選手権が終わった翌週から、俺の生活は一変した。
グラウンドへ行かなくなった。分析ノートを広げなくなった。仲間からのメッセージには返事をするが、自分から連絡することはほとんどなくなった。
代わりに、机の上には問題集が三冊、積み上げられていた。
数学。英語。そして、体育大学の過去問。
久保先生が言った通り、穴は深かった。
特に数学は、入院前の記憶がそのまま止まっていて、そこから一年以上分がすっぽりと抜け落ちている。問題集を開くたびに、自分がどれだけ取り残されているかを、数字で突きつけられた。
朝五時に起きて机に向かい、夜まで勉強するだけの生活が続いた。
ある夜、俺は、両親を居間に呼んだ。
父さんと母さんが、向かいのソファに並んで座った。普段はこんな改まった場を作ることなどない。二人とも少し、緊張した顔をしていた。
俺は、正直に話した。
第一志望が不合格だった場合、三週間後に私立の体育大学も受験すること。学費は公立よりもかなり高くなること。
「……迷惑をかけます。でも、俺には、この道しかない。お願いします」
頭を下げた。
しばらく、沈黙があった。
最初に口を開いたのは、母さんだった。
「悠人、顔を上げなさい」
母さんは、目に涙をためていた。
「お金のことは心配しなくていい。悠人が、ちゃんと自分の道を決めてくれたことの方が、お母さんには、ずっと大事だから」
父さんは、何も言わなかった。
ただ、膝の上に置いた手を、一度だけ、固く握りしめた。
そして、静かに頷いた。
それだけだった。
「……ありがとう」
自然に、言葉が出た。
俺は、何も言い返せなかった。卵焼きを一口食べた父さんは、少しだけ目を細めて、また黙って頷いた。
* * *
十二月の半ば、里桜から短いメッセージが届いた。
『どう? 勉強、進んでる?』
『まあまあ』
嘘だった。数学の模擬問題で、また同じ箇所でつまずいていた。
しばらくして、返信が来た。
『嘘だ。顔に出てなくても、文章に出てる』
俺は、スマートフォンを伏せた。
こいつには、かなわない。
翌日の昼休み、里桜に「ごはん、中庭で食べない?」と誘われた。亜矢はその日、別の用があるとかで来なかった。最近、こういう時間が増えていた。
「見せて」
里桜が、俺の手元の問題集を、遠慮なく手に取った。
「……返せよ」
「数学、ここが苦手なんでしょ。この単元」
里桜は、付箋だらけのページを開きながら、さらりと言った。
「亜矢の彼氏、理系の大学生なんだけど、分からないところ聞いてみようか」
「……いらない」
「強がらなくていいのに」
俺は黙った。
里桜は、問題集を俺に返しながら、弁当の蓋を開けた。そして、何も言わずに、自分の弁当から卵焼きを一切れ、俺の弁当箱の隅に乗せた。
「……何してんだ」
「好きでしょ、卵焼き」
澄ました顔で言う。
「なんで知ってんだよ」
「見てたから」
それだけだった。
俺は、何も言い返せなかった。卵焼きを一口食べた。甘かった。
しばらく、二人とも黙って弁当を食べた。
冬の薄い日差しが、中庭に差し込んでいる。
グラウンドからは、後輩たちの練習の声が、遠く聞こえた。
「悠人、最近、独りで抱えすぎてる。また昔に戻ってる気がして」
里桜が、弁当を食べながら、ぽつりと言った。
「……違う」
「そう?」
「一人でやると決めてるんじゃない。一人でやれるか、試したいんだ」
里桜は、少しだけ考えてから、俺の方を向いた。
「それって、私には頼れないってこと?」
「……そういうわけじゃない」
「じゃあ、何」
「……お前の前では、ちゃんとしたいんだよ」
言ってから、耳が熱くなった。
目を逸らした。
里桜は、一瞬だけ目を丸くした。それから、少しだけ間を置いて、静かに言った。
「ばか。ちゃんとしてない悠人も、私は知ってるんだけど」
「……っ」
「病室で泣いてたとこも、リハビリで弱音吐いてたとこも、全部見てたから。今さら、かっこつけなくていい」
俺は、何も言えなかった。
「頼ってくれた方が、嬉しいんだけどな。私は」
里桜は、それだけ言って、弁当箱の蓋を閉めた。その耳が、少しだけ赤かった。
グラウンドから、後輩たちの声が、また遠く響いた。
* * *
受験当日は、快晴だった。
国立の体育大学のキャンパスは、電車を乗り継いで一時間半。見慣れない駅を降り、案内の看板に従って歩いた。右膝のサポーターの感触が、いつもより心地よかった。
試験は、思ったよりも静かに終わった。
手応えは、なかった。
帰りの電車の中で、里桜からメッセージが届いた。
『どうだった?』
『分からない。でも、やれることはやった』
『うん、それで十分だよ』
俺は、スマートフォンをポケットにしまって、窓の外を見た。
冬の夕暮れが、遠い山の稜線を赤く染めていた。
* * *
結果は、不合格だった。
開いた瞬間、一行目で全てが分かった。
ただ、静かな、重さがあった。
久保先生に連絡すると、「想定の範囲内だ。第二志望に切り替えろ」と、淡々と言われた。出願していた私立の体育大学の試験は、三週間後だった。
その夜、里桜からメッセージが届いた。
『結果、どうだった?』
しばらく、スマートフォンを握ったまま、何も打てなかった。
それから、短く送った。
『落ちた』
しばらくして、既読がついた
翌日の昼休み、里桜が教室に来た。何も言わずに、俺の机の隣に椅子を引いて座った。
いつもより、少しだけ近かった。
そして、自分の弁当箱から卵焼きを一切れ、俺の弁当箱の隅に、そっと乗せた。
「……何も言わないのか」
俺が言うと、里桜は弁当を食べながら、さらりと答えた。
「言うことないもん。次があるんでしょ」
励ましでも、慰めでもなく、ただ、隣にいた。
それだけで充分だった。
俺は、卵焼きを一口食べた。甘かった。
その日から、俺は切り替えた。
第二志望の私立は、英語の比重が高かった。
俺は、残り三週間を英語に集中した。
里桜は相変わらず、毎日昼休みに来た。何か言うわけでもなく、ただ、隣で弁当を食べた。それだけでよかった。
私立の受験当日は、曇りだった。
試験会場に入ると、第一志望の時と同じように、体育会系の学生たちが並んでいた。
だが今度は、緊張の種類が違った。
怖いのではない。
ただ、やりきりたかった。
試験が始まった。英語の問題を開いた瞬間、手が止まらなかった。
ペンを走らせた。
帰りの電車の中で、里桜からメッセージが届いた。
『どうだった?』
『悪くなかった』
『そっか』
それだけだった。
俺は、スマートフォンをポケットにしまって、窓の外を見た。
曇り空の向こうに、かすかに夕日の色が滲んでいた。
* * *
合格通知が届いたのは、二月の終わりだった。
朝、母さんが封筒を持って俺の部屋のドアを叩いた。
「悠人。来てるよ」
封筒を受け取った。手が、少し震えた。
開いた。
合格。
その二文字を、俺はしばらく、ただ見つめていた。
やがて、それが来た。静かに、じわりと、腹の底から。
一度、落ちた。
それでも、諦めなかった。
俺は、封筒をそっと机に置いた。
壁には、まだサッカー選手のポスターが貼ってある。古いスパイクが、机の隅にある。
何も変わっていないこの部屋で、何かが、確かに変わった。
夕食の席で、父さんに報告した。
「私立の体育大学、受かりました」
父さんは、箸を置いた。それから、少しだけ間を置いて、静かに言った。
「そうか。よかったな」
それだけだった。
だが、父さんの目が、いつもより少しだけ、細くなっていた。
遥が「やったじゃん、お兄ちゃん!」と声を上げ、母さんが「本当に良かった」と目を潤ませた。
俺は、照れくさくて、から揚げを一つ、余分に食べた。
その夜、里桜に電話した。呼び出し音が二回鳴って、すぐに繋がった。
「受かった」
少しの沈黙があった。
「……うん」
里桜の声が、少しだけ、震えていた。
「おめでとう。ずっと、信じてたよ」
「ああ」
それだけだった。
でも、電話を切った後、俺はしばらく、スマートフォンを握ったまま動けなかった。
一度落ちた時、返信が来なかった夜のことを、思い出した。
あの時、里桜は何も言わなかった。翌日、ただ隣に座って、卵焼きを乗せただけだった。
それが、何よりも、助かった。
俺は、スマートフォンを置いて、天井を見上げた。
冬が、終わろうとしていた。
グラウンドへ行かなくなった。分析ノートを広げなくなった。仲間からのメッセージには返事をするが、自分から連絡することはほとんどなくなった。
代わりに、机の上には問題集が三冊、積み上げられていた。
数学。英語。そして、体育大学の過去問。
久保先生が言った通り、穴は深かった。
特に数学は、入院前の記憶がそのまま止まっていて、そこから一年以上分がすっぽりと抜け落ちている。問題集を開くたびに、自分がどれだけ取り残されているかを、数字で突きつけられた。
朝五時に起きて机に向かい、夜まで勉強するだけの生活が続いた。
ある夜、俺は、両親を居間に呼んだ。
父さんと母さんが、向かいのソファに並んで座った。普段はこんな改まった場を作ることなどない。二人とも少し、緊張した顔をしていた。
俺は、正直に話した。
第一志望が不合格だった場合、三週間後に私立の体育大学も受験すること。学費は公立よりもかなり高くなること。
「……迷惑をかけます。でも、俺には、この道しかない。お願いします」
頭を下げた。
しばらく、沈黙があった。
最初に口を開いたのは、母さんだった。
「悠人、顔を上げなさい」
母さんは、目に涙をためていた。
「お金のことは心配しなくていい。悠人が、ちゃんと自分の道を決めてくれたことの方が、お母さんには、ずっと大事だから」
父さんは、何も言わなかった。
ただ、膝の上に置いた手を、一度だけ、固く握りしめた。
そして、静かに頷いた。
それだけだった。
「……ありがとう」
自然に、言葉が出た。
俺は、何も言い返せなかった。卵焼きを一口食べた父さんは、少しだけ目を細めて、また黙って頷いた。
* * *
十二月の半ば、里桜から短いメッセージが届いた。
『どう? 勉強、進んでる?』
『まあまあ』
嘘だった。数学の模擬問題で、また同じ箇所でつまずいていた。
しばらくして、返信が来た。
『嘘だ。顔に出てなくても、文章に出てる』
俺は、スマートフォンを伏せた。
こいつには、かなわない。
翌日の昼休み、里桜に「ごはん、中庭で食べない?」と誘われた。亜矢はその日、別の用があるとかで来なかった。最近、こういう時間が増えていた。
「見せて」
里桜が、俺の手元の問題集を、遠慮なく手に取った。
「……返せよ」
「数学、ここが苦手なんでしょ。この単元」
里桜は、付箋だらけのページを開きながら、さらりと言った。
「亜矢の彼氏、理系の大学生なんだけど、分からないところ聞いてみようか」
「……いらない」
「強がらなくていいのに」
俺は黙った。
里桜は、問題集を俺に返しながら、弁当の蓋を開けた。そして、何も言わずに、自分の弁当から卵焼きを一切れ、俺の弁当箱の隅に乗せた。
「……何してんだ」
「好きでしょ、卵焼き」
澄ました顔で言う。
「なんで知ってんだよ」
「見てたから」
それだけだった。
俺は、何も言い返せなかった。卵焼きを一口食べた。甘かった。
しばらく、二人とも黙って弁当を食べた。
冬の薄い日差しが、中庭に差し込んでいる。
グラウンドからは、後輩たちの練習の声が、遠く聞こえた。
「悠人、最近、独りで抱えすぎてる。また昔に戻ってる気がして」
里桜が、弁当を食べながら、ぽつりと言った。
「……違う」
「そう?」
「一人でやると決めてるんじゃない。一人でやれるか、試したいんだ」
里桜は、少しだけ考えてから、俺の方を向いた。
「それって、私には頼れないってこと?」
「……そういうわけじゃない」
「じゃあ、何」
「……お前の前では、ちゃんとしたいんだよ」
言ってから、耳が熱くなった。
目を逸らした。
里桜は、一瞬だけ目を丸くした。それから、少しだけ間を置いて、静かに言った。
「ばか。ちゃんとしてない悠人も、私は知ってるんだけど」
「……っ」
「病室で泣いてたとこも、リハビリで弱音吐いてたとこも、全部見てたから。今さら、かっこつけなくていい」
俺は、何も言えなかった。
「頼ってくれた方が、嬉しいんだけどな。私は」
里桜は、それだけ言って、弁当箱の蓋を閉めた。その耳が、少しだけ赤かった。
グラウンドから、後輩たちの声が、また遠く響いた。
* * *
受験当日は、快晴だった。
国立の体育大学のキャンパスは、電車を乗り継いで一時間半。見慣れない駅を降り、案内の看板に従って歩いた。右膝のサポーターの感触が、いつもより心地よかった。
試験は、思ったよりも静かに終わった。
手応えは、なかった。
帰りの電車の中で、里桜からメッセージが届いた。
『どうだった?』
『分からない。でも、やれることはやった』
『うん、それで十分だよ』
俺は、スマートフォンをポケットにしまって、窓の外を見た。
冬の夕暮れが、遠い山の稜線を赤く染めていた。
* * *
結果は、不合格だった。
開いた瞬間、一行目で全てが分かった。
ただ、静かな、重さがあった。
久保先生に連絡すると、「想定の範囲内だ。第二志望に切り替えろ」と、淡々と言われた。出願していた私立の体育大学の試験は、三週間後だった。
その夜、里桜からメッセージが届いた。
『結果、どうだった?』
しばらく、スマートフォンを握ったまま、何も打てなかった。
それから、短く送った。
『落ちた』
しばらくして、既読がついた
翌日の昼休み、里桜が教室に来た。何も言わずに、俺の机の隣に椅子を引いて座った。
いつもより、少しだけ近かった。
そして、自分の弁当箱から卵焼きを一切れ、俺の弁当箱の隅に、そっと乗せた。
「……何も言わないのか」
俺が言うと、里桜は弁当を食べながら、さらりと答えた。
「言うことないもん。次があるんでしょ」
励ましでも、慰めでもなく、ただ、隣にいた。
それだけで充分だった。
俺は、卵焼きを一口食べた。甘かった。
その日から、俺は切り替えた。
第二志望の私立は、英語の比重が高かった。
俺は、残り三週間を英語に集中した。
里桜は相変わらず、毎日昼休みに来た。何か言うわけでもなく、ただ、隣で弁当を食べた。それだけでよかった。
私立の受験当日は、曇りだった。
試験会場に入ると、第一志望の時と同じように、体育会系の学生たちが並んでいた。
だが今度は、緊張の種類が違った。
怖いのではない。
ただ、やりきりたかった。
試験が始まった。英語の問題を開いた瞬間、手が止まらなかった。
ペンを走らせた。
帰りの電車の中で、里桜からメッセージが届いた。
『どうだった?』
『悪くなかった』
『そっか』
それだけだった。
俺は、スマートフォンをポケットにしまって、窓の外を見た。
曇り空の向こうに、かすかに夕日の色が滲んでいた。
* * *
合格通知が届いたのは、二月の終わりだった。
朝、母さんが封筒を持って俺の部屋のドアを叩いた。
「悠人。来てるよ」
封筒を受け取った。手が、少し震えた。
開いた。
合格。
その二文字を、俺はしばらく、ただ見つめていた。
やがて、それが来た。静かに、じわりと、腹の底から。
一度、落ちた。
それでも、諦めなかった。
俺は、封筒をそっと机に置いた。
壁には、まだサッカー選手のポスターが貼ってある。古いスパイクが、机の隅にある。
何も変わっていないこの部屋で、何かが、確かに変わった。
夕食の席で、父さんに報告した。
「私立の体育大学、受かりました」
父さんは、箸を置いた。それから、少しだけ間を置いて、静かに言った。
「そうか。よかったな」
それだけだった。
だが、父さんの目が、いつもより少しだけ、細くなっていた。
遥が「やったじゃん、お兄ちゃん!」と声を上げ、母さんが「本当に良かった」と目を潤ませた。
俺は、照れくさくて、から揚げを一つ、余分に食べた。
その夜、里桜に電話した。呼び出し音が二回鳴って、すぐに繋がった。
「受かった」
少しの沈黙があった。
「……うん」
里桜の声が、少しだけ、震えていた。
「おめでとう。ずっと、信じてたよ」
「ああ」
それだけだった。
でも、電話を切った後、俺はしばらく、スマートフォンを握ったまま動けなかった。
一度落ちた時、返信が来なかった夜のことを、思い出した。
あの時、里桜は何も言わなかった。翌日、ただ隣に座って、卵焼きを乗せただけだった。
それが、何よりも、助かった。
俺は、スマートフォンを置いて、天井を見上げた。
冬が、終わろうとしていた。
