譜には、その箇所にクレッシェンドの指示があった。私は楽譜通りに吹いていた。そう言おうとして、坂本先輩の目を見た瞬間、言葉が引っ込んだ。
先輩の目は、怒っていなかった。
ただ、まっすぐに、私の音を聴いていた。
「…………分かりました。直します」
「分かったなら、十分」
それだけ言って、坂本先輩は背を向けた。
それが、始まりだった。
そこから私は、毎日、放課後に音楽室へ残った。全体練習が終わっても、亜矢の「帰ろうよ」という声を「先に行って」とかわして、誰もいなくなった音楽室で、一人でクラリネットを吹き続けた。
課題は分かっていた。私の音は、技術としては正確だった。でも、第一パートの音と溶け合っていなかった。自分の音が完成されていれば、それでいいと思っていた。周りの音を聴くより先に、自分の演奏を仕上げることばかり考えていた。
その奢りに、私はようやく気づいた。
坂本先輩は、週に一度か二度、練習後にふらりと音楽室へ来た。何も言わずに、椅子を引いて座り、私の音を聴いていた。
最初は、それが怖かった。何か言われるかもしれないと、身体が強張った。
でも先輩は、ほとんど何も言わなかった。
「今日はいい」と言う日もあれば、無言で帰る日もあった。時々、「ここ、もう少し弾いてみて」とだけ言って、また黙って聴いた。
ある日、私は思い切って尋ねた。
「…………先輩は、なんで毎日来るんですか」
先輩は少しだけ間を置いて、窓の外を見ながら答えた。
「あなたの音が好きだから、かな」
予想していなかった言葉に、私は何も言い返せなかった。
「第二は、縁の下でいい、なんて思ってる部員が多い。でもあなたは違う。ちゃんと、自分の音にこだわってる。その芯の強さは、本物だと思ってる」
先輩は、そこで私に視線を戻した。
「だから、惜しい。もう少しで、全体がすごく変わる」
その言葉が、嬉しくて、苦しかった。
坂本先輩は、私に期待していた。
そのことが、じわりと私の心に染み込んでいった。と同時に、その重さが、コンクールが近づくにつれて、少しずつ、少しずつ、私の肩に積み重なっていった。
コンクール二週間前の合奏練習で、私は初めて、自分の音が第一パートと溶け合う瞬間を感じた。坂本先輩の音が、私の音を包み込んで、二つが一つになるような、あの感覚。顧問の先生が「そこ、いい」と呟いたのが聞こえた。
坂本先輩が、私の方を、ほんの一瞬、振り返った。
何も言わなかった。ただ、前を向いた。
でも、その横顔に、確かに笑みがあった。
――それが、私が覚えている、最後のいい記憶だ。
コンクールの前日の夜。
私は、ベッドの中で、天井を見つめていた。
眠れなかった。
夜中から身体が熱かった。体温計を探して測ると、三十七度八分。本物の熱だった。
あの合同練習で感じた、音が溶け合う瞬間。
あれは、本物だったのだろうか。
明日、同じ音が出せる保証が、どこにもない。
熱のせいか、その考えが頭の中で膨らみ続けた。小さな不安が、次の不安を呼ぶ。ステージの照明が目に刺さる気がした。マウスピースが唇に馴染まない気がした。坂本先輩が振り返らない気がした。
全部、気がする、だけだ。
でも、止まらなかった。
朝になったら、熱は三十八度台まで上がっていた。
頭痛があった。節々が痛んだ。でも、立てないほどではなかった。
解熱剤を飲めば、本番の二時間くらいは、なんとかなるかもしれなかった。
私はスマートフォンを持って顧問の先生へのメッセージ画面を開いた。
『熱が出てしまって』
そこまで打って、止まった。
送ろうとすれば、送れた。「それでも行きます」と打てば、打てた。
でも私の指は、それ以上、動かなかった。
熱がある。それは本当だ。
だから休んでも、仕方がない。それも、本当だ。
私は、その「本当」を、両手でしっかりと抱えて、送信ボタンを押した。
顧問の先生からすぐに「無理しないで、お大事に」という返信が来た。
解熱剤は、飲まなかった。
飲もうとして、やめた。
飲んでしまったら、「行けたかもしれない」という事実が、消えなくなる気がした。
私は布団を被って、そのまま一日、動かなかった。
その夕方、同じパートの子からメッセージが来た。
「銀賞だったよ。お大事に」
それだけだった。
翌日、音楽室へ行くと、部員たちはいつも通りだった。
誰も、何も、言わなかった。
坂本先輩からも、その後は何も言われなかった。
『何も、言われなかった』
それが一番、堪えた。
怒ってくれれば、まだよかった。でも先輩は、廊下で会っても普通に挨拶して、普通に笑って、私に何も言わなかった。
まるで、最初から、何も期待していなかったみたいに。
それが、先輩の優しさなのか、それとも、私への失望が深すぎて言葉にならなかったのか、今でも分からない。
私は先輩が卒業するまで、そのことを一度も謝れなかった。
逃げたのは、私だ。
才能を買ってもらっていたのに。一番近くで、私の音を聴いてくれていたのに。
私は、怖くなって、逃げた。
そうだ。
私は、知っている。
チームの中で、たった一人になることの、孤独を。
自分の正しさを信じれば信じるほど、周りが見えなくなっていく、あの焦燥感を。
そして、誰にも理解されずに、たった一人で戦い続けることの、痛みを。
「……私は、逃げたから」
ぽつりと、私の口から、本音が漏れた。
「え?」
「私は、最後まで戦わなかった。怖くなって、全部投げ出して、逃げた。だから……」
私は、強く、拳を握りしめた。ナイター照明に照らされた、あの孤高の背中が、脳裏に焼き付いて離れない。
「……だから、あいつには逃げてほしくないのかも。私みたいに」
「里桜……」
「あいつのやり方は、間違ってる。絶対に。でも、それでも、あいつがサッカーに人生懸けてるのも、本当なんだって分かるから。だから放っておけない。ただ、それだけだよ」
それは単純に恋心とか、ましてや「王子様」への憧れとか、そういう綺麗な言葉で片付けられる感情ではなかった。
もっと、泥臭くて、切実な、魂の叫び。
過去の自分を、彼に重ねて、救おうとしているだけのエゴなのかもしれない。
それでも、私には、そうするしかできなかった。
「……ふーん。まあ、あんたがそう言うなら、止めないけどさ」
亜矢は、やれやれと肩をすくめると、私の顔を覗き込んで、ニヤリと笑った。
「でも、どっちにしろ、石川悠人のこと、相当意識してるってことだけは、よーく分かったから。せいぜい、ミイラ取りがミイラにならないようにね」
「なっ……! ち、違うって言ってるでしょ!」
顔が、カッと熱くなる。私は、亜矢の背中を、バン、と力いっぱい叩いた。
夜道に、私たちの、いつもと同じ、くだらない笑い声が響く。
だが、私の胸の中には、もう、笑い事では済まされない、熱くて、そして少しだけ痛い想いが、確かに芽生え始めていた。
帰り道の、街灯が灯る夜道。
私と亜矢は、並んで歩いていた。さっきの悠人とのやり取りのせいで、私の心臓はまだ少しだけ速く脈打っている。
「……あんたさあ」
隣を歩く亜矢が、呆れたような、でも、どこか心配そうな声で言った。
「分かんないなぁ。なんで、あそこまでするのよ。石川悠人のために」
「……別に。チームのためだって、言ったでしょ」
私は、視線を落とした。
「…………嘘だね。さっき、あいつのこと、すっごい目で見てたよ。なんか、昔のあんたみたいだった」
「昔の……?」
亜矢の言葉に、私はドキリとした。
「中学の時、思い出すよ。吹奏楽部のコンクールの前。あんた、先輩に色々言われて、それでも一人で毎日、日が暮れるまで音楽室に残って、クラリネット吹いてたじゃん。あの時の、あんたと、さっきの石川悠人の背中、そっくりだった」
亜矢の言葉が、私が必死に蓋をしていた、古傷の記憶をこじ開ける。
あれは、中学二年の、秋のことだった。
地区コンクールまで、一ヶ月を切った頃。私たちの吹奏楽部は、その年こそ金賞をと、練習に練習を重ねていた。私は第二クラリネットのパートリーダーで、自分の音には、それなりに自信があった。少なくとも、あの頃は。
「中村」
ある日の練習後、パートリーダーたちへの指示出しが終わった直後に、坂本先輩が私の名前を呼んだ。
三年生で、ソロパートを任されている第一クラリネットのパートリーダー。端的に言えば、部の中で一番うまい人。そして一番怖い人。先輩の言葉はいつも短く、正確で、言い訳を一切受け付けなかった。
「今日の合奏、ちゃんと聴いてた?」
「…………はい」
「第一との音量バランス、崩れてた。あなただけが少しだけ前に出すぎてる。気づいてた?」
楽譜には、その箇所にクレッシェンドの指示があった。私は楽譜通りに吹いていた。そう言おうとして、坂本先輩の目を見た瞬間、言葉が引っ込んだ。
先輩の目は、怒っていなかった。
ただ、まっすぐに、私の音を聴いていた。
「…………分かりました。直します」
「分かったなら、十分」
それだけ言って、坂本先輩は背を向けた。
それが、始まりだった。
そこから私は、毎日、放課後に音楽室へ残った。全体練習が終わっても、亜矢の「帰ろうよ」という声を「先に行って」とかわして、誰もいなくなった音楽室で、一人でクラリネットを吹き続けた。
課題は分かっていた。私の音は、技術としては正確だった。でも、第一パートの音と溶け合っていなかった。自分の音が完成されていれば、それでいいと思っていた。周りの音を聴くより先に、自分の演奏を仕上げることばかり考えていた。
その奢りに、私はようやく気づいた。
坂本先輩は、週に一度か二度、練習後にふらりと音楽室へ来た。何も言わずに、椅子を引いて座り、私の音を聴いていた。
最初は、それが怖かった。何か言われるかもしれないと、身体が強張った。
でも先輩は、ほとんど何も言わなかった。
「今日はいい」と言う日もあれば、無言で帰る日もあった。時々、「ここ、もう少し弾いてみて」とだけ言って、また黙って聴いた。
ある日、私は思い切って尋ねた。
「…………先輩は、なんで毎日来るんですか」
先輩は少しだけ間を置いて、窓の外を見ながら答えた。
「あなたの音が好きだから、かな」
予想していなかった言葉に、私は何も言い返せなかった。
「第二は、縁の下でいい、なんて思ってる部員が多い。でもあなたは違う。ちゃんと、自分の音にこだわってる。その芯の強さは、本物だと思ってる」
先輩は、そこで私に視線を戻した。
「だから、惜しい。もう少しで、全体がすごく変わる」
その言葉が、嬉しくて、苦しかった。
坂本先輩は、私に期待していた。
そのことが、じわりと私の心に染み込んでいった。と同時に、その重さが、コンクールが近づくにつれて、少しずつ、少しずつ、私の肩に積み重なっていった。
コンクール二週間前の合奏練習で、私は初めて、自分の音が第一パートと溶け合う瞬間を感じた。坂本先輩の音が、私の音を包み込んで、二つが一つになるような、あの感覚。顧問の先生が「そこ、いい」と呟いたのが聞こえた。
坂本先輩が、私の方を、ほんの一瞬、振り返った。
何も言わなかった。ただ、前を向いた。
でも、その横顔に、確かに笑みがあった。
――それが、私が覚えている、最後のいい記憶だ。
コンクールの前日の夜。
私は、ベッドの中で、天井を見つめていた。
眠れなかった。
夜中から身体が熱かった。体温計を探して測ると、三十七度八分。本物の熱だった。
あの合同練習で感じた、音が溶け合う瞬間。
あれは、本物だったのだろうか。
明日、同じ音が出せる保証が、どこにもない。
熱のせいか、その考えが頭の中で膨らみ続けた。小さな不安が、次の不安を呼ぶ。ステージの照明が目に刺さる気がした。マウスピースが唇に馴染まない気がした。坂本先輩が振り返らない気がした。
全部、気がする、だけだ。
でも、止まらなかった。
朝になったら、熱は三十八度台まで上がっていた。
頭痛があった。節々が痛んだ。でも、立てないほどではなかった。
解熱剤を飲めば、本番の二時間くらいは、なんとかなるかもしれなかった。
私はスマートフォンを持って顧問の先生へのメッセージ画面を開いた。
『熱が出てしまって』
そこまで打って、止まった。
送ろうとすれば、送れた。「それでも行きます」と打てば、打てた。
でも私の指は、それ以上、動かなかった。
熱がある。それは本当だ。
だから休んでも、仕方がない。それも、本当だ。
私は、その「本当」を、両手でしっかりと抱えて、送信ボタンを押した。
顧問の先生からすぐに「無理しないで、お大事に」という返信が来た。
解熱剤は、飲まなかった。
飲もうとして、やめた。
飲んでしまったら、「行けたかもしれない」という事実が、消えなくなる気がした。
私は布団を被って、そのまま一日、動かなかった。
その夕方、同じパートの子からメッセージが来た。
「銀賞だったよ。お大事に」
それだけだった。
翌日、音楽室へ行くと、部員たちはいつも通りだった。
誰も、何も、言わなかった。
坂本先輩からも、その後は何も言われなかった。
『何も、言われなかった』
それが一番、堪えた。
怒ってくれれば、まだよかった。でも先輩は、廊下で会っても普通に挨拶して、普通に笑って、私に何も言わなかった。
まるで、最初から、何も期待していなかったみたいに。
それが、先輩の優しさなのか、それとも、私への失望が深すぎて言葉にならなかったのか、今でも分からない。
私は先輩が卒業するまで、そのことを一度も謝れなかった。
逃げたのは、私だ。
才能を買ってもらっていたのに。一番近くで、私の音を聴いてくれていたのに。
私は、怖くなって、逃げた。
そうだ。
私は、知っている。
チームの中で、たった一人になることの、孤独を。
自分の正しさを信じれば信じるほど、周りが見えなくなっていく、あの焦燥感を。
そして、誰にも理解されずに、たった一人で戦い続けることの、痛みを。
「……私は、逃げたから」
ぽつりと、私の口から、本音が漏れた。
「え?」
「私は、最後まで戦わなかった。怖くなって、全部投げ出して、逃げた。だから……」
私は、強く、拳を握りしめた。ナイター照明に照らされた、あの孤高の背中が、脳裏に焼き付いて離れない。
「……だから、あいつには逃げてほしくないのかも。私みたいに」
「里桜……」
「あいつのやり方は、間違ってる。絶対に。でも、それでも、あいつがサッカーに人生懸けてるのも、本当なんだって分かるから。だから放っておけない。ただ、それだけだよ」
それは単純に恋心とか、ましてや「王子様」への憧れとか、そういう綺麗な言葉で片付けられる感情ではなかった。
もっと、泥臭くて、切実な、魂の叫び。
過去の自分を、彼に重ねて、救おうとしているだけのエゴなのかもしれない。
それでも、私には、そうするしかできなかった。
「……ふーん。まあ、あんたがそう言うなら、止めないけどさ」
亜矢は、やれやれと肩をすくめると、私の顔を覗き込んで、ニヤリと笑った。
「でも、どっちにしろ、石川悠人のこと、相当意識してるってことだけは、よーく分かったから。せいぜい、ミイラ取りがミイラにならないようにね」
「なっ……! ち、違うって言ってるでしょ!」
顔が、カッと熱くなる。私は、亜矢の背中を、バン、と力いっぱい叩いた。
夜道に、私たちの、いつもと同じ、くだらない笑い声が響く。
だが、私の胸の中には、もう、笑い事では済まされない、熱くて、そして少しだけ痛い想いが、確かに芽生え始めていた。
